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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第1章 詩――あるいは蛇について
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ある女優のワルシャワ

 皿洗いは僕が請け負って、絹江さんはその間ソファに座っていた。十九時くらいだ。僕が流しの水を止めて歩いて行くと絹江さんは目を瞑っていた。その姿は不気味なほど無防備だった。おそらく眠っていたのだろう。やはりそれなりに疲れているのだ。束の間、僕の気配に気づいて目を開けた。立ち上がって「お手洗いってどこかしら」と訊く。

「廊下に出てすぐ右の扉です」僕は答えた。

「借りるわね」絹江さんは廊下に出てリビングの扉を閉める。

 残った僕はテレビをつけた。なんとなく気を紛らわせたかった。リモコンでチャンネルを回してできるだけ知的な番組を探した。

 その番組で指を止めたのは画面の雰囲気が特異だったからだ。色彩のせいだ。ほとんどモノクロの映像だった。

 一人の女優がカメラを先導してワルシャワの路地を歩いていた。建物の壁や路面の石畳は霧に濡れて石炭のように光沢を纏っている。雲が教会の尖塔に触れそうなほど低く、空は一面に灰色をしている。色彩のない世界だ。その中で彼女は透き通るような青のコートを着ている。まるでそこだけに強い光が投げかけられているかのように。彼女は目が合った人々に「こんにちは(デイン・ドーブルィ)」と小声で会釈する。それは愛想や人々への親しみよりも彼女の心にある怯えを表しているように思える。ポーランドに来るのが初めてなのかもしれない。あるいはまだ街中で撮影を始めて間もないのかもしれない。

 やがて往来の盛んな通りに出て市電に乗り、橋を渡る。向かいを走るトラックは犬のような容貌のボンネットタイプで、鼻先に丸い目があり、車体はどこも分厚く頑丈にできている。乗用車は日本製もちらほら見える。街には人の営みと文明と煤の匂いが低く垂れ込めている。女優は市電の窓の桟に手をかけて(それはとても微妙な力加減だった)、カメラに少し上向きの横顔を向けたまま街の所感を語った。

「ずっと触れられなかった人の過去を開いたような、」と彼女は表現する。「きっと本やテレビ越しに見るばかりだったからそう感じるのでしょうね。その場に来て初めて感じる空気、匂い。それは私には異質ですけど、でも決して受け入れがたいものではなくて、温かみがあり……」

 番組は日本とポーランドの交流を記念した連作特番の二作目だった。先ほどの女優が現地を巡りながら司会を務める。背景音楽はショパンで占められていて、エチュードの作品十の第一番と第十二番「革命」、ロマン・ポランスキの『戦場のピアニスト』で使われたノクターン第二十番は僕にもわかった。

 絹江さんはリビングの戸口に立ったままアオサギみたいにじっとしばらく画面を眺めて、それから何も言わずにソファに座った。

「変わった雰囲気の番組ね」と絹江さん。

「嫌いですか」

「いいえ。全然構わない。彼女、ハマリ役よ」

「彼女?」

「そう、彼女」絹江さんは指を鳴らすみたいな仕草で画面の中の女優を指差した。「物静かで、思慮深い。それに、あまり知られてないけど、歌を出してるのね。その詩を自分で書くの。少し暗いけど、悪くない」

 女優は世界文化遺産に登録されている歴史地区にやってくる。カメラが建物の色合いに注目する。建物のあちこちに色の異なる石材が嵌めこまれていて、まるでデータが破損してところどころきちんとした色が表示できていないみたいな感じだ。そしてその通りだった。ワルシャワは一九四四年の蜂起のあと報復としてナチスに徹底的に破壊された。迫撃砲や爆弾が建造物を尽く崩した。地下壕から埃まみれになって這い出した住民たちは瓦礫の海の中から石材を探り当て、ひとつひとつ元の建物の元の位置に直した。それが可能だったのは破壊の前にあらゆる建物の詳細な情報を書き留めておいたからだ。建物の三面図を引き、柱のレリーフをスケッチした。有志の人々がそれを懐に隠して地下に潜った。どうしても見つからない部品は仕方なく新調した。それが色の異なる部分だ。焼けていないから白い。再建された地区に設計の新しい建物はない。だから復興ではなく復元だといわれている。

 女優は王宮前の広場に立ってカメラ手前にある太陽に目を細める。ここが最後に再建された場所だと紹介する。そこでゲストを迎える。資料保存を担当する年配の男性で、恰幅がよく白髪の生え際が頭頂部に迫っていて、三角定規みたいに突き出た鼻をしている。

 「王宮は本当ならば不屈のポーランドの象徴として真っ先に再建されるべきでした それがなぜ後回しにされたかわかりますか」

 画面下に白い字幕が出る。彼が訊くと女優はカメラの手前に居る通訳に顔を向ける。通訳の発話はカットされる。女優は相槌を打って答える。

「ツェムー(なぜですか)?」

 「ソ連が禁じたからです 社会主義にとって王宮は忌避すべき君主制の象徴でした ソ連が王宮の再建を許したのは一九七一年 社会主義はあまりに多くのものに怯えていることが自分のためにならないとようやく気付いたのです それまで王宮は破壊されたままの姿で放置されていました」

