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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第1章 詩――あるいは蛇について
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グラデーション、留まるための逆行

「まずは、おめでとう。いい高校に受かったって聞いたわ」廊下を歩きながら絹江さんは僕の後ろで言った。

「ええ、ありがとうございます」僕は半分振り返った。

「半年ぶり、ということになるかしら」

「おそらく」

「しばらく見ない間に髪が伸びたわね」

「そうでしょうか」

「そうよ。前はせいぜい目にかかるくらいだったもの」

「絹江さんは変わってないです。元気そうでよかった」

 絹江さんは少し上機嫌そうに頷いた。

 鍵を開ける。客人を先に通すのが礼儀なのだろうけど、僕はあいにく手が塞がっていて扉を開けておけなかった。客人は僕のために扉を押さえてくれた。

「すみません」と言って僕は先に入る。

「お邪魔します」と言って絹江さんは扉を閉める。靴を脱ぐ。黒い、かなりハードデューティなデザインのブーツだった。

 僕は暗い廊下を抜けてひとまず買い物袋をテーブルの上に置いた。

「そんなにたくさん何を買ったの?」絹江さんは訊いた。「ずっと気になっていたんだけど」

「じゃがいもの特売だったんです。とにかく蒸かしておけばいろいろできるし。あとは、にんじんときゅうりとベーコン、挽肉、チーズ」

「ポテトサラダ、ジャーマンポテト、コロッケ。…チーズ? マッシュにしたらラクレットにはならないわよね?」

 部屋の明かりをつけて時計を見る。十七時を回っていた。

 僕は袋の中身を出して冷蔵庫に仕舞った。

「これ、青森で買ったお弁当。何かもっとお土産らしいものがあればよかったんだけど。悪いけど今日の夕ご飯にして。ちょっと足が早いの」

 絹江さんは片手にさげていたレジ袋を僕に差し出した。中に駅弁のような厚紙に包まれた箱が入っている。

「気にしないでください」

「いいのよ」

 僕はペットボトルの緑茶を開けてグラスに注いだ。氷を入れるような気温じゃない。

「青森はどうでしたか」

「よかったわよ。そうね、どこもかしこもだだっ広くて、草原も、森も。何も遮るものがないの。走っても走ってもそんな景色がずうっと続いていて、世界の果てまでこんな景色が広がっているんだろうなって思えるのよ」

「それはちょっと寂しいかもしれません」

「そうね。寂しいかもしれない。でも、それがいいのよ。普段の生活では他人から完全に離れることはできないもの。寂しさだって、たまにはいいものよ。甘いものばかりじゃなくて、時には渋いお茶だって飲みたくなるのと同じ」

 絹江さんは椅子に座って僕の出した緑茶をぐびぐびと飲み干した。僕は仕舞いかけていたペットボトルをもう一度開けて彼女のグラスにもう一杯入れた。

「ありがとう。案外喉が渇いてたのね」絹江さんはまた半分ほど飲んで息をついた。それから、「一人でやっていると不自由することも何かあるでしょう?」と彼女は訊いた。たぶんそれを僕に訊くのが僕の部屋へ来た目的だったのだろうと思う。

「献立を考えるのは面倒だけど、それくらいですよ。洗濯も掃除も好きだし」

「周りの部屋はうるさくない?」

「いいえ。ほとんど誰もいないみたいに静かですよ」

「壁が厚いのね」

 僕は座って緑茶を飲みながら少し考えた。なぜ絹江さんが僕の心配をしてくれるのだろう。ひとつには彼女もまた長く一人暮らしを続けているからだろう。僕が何かを相談するなら絹江さんより良心が先だろう。でも一人暮らし特有の問題なら絹江さんは僕の両親より的確なアドバイスができるかもしれない。彼女にもそういう自負があるのかもしれない。

「あなたが一人暮らしを始めることとか、それが北千住だということは聞いていたけど、とても立派なマンションだから驚いたわね」

「僕が持ってる部屋じゃないですよ」

「両親が借りているの?」

「いえ、伯父の所有なんです。それを借りてる」

「ふうん。所有、か」

「伯父さんはここには住んでいるわけではなくて、和歌山にいるんです。昔、仕事で東京に来ることが多くて、こっちにも泊まる場所があった方がいいだろうって。でも部署が変わって、仕事も変わって、めっきり使わなくなってしまった」

