東のねぐら
夏休みは僕にとって思考の時間だった。長時間考え事をしていることが多くなった。椅子や布団の上で考えることもあれば、歩きながら考えたり工作をしながら考えることもあった。そうしたながら思考のうちに自分でも知らぬ間に目的地に着いていたり、自分でも知らぬ間にものが完成していたりした。僕の思考はいつも時間とともにあった。長い間考えていると太陽の高度の変化や地球の自転だって感じられた。音のない海の中を漂流しながら眠ろうとしているような酷く幻想的で虚ろな感覚だった。
その感覚は二学期に入っても消えなかった。僕は普段通りを装いながら以前の世界に戻る鍵をどこかに探していた。廊下の端、B階段、体育館のキャットウォーク。しかしそれはどこにも落ちていなかった。僕はただいつも通りに授業を受け、休み時間に宿題をやり、給食を食べて掃除をし、図書室へ行って高校受験の問題を解いた。金工室では機械を使うよりも航空工学の専門書に載っている数式をノートに写して自分で解いてみた。そして時々狭霧はもうイギリスの高校生なのだということに気づいて打ちのめされそうになった。
受験自体は上手くいった。どちらかというと親を説得する方が過酷で忍耐の要る試みだった。実家からの通学が不可能な距離ではなかったのだけど、僕はどうしても一人暮らしをしてみたかった。僕の味方をしてくれたのは和歌山の伯父だった。度々の東京出張の基地として使っていた部屋が千住のマンションに残っていて、そこを使えばいいと言ってくれた。人間は経験が多い方がいい。経験を多くするにはとにかく多くの場所で暮らしてみることだ。そういう考えの持ち主だった。昔から和歌山の地元でFRPのプレス成型をやる工場に勤めていて、会社の重役に就いて滅多に東京に出なくなってからは管理の都合で僕の家族が年に一二回その部屋を検査に行くのが習慣になっていた。自分の不動産に兄弟の子供が住みつくことに関して伯父が約束させたのはレコードのコレクションを毎日少しずつ手入れするということだけだった。レコードは大抵が八十年代前半に集めたらしいLP盤だった。
地域としての千住はベッドタウンの再開発真っ只中という感じで、万博会場レベルの土地を一気に造成して大規模で統一的なデザインの建物を林立させつつあった。重機の巻き上げる粉塵で砂漠のように空気が曇っていた。僕の物件は隅田川を挟んだその対岸にあって、北千住の島の南東にある高層マンション八階の3LDKだった。やや離れて北側には京成と東武の線路が並走し、幹線道路が北西面の交差点で交わっていた。ベランダからほぼ真下に隅田川を渡る橋が見えた。
水害のおそれに目を瞑れば、良好な物件だ、と言うことができるだろう。ただ八九年築で、洋間のカーペット敷きはバブルの匂いがぷんぷんしたし、一世代前の電気スイッチや窓のサッシ、冷蔵庫用の防水パンなんかいかにも古臭い。それでも一人で生活するには十分すぎるのは確かだ。上等なものが揃っているわけではなかったけれど、伯父が住んでいたおかげで生活に足りないものはほとんどなかった。インターネットだって通っていた。家事は料理が少し億劫なだけで不便は感じなかった。リビングで横になると、広々して、静かで、とてもいい気分だった。ひどい騒音を出さない限り、僕はそこで何をしてもよかった。自由だった。強いて言えば眠るのが遅い時に壁の中の水道管の音やお化けがちょっと怖かっただけだ。
僕は掃除をして空気を入れ替え、服をタンスに仕舞い、食器を洗って冷蔵庫に食材を詰めた。買い出しの度に僕は家の周りの道や地形を少しずつ覚え、そうして僕は北千住を自分の土地にしていった。