 彼が女優を地区の倉庫へ連れていく。戦争当時は実際に地下壕として使われていた部屋だという。数々の資料がキャビネットの中の無数のフォルダに仕分けられ、大きいものは巻いて筒に収められている。資料番の彼は大きな作業台の上にその中の一枚を広げて見せる。

 「日本もアメリカとの戦争で多くの都市にたいへんな爆撃を受けましたね 破壊された貴重な建物や街並みを元通りにしようという試みはありましたか?」

「ええと、どうでしょう。以前のものをその通りにつくるより、新しいものに置き換えることを進めたと思います。日本の街はほとんどの建物が木造だし、アメリカ軍は焼夷弾を使ったから、崩されるというより焼かれたのです。燃え尽きて元の通りに建材として役に立たなくなってしまった瓦礫がほとんどだった」

 女優が考えながらゆっくり言うと、資料番は通訳の方へ顔を向けて細かく頷いた。哀れみを込めて眉根を額の真中の方へ引っ張り上げていた。

 「我々のところでも見つからない部分は新しく作って嵌め込み それを復元といっていますが 日本で同じことをすると新規部分の方が多くなるので復元というよりは再現になってしまうのですね」

「そうかもしれません。確かに、当時から文化財と考えられていたものの中には再建されたものもありますね。例えば名古屋城の天守閣がそうです。これはもともとがやはり木造で、戦争中に空襲で焼失したのを五〇年代の最後に再建したんです。でもその時、構造は鉄筋コンクリートに改められた。そしてこれが興味深いことなんですが、再建された建物にある屏風や襖などもレプリカなんです。一部のオリジナルは現存しています。空襲を覚悟した関係者たちが疎開させて焼失を免れたからです。でもあえて戻さなかった」

 「なぜですか?」

「やはりレプリカはレプリカだからです。オリジナルの戻るべき場所ではない。順当に時を経た姿と、最も華美だった時の姿と、それが別々に共存していて構わないということになったんでしょうね。過去の再現と現在、二つの在り方が共存はできるが一体にはなれないということだと思います」

 資料番は女優の言ったことを確認して、それから顎に手を当てて何度か頷いた。その言葉は字幕にはなっていなかった。

 「原爆ドームはどうですか 広島にあるものでしたね 聞いたことがあります」

「ご存知なんですね」

 「もちろんです」資料番は通訳を待たずに答えた。

「原爆ドームは確かに貴重な建物ですね。でも原爆の威力を受けたままの姿で保存されています。オリジナル。地震で倒れないように補強しているから全く本来の姿ではないのだけど、それはあくまで今の姿を保つための対処なんです」

 「なるほど 戦争の記憶を伝えることがその役割なのですね」

「そうです。さっき私は以前のとおりにするより新しくと言いましたけど、日本は敗戦国だから、戦争の罪を濯いで新しく生まれる必要があって、戦前の帝国時代の建物の復元はその流れに逆らうことだ、という考えだったのだと思います。それでも歴史を消し去るということはできないし、その試みはナチスがホロコーストを隠蔽したようにまた別の罪なのだと。残すべきものはやはり残すべきで、それには時代や信念に囚われない公平な視点が必要でしょう」

 画面の左上に番組のアイキャッチが表示され記録映像に切り替わる。よくある白黒のフィルムだ。

「ポーランドに行ったことある?」絹江さんが訊いた。僕と彼女はL字に置かれた二脚のソファのそれぞれに分かれて座ってテレビを見ていた。

「いいえ。ないですね。海外に行ったことがないんです。そもそもあまり旅行に行く習慣のない家でしたから、長い休みに入っても近場に出掛けるのがほとんどで。絹江さんはどうですか?」

「私もない。海外も一度だけね」

「旅行好きなのかと思いました」

「旅行は好きだけど、でも旅行そのものというよりも、ドライブかしら。だからほとんど国内になってしまうの」

「ええ、わかります」

「時々遠出をしたくなるの」

「気晴らしに?」

 絹江さんは天井を見上げる。

「きっと確認したくなるのよ。そこに住み続けるのと、そこに居続けるのとは別のことだと」

「住むと居る」

「そう」

「住んでいるだけなら時々留守にしてもいいけど、居続けるというのは、そうではなくて」

「そうね。例えば、牧場をやっている人はそこに居続けなければならないわね。ちょっと旅行へ行くからって、数日分餌を作り置きしておいても、動物たちは一回で全部食べてしまうわね。もちろん餌やりだけが世話でもないけれど、ただ、あの家には住人が必要だという話だから、時々そんな、牧場主のような気持ちになってしまうのよ。私は定められてここに居るんだって。でも違うの。決して囚われているわけではない」

「絹江さんは小さい時はあの家に住んでいたんですか」

「そう。でも勤め始めるのと同時に家を出て、それから恋しいと感じたことはあまりなかったように思うわね」

 狭霧もあの家で育った。囚われていたとか、出ていきたいとは思っていなかったはずだ。逆に、残れるなら一人でもあの家に住み続けたいと思っていた。


女優は役者です。番組の中では本人ですが、物語的には作中のある人物を演じているのです。少なくとも演じることができる。女優の名前を伏せているのもそれを容易にするためです。もっとも「ある人物」なんて仄めかす必要もないかもしれませんが。

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