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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第1章 詩――あるいは蛇について
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雨の柴谷邸、セミの落書き、ルートを繋ぐ

思ってもごらんなさい、左官と大工と指物師と漆喰屋さんの一隊が、てんでに冒涜の道具を携えて、このような過去の中へ乗りこみ、一週間もたたないうちにきみが見も知らない家、きみがよその家へ訪問に来ているとしか思えないような家に改造してしまったとしたら、いったいどうだろう? 


――「オアシス」

 サン=テグジュペリ『人間の土地』(堀口大學訳)より

 いつもより一駅手前で電車を降りて、古い住宅街を一人歩く。道が直交している交差点はほとんどない。Y字路や五叉路から伸びた道が複雑に絡んだ網目を形成している。住宅はそれぞれ色や透かしの異なるブロック塀で敷地を囲って、所々に古い選挙看板や胡散臭い広告を貼り付けたままにしている。来た道を戻れるように時々振り向いて景色を覚えておく。そうでもしないといつの間にか全然知らない街に行きついてしまいそうな気がした。前にも後ろにも人影はない。僕は一人だった。

 やがて狭霧の家に辿り着く。敷地の少し引っ込んだ所に屋根付きの立派な門が建っていて、扉は車の通れる幅と高さがあって、人が出入りするのに一回り小さい扉が右側の門扉についていた。どちらも太い杉材で造られていて、格子の間から庭の様子や玄関まで石が敷かれているのが窺えた。

 門の下に入って一度傘をつぼめる。軒が広いので地面は濡れていない。傘を立てると玉砂利の洗い出しに水の染みが広がった。そして呼び鈴。家の中で音が響くのが小さく聞こえる。びくびくしながら返事を待つ。誰が出るのかこちらからはわからない。その人が今どんな気分なのかも窺えない。僕は言うべきことを用意してここまで来たけれど、相手にとっては突然の訪問だ。

「はい」とインターホンから平板な声。

「ミシロです。狭霧さんに今週分のプリントを」僕はなんとか噛まずに声を吹きこんだ。

「ミシロ?」

「あっ、本人か」

「狭霧です」

 喋り方や僕に対する反応、それは確かに狭霧のものだった。ただインターホン越しの声そのものは、狭霧の声のようにも、別の誰かの声のようにも聞こえた。

「プリント持ってきたんだ」僕は言った。

「入って。そこは開いてるから」

 相手の声の後ろにあったさらさらした雑音が消えて通話が切れる。大きく吸って、重たい息と一緒に緊張を吐き出す。でも吐き出したそばから新しい緊張が浸み出して喉の奥に痰みたいに溜まっていく。

 通用扉を引いて門をくぐり、つるつるした敷き石の上を玄関に向かって歩いていく。右手に水色のホンダ・フィット。狭霧は開いた引き戸に寄りかかって髪に手櫛を通しながら待っていた。白いワンピースタイプの部屋着にサンダルをつっかけている。肌が青白く、瞼が眠たそうに下がっていた。

「こんな恰好でごめんね」と腕を広げて見せる。

 僕は首を振った。学校にいると制服を着ている姿しか見られない。純粋に新鮮だと思った。

「ミシロが来てくれると思わなかった」

「誰が来ると思ったの?」

「うーん……」狭霧は片目を細めて視線を斜め上に逸らした。

 僕は傘の水気を払う。玄関に入って内側から引き戸を閉める。傘と鞄を土間に置いて先生から頼まれたものを探す。

 狭霧は床に上がって踵座する。その所作が右手の壁に立てかけられた姿見に映った。鏡越しに廊下の先の縁側まで見通せた。

 ああ、あった。表に学校の銘が刷られた角二の茶封筒を渡す。それから一緒にファイルに入れておいた授業プリントの束を狭霧の膝の横に置く。

「何か重要な連絡?」狭霧は封筒の中身を出しながら訊く。

「別に。学年通信と保護者アンケートくらい。だけど量が溜まったから」

「保護者アンケートか」狭霧はむうっと小さく唸った。

「ん?」

「ううん、平気」

「お母さんは?」

「今いないの。まだ帰ってこないと思う」

 それは意外だった。車はあるのに。

 でも僕は黙って頷く。それから一回り小さい長三号封筒を渡す。こちらは無地だ。

「これは?」

「月曜日の時間割。平川が書いてくれた。あとみんなから応援メッセージ」

 時間割表の余白にクラスメートがカラーのボールペンで好き勝手に書き込みをしたものだ。それがあって帰りの会のあとみんなが教卓に群がるので、僕は先生や友達と話をして待っていなければいけなかった。落書きが済んだところで時間割表を見ると、国語の単元がちょうど「奥の細道」の最中だったせいでセミやセミの抜け殻がいっぱい描いてあった。「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という句だ。色々な人が描いたので、可愛らしいのもあったけれど、テントウムシかカナブンにしか見えないのや怪獣みたいのも混じっていた。狭霧はそれを見て笑窪を作った。左右で位置の違う笑窪だった。