そこに住む以外の人間にとって北千住の島はただ通り過ぎるだけの土地に過ぎないのかもしれない。地上だけで四つの鉄道路線が交わり、国道が南北に貫き、首都高の高架によって取り囲まれている。数多の車両がそれぞれの道を走り、東からきて西へ抜け、南からきて北へ抜ける。そこに乗った人々やモノもまたまっすぐに島を通り過ぎていく。僕はそうした目の回るような激しい往来の間をはるかにゆったりとした速さで歩いていた。北千住の生活は自転車があれば十分だったし、時には自転車だって駐輪の手間を面倒に感じるくらいだった。そういう距離感に生活圏が収まってしまうのだった。
まだ三月の間のことだ。僕は安売りで買い占めたじゃがいもを抱えて家の前の通りを渡ろうとしていた。何しろ幹線だから赤が長いのだけど、両手が塞がっているので車の往来を眺めるくらいしか時間の潰しようがなかった。
トレーラーやトラックがどかどか走っていたから平日だったと思う。その合間を走る小さなルーテシアは逆に目立って見えた。その時僕は絹江さんのルーテシアと同じ色のルーテシアだな、くらいの感想しか抱かなかった。もしかしたら絹江さんかもしれないなんて気持ちはちっとも起こさなかった。川崎で働いて藤沢に住んでいる彼女が北千住を通るのは通勤としてはちょっとおかしいわけだけど、僕の感想はそんな論理的なものではなかった。ただただ気づかなかったのだ。
そのルーテシアは北東方面から走ってきて交差点を右折した。僕は南西側の岸で信号を待っていたから、ちょうど僕の方へ向かってくるような具合だった。僕は運転席に誰が座っているのかは意識していなかったけれど、ナンバープレートが目に入った。川崎ナンバーだった。狭霧の家で見た絹江さんのルーテシアも川崎ナンバーだった。だから僕は振り向いてルーテシアの後ろ姿を目で追った。
ルーテシアは右折を終えて間もなく、ハザードをつけて路肩に寄った。一・五車線くらいの道なので後続車はさほど進路を変えずにすいすいルーテシアを避けていく。
僕は僕が待っていた横断歩道の信号が青になるのを一度確認した。でも確認しただけだった。渡らない。こちら側の岸に留まる。足元の黄色い点字ブロックに一度目を落として、それから顔を上げると青信号が点滅していた。
僕は体の向きを変えてルーテシアの方へ向かって歩いた。ルーテシアはまだそこに止まっていた。まるで僕を待っているみたいだったし、実際待っていた。僕は遠巻きに近づいて車の横に立った。
絹江さんは助手席の窓を下げていた。彼女は首を低くしてルーフの陰から覗き込むみたいにこちらを見ていた。
それでルーテシアを運転しているのが絹江さんだというのがはっきりしたので僕はガードレールまで近づいた。
「気づいたわね」彼女は言った。
「だけど、僕が気づくより絹江さんが気づく方が早かっただろうし、絹江さんが気づいたから僕も気づいたんだと思います。気づいたから止まったんですよね」
「そうね。君が気づいたかどうか、確かめたくなったのね」
たぶん僕が気づかなかったら絹江さんはそのまますぐに車を出していただろう。わざわざ降りて捕まえたりはしない。彼女の言葉はそういう含みのある言い方だった。現に彼女はすでに二三言交わした今になってサイドブレーキを引いた。
「旅行ですか」
「そう。よくわかったわね」
「仕事だったらここは通らないだろうし、たしか平日休みだって」
「青森まで行ってたの。下北の、陸奥の方。本州最北端」
我々はそこでしばらく沈黙した。それはおそらくこんなところで出くわした偶然の重みを確認するための沈黙だったと思う。
「ところで、それ、重そうね。家は近いの?」絹江さんは訊いた。
「そこです。すぐそこ」
「あの高いの?」絹江さんは助手席の肩を掴んで振り返った。
「高いですけど、住んでるとこは下の方ですよ」
「送っていくわよ、っていうほどの距離じゃなかったわね」
「少し寄っていきませんか」僕は言った。まともに考えたらちょっと言いにくい一言なのだけど、不思議と口をついた。僕の口が僕の意志なんか無視して勝手に言ったみたいだった。
