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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第1章 詩――あるいは蛇について
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中州

 まだ涼しい三月のうちに僕は近所を散歩して土地勘を養った。あまり真剣な強迫観念ではないのけど、家の近くで迷子になるのは御免だし、頭の中の地図に空白があるというのは落ち着かないものだと思う。いつも通る交差点を別の路地へ入って行ったらどこへ繋がるのか、気になるじゃないか。薬局や文具屋や、生活費を遣り繰りする郵便局までの動線と、特にスーパーはいくつか目星をつけておいて個々の性格を把握した。牛乳の安い店、魚の活きのいい店、パンの品揃えのいい店。

 ある日には自転車を使って少し遠出をした。天気のいい日だった。冷たい空気が日差しをよく冷やしていた。隅田川沿いに南に行って、まず墨田水門の辺りから景色を眺めた。土手に上がると案外遠くまで見通せて、なるほどこれは川と高架の街だと思った。対岸は視界の端から端まで広い河川敷だし、左手に314号の道路橋と京成線の線路橋があって、頭上の向島線の赤い高架がそのまま川を渡って堀切ジャンクションで中央環状と交わっている。首都高の高架は生物的にくねり、合流と分岐を繰り返しながら堤防に沿って延々と続いている。その上をトラックのコンテナの頭が滑っていく。大型車両ばっかりだ。京成の線路の下に来ると電車が来る度に地面が震えた。

 それから荒川の河原を右に見ながら北に走り、少しだけ埼玉県を通って岩淵水門の手前まで到達した。僕はそこで自転車を立てて草の斜面に下り、チューブ入りのゼリーを食べながら取水塔や水門などの景色を眺めた。そして少しだけ家に帰れるのか不安になった。何せ結構な距離を走ってきたから。毎朝自転車で通勤しているという人にしてみれば鼻で笑われるような距離かもしれない。でも僕は運動は得意じゃないし、少なくとも好んで自転車で遠出をする人間ではなかった。陸伝いに上流の果てまで来て、先にはまだ隅田川を渡る方へ架けられた橋があったけれど、これ以上先には行けないという気がした。僕という最もしみったれたアレキサンダー大王にとってはそこが世界の果てだった。

 その夜はなぜかポリネシアの小さな島で床上浸水に居合わせる夢を見た。僕は事態解決のために送り込まれた科学者という役で、僕の知らない言語で何かと不満をぶつけてくる現地の住民たちに「はあ」とか「へえ」とか生返事をしながら、レンチを掴んでせっせと水道管のバルブを締め続けるのだ。一つのバルブを締め終えると、重たい工具箱を肩に担いで、膝まである水を蹴りながら次のバルブに向かう。するとそこでもやっぱり住民たちがなんやかんやと僕を取り巻いて騒ぎ立てる。その繰り返しだった。どこでその夢が終わったのかよく憶えていない。そのあと全然違う世界観を持った別の夢を見たような気もするのだけど、その内容も全く思い出せなかった。

 他にも時折だが色々と怖ろしい夢を見る。そこでは色彩や雰囲気の暗さはあまりない。僕はただ焦りを、時間の流れる速さについていけないように感じる。僕は一人ではない。知り合いが多くいるように思う。彼らは時間の流れに適応している。僕だけが焦っている。そして何者かに追いつかれる。

 高いところから落ちたような衝撃の感覚とともに僕は汗みずくで目を覚まし、ベッドを出てシャワーを浴びる。脱衣室に上がって鏡を見る。首筋に三日月形の赤い痕が残っている。僕は思い切り顎を引いて肩を上げ、どこまで首に近いところを自分で咬めるか試してみた。だいたい鎖骨の先端あたりが限界だ。傷痕はそれよりずっと内側にあった。ほとんど鎖骨の付け根だ。毒が、蛇の毒が全身に回っているのを感じた。それは、もう、再び蛇の唾液に触れるまでは癒えないのだろう。彼女は自分の中に流れている毒に興味を持ちすぎたのだ。それを誰か獲物で試さずにはいられなかったのだ。


 僕は古いお小遣いを集めて秋葉原で七万円くらいのNECのノートパソコンを買った。つやつやと赤い背中をしたビスタ搭載のデュアルコア。夜中までかけてセットアップを終え、次の朝フェイスブックでアカウントを取って狭霧を探した。彼女のタイムラインにはイギリスの牧草地や林や瑞々しい――悪く言えば湿っぽい――風景の写真、いくつか英語で書いた投稿があって、そこに英語の名前たちが「いいね」をつけていた。僕は上級生の教室に入っていく時みたいに少々緊張しながらダイレクトメールを打って新しい住所を教えた。

 返事はなかなか来なかった。三日待ち、一週間待ち、その間に雨の日も嵐の日も、また晴れの日もあったけれど、そして二週間経って毎朝のチェックをやめようとした時、やっと届いた。そのメールは英語で書かれていた。

 この節で第一章は終わり、新しい章が始まる。「僕」は高校生になる。舞台が変わり、登場人物もがらりと入れ替わる。大勢の新しい人々が登場し、第一章の人々は去り、姿を見せなくなる。

 一本の物語の中にそこまで徹底した断絶は必要ではないかもしれない。でも思い出してほしい。中学から高校へ上がったあと、あるいは高校から大学へ上がったあと、自分がどれだけの新しい人々に出合ったか。そしてその新しい人間関係の中に適応していったか。

 その断絶はおそらく、遡って「僕」と狭霧の縁を稀有なものにするために機能しているんじゃないだろうか。

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