「でも売らなかった」

「はい」

「泊まる場所にしてはいささか充実してないかしら」

 絹江さんはテレビの前に屈んだ。三十インチのブラウン管。三菱製。スイッチのカバーを開いて「九六年製」と呟く。

「あなたの伯父さんがこの部屋を買ったのってもしかしてバブルの頃? もう少し後かしら」

「うん。僕が生まれた頃だと思います」

「景気がいい時にきちんと貯めて、そのあと不動産の価値が暴落したところで家を買う。商売にはならないけど、自分のために買うならそんなにいいタイミングはないわね」

「はい」

「伯父さんはどんな仕事をしているの?」

「FRPのプレスを」

「FRP、繊維強化プラスチック」

 そうか、FRPは自動車の外装にも使われることがある。絹江さんが知っているわけだ。

「こういう大きな板を機械で挟んで、例えばバスタブをいっぺんに打ち出す。見てると面白いですよ。スナック菓子みたいにぽんぽんできる」僕は言った。

「へえ。伯父さんはバスタブの工場を持ってるんだ」

「工場は持ってないけど、工場を持ってる会社でプレス機の管理とかをしてるんです。昔は住宅設備のメーカと会議やなんかがあってこっちに来ていたんだと思います」

「和歌山じゃ遠いし交通の便もないものね。でも、それならどうして和歌山なんかに工場を?」

「伯父さんの会社ははじめからバスタブをぽんぽん造ってたわけじゃないんです。もともとマグロ漁船の部品をつくる会社だった。だけど一時から遠洋漁業に出る船がどんどん減ってやっていけなくなりそうになったから、別のものに手を出した。そのうちの一つがバスタブなんです。他にもいろいろ作ってますよ。ベンチとかヘルメットとか」

「港が近いから輸送コストはかからないんだ」絹江さんは納得した。「家賃は払うの?」

「いえ。そういう話にはなりませんでした。ただ、一日一枚レコードを磨いてくれって。それでいいからって」

「レコード」絹江さんは呟いてテレビの周りのガラス棚を見渡した。「これ全部レコードか」

「そうなんです」

「ああそうか、このコレクションを残しておきたくて部屋を売らずにおいてるのね」

「たぶん。はっきりとは言ってませんでしたけど。家族にも黙ってるのかな」

「じゃあ彼は比較的快く貸してくれたのね」

「貸すというか、管理人を任せるようなものです。確かに、やぶさかではなさそうでした。あ、あと光熱費の請求をこっちに移してもらう手続きが面倒くさそうだっただけで。一人暮らしも、したいならすればいいって。親は渋りましたけど」

「あなたの一人暮らしに?」

「はい」

「それはそうでしょうね」

「ただ単に生活空間が離れるから心配が増えるってだけのことじゃないんです。僕の姉は高校もろくに行かなかったですから、僕を中高一貫校に入れたのは安心したかったからでしょう。きちんと大学まで行くように手元に置いておきたかったんですよ」

「説得するのは大変だったわね」

「はい。だから必ず大学に進むという約束で、高校も進学校、進学率ほぼ百パーセントのところでなければ話にならなかった」

「生半可なところでは高卒で就職というのもありうる」

「そう」

 絹江さんはソファに座って綺麗に脚を組み、膝の上に手を組んで親指を糸車のようにぐるぐる回した。それから言った。

「でもそれってきっとお堅い考えだと思うわね。大卒だからって未来を約束されるご時世でもないもの。国立大を出てフリーターや契約社員や就職浪人をやっている人間だってごろごろいるし、その一方で高卒で国家公務員二種取ってお役所で温もっている人間もいる」