絹江さんは特に表情という表情のない目で僕を見て少しの間考えた。どうも頭の中で三つくらいの選択肢を検討しているような感じだった。
「わかった。少しだけね」絹江さんは答えた。「コインパーキングに駐めてくるから、信号渡ったところで待っていてもらってもいいかしら?」
「はい」
絹江さんは頷いてブレーキを踏む。右指示、サイドブレーキを戻してクラッチを入れる。ルーテシアが走っていく。僕はサイドミラーに注目していたけど絹江さんは特に僕の方を確認したりしなかった。
僕は歩道を引き返してもう一度信号待ちをして道の対岸で買い物袋を下ろした。
絹江さんはどうして僕の誘いに乗ってくれたんだろう? 青森に旅行に行ってたって、今日帰ってきたんだろうか。五百キロの道のりを走ってきたんだろうか。それにしては疲れていないように見えた。元気そうに見えた。いや、案外疲れていて、一休みしたかったのだろうか。でもそれなら僕の家でなくたってコンビニに寄ればいいだけだ。絹江さんはたぶんそれだけのために他人の家に上がったりするような性格じゃない。
僕の新しい部屋に興味があるといった感じでもなかったし、だとしたら、様子見だろうか。僕が一人できちんとやっているのか確認してやろうと思ったのかもしれない。最後の捉え方が一番収まりがよかった。
絹江さんは交差点の北側から横断歩道を渡ってきた。ぐるりと元の道に戻って駐車場を探したらしかった。やはりデニムのロングスカートだった。色はほぼ黒、サイドにマチがついている。上着が同色でダブルのショートコートなのでちょっと昔の軍服を思わせる格好だった。
対して僕はただ単に近所に買い物行くためだけの恰好だったのでちょっと恥ずかしかった。具体的にいうと、グラフ用紙みたいな模様の厚手のシャツにだぼっとしたベージュのワークパンツ、黒いスニーカーだった。五十代のサラリーマンが疲れ切ったような格好だったと思う。
「お待たせ」
「すみません、たぶん敷地の中にも駐められるんですけど、すっかり失念してて」
「別にいいわよ。駐められるといったって、きっと面倒な手続きが必要なんでしょう」
一時間くらいだったら空いているスペースに無断で置いたままにしておいたってなにも言われないはずだ。僕はそう思ったけど、思っただけで口には出さなかった。いまさら無意味な情報だった。それに僕がさっきの段階で言っていたとしても絹江さんはやっぱりコインパーキングを選んだだろうと思う。
「その荷物、私が持つわ」絹江さんは手を差し出した。「待たせてしまったから」
「大丈夫です」僕は首を振った。買い物袋をしっかり肩にかけて歩き出す。
絹江さんは食い下がらなかった。
絹江さんも譲らない。僕も譲らない。たぶん僕らの関係は頼り合うような距離感ではないのだ。少なくとも、まだそういう親しい関係ではないと僕は思っていたし、絹江さんも同じような感覚を抱いていたと思う。
郵便受けを確認してエレベーターの籠に収まる。僕も絹江さんも何も言わなかった。何を言えばいいのかわからないような、人の発言を封じる石膏のような空気がその狭い空間にぴったりと密封されているみたいだった。扉のガラスに二人の姿が映る。我々は背丈も体格も同じくらいだった。そういえば僕と狭霧も同じくらいの背丈だった。つまり絹江さんと狭霧の体つきも似ていた。
我々二人を接続しているのは紛れもなく狭霧の存在だった。思えばその舫は初めから不在だった。我々が上手く距離感を測ることができないのはそのせいなのかもしれない。
狭霧のことを思うと僕は少しだけ苦しい気持ちになった。僕の部屋に来るべきなのは本当は狭霧だった。
前回は加筆分(書き下ろし?)だったのですが、ここから一章終わりまでは最近の改稿分です。もともとは澪の幼馴染の雪村という自立心のとても強い人に諭し役をやらせていたのですが、キャラ削減のために絹江さんにお願いしました。ポーランド的性質を持つ人という見方をすればなかなかいい役です。




