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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第1章 詩――あるいは蛇について
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笑うなと言ったのは君の方だ

 技術の先生との約束通り、僕は僕の夏休みを金工に捧げた。それはたぶんイギリスへ渡った狭霧への餞別でもあった。創造が僕の信念なのだと、そう彼女に話してしまった以上、ここで手を止めるのは彼女に対する裏切りになるような気がした。僕は次第にそつなくネジ切りができるようになり、くびれとか網目とか、さらに複雑な造形に挑んでいった。

 金工室から一番近いトイレは職員室の横にある職員用のトイレで、これは生徒は使わないというのがルールだった。そうすると生徒用で一番近いのは体育館脇のトイレになるのだけど、ここは屋内運動部の連中でいつも混雑していたし、暗くてじめじめしているので僕はあまり好きではなかった。そうなると三番手は一階教室の並びの奥にあるところか、二階まで階段を上ったところになるのだけど、どちらかというと後者の方が広々しているので僕はそっちを好んで用を足したり顔を洗ったりしていた。水道だけなら金工室にもあるけど、鏡がついていないのだ。金工は午前中いっぱいで切り上げて帰るのが常だったけれど、それでも日に一二回は体を伸ばすついでにトイレまでちょっと歩いてみるのが普通だった。

 ある日、石鹸で顔を洗ってさっぱりした気持ちでトイレから戻ろうとした時、階段下に淵田が一人で座っているのを見つけた。たまたま手摺越しに下を見たので気づいた。淵田は自前の体操着姿で、黒いスポーツタオルを首にかけ、サーモスの水筒を呷っていた。淵田は男子バスケ部だった。

 階段は両腕を伸ばしても半分に満たないくらい幅広だし、淵田が座っているのは端の方だったので全然無視して避けていくことも可能だったのだけど、でも僕は話しかけることにした。もし彼が一人でなく誰かと一緒だったら、それかもし僕があまり上機嫌でなかったら、僕はきっと素通りしていただろう。折り返しの踊り場の少し手前で立ち止まって、内側の手摺越しに上から声をかけた。

「やあ、今日も機械いじりか」淵田は振り返ってこちらを見上げた。彼も機嫌がよさそうな返事だった。

「柴谷の見送りには来なかったね」僕は言った。

「ん、見送り?」

「そう」

「っていうと、空港か」

「うん」

「それ、初耳だったな」淵田はわざとらしく肩を竦めた。でも僕が追及したいのはそんなことではなかった。

「一つ気になってることがあるんだ」僕は擁壁から上体を乗り出したまま訊いた。手摺を握る手がやっぱり震えていた。

「ん?」

「柴谷が君に話そうとしていたのって、どんなことだったのかな」

「どんなって言われてもなあ……」

「彼女が送ったメールを見せてほしいんだ」

 淵田はちょっとぎらついた目で僕を見返した。その視線には明らかに「何様のつもりだ?」という気迫が籠っていた。

「こないだ君は彼女のうちで僕と彼女が何を話したのかって訊いたろ? だから、それくらいのことなら君は許容してくれそうだと思ったんだ。それとも、携帯、持ってない?」

「いや、持ってるよ」淵田はそう言ってちょっと俯いた。さっきの上機嫌はもうどこにも残っていなかった。感情の変化を隠すための苦笑いが彼の顔に表れていた。「でも、見せられないな」

「嫌なら、別にいいけど。なにせ本人に聞きそびれちゃった僕が悪いんだから」

「そうじゃない。見せられるなら、見せてやってもいいんだ。でも消しちまったんだ。別れた彼女とのメールは全部削除することにしてる。関係が終わったらきれいさっぱり処分して、過去のことは忘れる。俺はそういうタイプなんだよ」

 僕はそれを聞いて、この男には狭霧を救う能力も資格もなかったんだと改めて思った。淵田はまだ苦笑いのまま僕の返事を待って顔を上げていたけれど、僕は一切表情を変えなかった。笑うなよ、と僕に言ったのは他でもなく淵田だった。