「本当?」僕はぞっとしながら訊いた。

「聞いた話だけれど、根も葉もない噂ではないわね。ひと月かふた月前、就職支援のエージェントで働いてる知り合いと飲んだ時に聞いたの」

「高卒で国家公務員なんて、特殊な例じゃないんでしょうか」

「もちろん割合でいったらまだ大卒の方が安全だろうし、全体の職の質からして給与平均もずっと上でしょう。ただ、結局は個人の技量なのよ。将来高給取りになる賢さを持っている人間はだいたい大学に行く。だいたいの中に含まれない残りの少数は別の道を選ぶ。もしかしたらそこには普通に賢い人間よりもっと賢い人間がいて、そういう人間が大学に通うより早く就職して高い給料を獲得する方法を思いついて高卒の成功者になってるのかもしれない。大卒だから、高卒だからという尺度は本当は存在しないの。そんな完璧に分別できる境界なんてない」

「もっと微妙で、幅の広い境界、グラデーション」

「そう。グラデーション」絹江さんは頷いた。「あなたはどちらかというと、高校のために一人立ちしたわけじゃなくて、一人立ちのために高校を選んだみたいね」

「本心はそうなんだと思います。親には高校のためだって説明しましたけど、でも家族のことが嫌いで一緒に暮らしてるのが苦痛だから一人暮らしがしたいなんて、そんなわけではないんです」

「うん、うん、それはわかるわよ」

 絹江さんはもう一度レコードの棚を眺めた。

「あなたに預けた飛行機ね」とウェストランド・ワイバーンの模型を見つける。

「ああ、はい。結局同じような場所に収まってます」

 僕はその模型を実家に持って帰ったあと、引っ越しの時までズックに入れたまま隠すように保管していた。この部屋に来て初めて飾る場所を考えたけれど、埃と直射日光を避けられるのはレコードの棚しかなかった。

「それにしても、これだけ多いと一年に一度磨けるかわからないわね」

「はい。でも日に二枚磨いてしまうのはもったいないような気がするんです。そのレコードにも、その一日にも」僕はそう言って扉を開き、今日の分のレコードを抜き出した。

「ああ、これは知ってるわ」と絹江さん。

 僕が取り出したのはビリー・ジョエルの『アン・イノセント・マン』だった。一九八三年のアルバムだ。僕はカバーから出したその真っ黒に光る円盤をクロスで丁寧に拭った。

「聴きますか?」

 僕が訊くと絹江さんは黙って小さく肯いた。聴かずに仕舞うなんてありえないという感じだった。僕も拭ったレコードはその場で一度聴くことにしようと思っていたのだけど、今日はお客さんがいるから一応確認したのだった。

 ターンテーブルはテレビ台の下にあり、プラスチック製のフードがついていた。それを開けてレコードを置き、電源を入れて針を落とす。スピーカーはテレビの上の段の両側に据え付けてある。そこから小さく音が流れ始めた。

「懐かしいわね」と絹江さん。

「曲ですか、それとも――」

「レコードの音質が、かしら。これって八〇年代のLPよね?」

「一九八三年」僕はジャケットの裏を見て確認した。

「あなたの伯父さんは九十年代半ばにこの部屋を買って、それからか、その前後か、レコードを集めていたということよね。ちょっと昔のレコードを」

「だと思います」

「ちょうどCDが出てきた頃にレコードって、ちょっとアナクロね。私が知らなかっただけでそういう逆行の潮流もあったのかもしれないけれど、彼がミーハーなタイプじゃないってことはわかるわね」

「川魚みたいだ」

「そうね。川魚みたいに、流れに逆らって泳いでいる。でもそうしていないと同じ川底や川岸の景色は見られないのね。同じ場所に留まるためには少しくらい世の中に逆らうくらいでないといけないのよ」

「留まるためには逆行しなければならない」

「そう」

 僕は壁の照明スイッチを眺める。このマンションは僕の実家よりも築年が古い。窓の外、川の向こうには新しいマンションがタケノコのようににょきにょきと建ちつつある。僕は留まろうとしているのだろうか。逆行しようとしているのだろうか。