「調子は?」僕は訊いた。エナメル鞄の上面をタオルで適当に拭いながら、それに集中している振りをして相手の顔は見なかった。

「うん、大丈夫。月曜には行けると思うよ」狭霧は先生が話したのと同じことを言った。

「お医者さんには行ったの?」

「行ったよ。それでお薬も貰ったし、だいぶ良くなったの。だから来週は大丈夫」

「平気?」

「うん」狭霧は素早く肯く。

「そう、それはよかった」

 僕はそこで鞄を拭きながら次に何を言うか色々考えた。病院が遠くなかったか、とか、どこの具合が悪かったのか、とか。けれどどれも踏み込み過ぎな質問のような気がした。僕が黙っている間、狭霧はぼんやりした目で土間のタイルの溝を見つめていた。心が沖ノ鳥島くらい遠くに飛んでいっているような感じだった。

「柴谷」と、声が届くのか不安だったけれど僕は呼んだ。

「ん?」

「そうだ。ノートを見せてやるようにって先生から頼まれたんだ。国語と数学と地理なら今あるから」僕は鞄からノートを三冊を取り出して、科目名が見えるように床に重ねて並べた。

「いいの?」

「全然。家では勉強しないことにしているんだ」

「本当?」

「テスト前以外は、しない。明日残りの分も持ってくるから」

「明日?」

「うん、週末の間にやっておいた方がいいよ。月曜になって取り残された気分になるのは嫌だろうし。お節介かな」

「ううん、全然」

 狭霧はそう言って、ノートの上に置いた僕の手と、それから腕を見て何かに気づいた。

「あ、寒くない? 私ったらお客さんに気も使わないで」

「いいよいいよ。どうせまた濡れていかなきゃいけないから」

 僕は鞄を閉めて斜めに背負い、傘を持って立ち上がる。

「今日はありがとね。わざわざこんな雨の中」と狭霧。彼女も僕に合わせて立ち上がる。

「ううん。それじゃあまた明日。お大事に」

 門を出るところで振り返ると、狭霧はまだ引き戸を開けたまま立っていて小さく手を振った。僕も手を振り返した。

 僕は駅には戻らずに方角頼みで自宅を目指した。その方法でも帰れるような気持ちになっていた。アスファルトの窪みに水が溜まり、傾斜のあるところには川の浅瀬のような急流ができている。鳥の鳴き声も聞こえない。見知らぬ街角が右左に続き、その度に全く別の景色が目の前に現れる。でもそれは決められたパターンの組み合わせを変えただけのようにどことない既視感を与える。ABC、ADF、BCF……。進めば進むほど迷宮の奥へ落ちていく。

 狭霧は今どうしているだろう。プリントに目を通している? そうだとして、座っているだろうか、横になっているだろうか。僕のことは思い出していない? 何か言い足りないことがあったんじゃないか。そんな懸念がスライドのようにぐるぐると頭の中を巡った。

 そのうち小学生時代によく通った道にうまく出くわした。これで一安心、帰れる。頭の中に広げた地図の上に僕の家と狭霧の家を繋ぐルートが開通する。まるで両岸から建設を始めて伸ばした橋が最後に真ん中でぴったりくっついたような。

 自転車なら十分くらいの道のりだろうか。ただ急な坂が三か所あって、行きと帰りではかなり勝手が違うだろうなと思った。

この作品はサンテグジュペリの『人間の土地』をひとつのモチーフにしています。ここで引用した「オアシス」は何より人間の住居に目を向けた一節ではあるのですが、南米のほぼ最南端、プンタ・アレナスで出会った二人の姉妹を引き合いに出して、いつか必ず消えゆく少女性の儚さにも言及しています。

 あるいは僕は『星の王子さま』よりも彼の俯瞰的な視座が遺憾なく発揮される『人間の土地』の方が好きかもしれない。

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