「少し窓を開けてもいいかしら」絹江さんは訊いた。

 僕は肯く。

 絹江さんがガラス戸を開けると、吹き込んだ風がカーテンを花の蕾のように膨らませた。

「川の匂い」と絹江さんが呟く。

「だいたい川の匂いしかしないですね」

 絹江さんはベランダの手摺に腕を置いて眼下の川を眺める。

「カワウか、ウミウか」と彼女。

 護岸に沿って並んだ杭の上で何羽かウが黒い翼を干していた。

「羽が青っぽいんでウミウじゃないかと思います」

「青っぽく見える?」

「今は光の具合があれですけど、橋を渡る時とか、近くで見ると」

「なるほど」絹江さんは手摺の上の手をちょっとだけ持ち上げた。

 川の護岸にはカモメやアオサギの姿も見える。

「カワウとウミウも交雑するんでしょうか」僕は訊いた。

「うーん……。野生ではわからないわね。人工だと、能登の鵜飼がかけ合わせた品種を漁に使っていたというのは聞いたことがあるけれど」

「グラデーションじゃない」

「そうね。自然のグラデーションではない」

 南千住に渡る橋に目を移すと、道は上りも下りも車が詰まっていた。そういう時間帯だった。東の空は群青色に落ち込み、天頂に向かって紫から赤が差してくる。そのグラデーションの上に雲の影の尾がかかっていた。

「混んできたな……」と絹江さん。

「すみません、なんだか」

「いいのよ。あのまま走っていたってどうせ渋滞に捕まってたわ」

 絹江さんは部屋の中に戻り、ソファに座って目を瞑った。

「ねえ、ミシロくん」

「はい」

「少し図々しいお願いをしてもいいかしら」

 僕は半分首を傾げながら肯いた。

「十一時くらいまでここにいさせてもらうことはできない? そうしたらずっと走りやすくなると思うの。もちろんあなたの予定の邪魔はしない。夕食は私が作る。簡単なものでよければ」

「僕は構いません。ゆっくりしていってもらえるのはむしろ嬉しいというか。でも、大丈夫なんでしょうか。十一時だと向こうにつくのはもっと遅くなるわけで」

「ああ、いえ、それは大丈夫。明日まで休みを取ってあるの。旅行から帰ってすぐ次の日からばたばた仕事を始めるのって好きじゃなくて」

「なるほど」

「よかった。やぶさかじゃないみたいで」

「はい。僕は構いません。明日も別に、本を読むだけですから」

「本?」

「高校の課題で、感想文を書かないと」

「ああ、なるほど」

 絹江さんはそこで初めて上着を脱いだ。中はからし色のゆったりしたブラウスだった。僕は洗濯のためにカーテンレールに掛けていたハンガーを取って彼女に渡した。僕はコートを受け取るつもりだったのだけど、彼女が先に手を差し出していた。

「自分で作るのは洋食? 和食?」彼女は聞いた。

「和食の方が多いです」

「あら、洋食も嫌いではない?」

「はい」

「じゃあ洋食にしましょう」

 彼女はひと通り調味料の充実度を確かめたあと、じゃがいもを二つ使って手早く皮を剥き、薄切りにしてフライパンでソテーした。ものの二十分くらいの早業だった。しっかり換気扇を回していたけどコンソメの焦げるいい匂いがした。

 僕はキッチンを絹江さんに任せている間にリビングを出て着替えた。Tシャツと薄いジーンズ。部屋着に見えて多少格好のつくものを選ぶのは少し難儀だった。

 リビングに戻る。

「味は少し薄めにしておくわね。ご飯を炊いてないからその方がいいでしょう」と絹江さん。

「はい」

 僕と絹江さんはテーブルを挟んで向かい合わせに座った。お土産のお弁当は鮭と鯖のお重だった。ソテーは案外いい食べ合わせだった。彼女の宣言通り全く凝った料理ではないのだけど、でもそれはとてもおいしかった。


絹江さんが鳥に詳しいのは後々登場するもう一人の女性とのよい対比になるのかもしれない。

「よい対比」を仕上げるために僕はこれからの推敲にもう少し気を遣わなければならないだろう。


カワウとウミウの交配についてはこちら

谷川健一『列島縦断地名逍遥』冨山房,2010年,pp.455

https://books.google.co.jp/books?id=X6ADZTG-d6oC&pg=PA455&lpg#v=onepage&q&f=false

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