「わかった。そういうことなら、仕方ないや」

 僕が真顔のままそう言うと淵田もさすがに苦笑いをやめた。その居心地の悪そうな表情の変化だけで僕には十分だった。いつか淵田を一発殴ってやらなきゃいけないんじゃないかと思っていたけれど、そんなことをするよりもっとダメージの大きな屈辱を与えることができたような気がした。

 淵田は水筒を持って立ち上がり、僕の方を見ずに「じゃあな」と言って体育館へ戻っていった。僕も彼を見下ろすのをやめて手摺を離した。握っていたところが汗で曇っていた。それをジャージの袖で拭って階段を下り、ちょっと離れたところから体育館の入り口を覗いて中の様子を確かめ、それから金工室に戻った。

 淵田が狭霧の見送りを知らなかったのではなく、あえて避けたのは確かだろうけど、それにしたって空港に集まったのはほとんど同じクラスの生徒ばかりで、他のクラスの生徒は狭霧の一二年の時の仲良しの女子が数人だけだった。だから淵田のような別のクラスの男子がわざわざやってこないのは全然普通のことだった。

 そして僕はその時初めて狭霧の母親を目にした。いかにも仕事をしています、働いていますという感じの服装、髪型、化粧をしている以外はごく普通の、年相応のおばさんだった。つまり狭霧の知り合いに接する時の言動や態度もごく尋常な感じであって、とても娘を遠くに置き去りにして一人で仕事に行ってしまうような突拍子もない人間には見えなかった、ということだ。

 十数人集まった見送り側は荷物がかさばらないようにささやかな色紙を一枚狭霧に手渡した。そして最後にみんなで写真を撮った。この時の撮影役が狭霧の母親だった。それこそ全く甲斐性なしには見えない段取りだった。きちんと往来の迷惑にならないところを探していたし、タイミングの取り方もよかった。色々聞いていただけにそのまともさはあまりに意外なものだった。僕に対する特別の挨拶などはなくて、そのあたりはきっと狭霧が話していないのだろうな、という感じだった。その日は僕と狭霧も何ら特別な話はしなかった。それどころかありきたりな別れの言葉を二三言交わしただけだった。この短い梅雨の間に僕らが話したことは大勢の前で同じように話せるような種類のものではなかった。

 狭霧は母親と一緒にゲートに入る前にみんなに手を振り、それから角に入って見えなくなる前にもう一度振り返ってちょっとだけ手を上げた。きっと自惚れなのだろうけど、それがなんだか僕だけに送ってくれた挨拶のような気がしてならなかった。

 それから僕たちは展望デッキに上ってブリティッシュ航空の767の離陸を待った。それは次々と飛び立っていく無数の旅客機の中のひとつに過ぎなかった。無事に地面を離れ、そして大気のうっすらとした煙りの中に消えていった。実感のない儀式、実感のない別れだった。例えば今まで僕と狭霧の間にあった出来事が鋼鉄の錨鎖だとするなら、その日の見送りは風に飛ばされる発泡スチロールの箱のようなものだった。僕にとっての本質的な狭霧との別れは結局のところあの湿った小さな橋の袂の出来事だった。

「狭霧、少し元気になったよね」伊東が僕の隣に立って言った。当然彼女も見送りに来ていた。帰りの電車を待つホームの上だった。トンネルの中の駅なので明かりが黄色くて声が妙にぼわんと響いた。

「そう?」と僕。

「うん。まあ、今日は見栄張ってるだけかもだけど、それでも一時よりずいぶんよくなったと思うよ」

 伊東の言葉は僕を少しだけ報われた気持ちに変えてくれた。

 淵田がこの章の悪役的な役回りであることは確かなのですが、かといって救いようのないクズとしては描いていません。あくまで手は出さないし、脅しもしない。ややジャイアニズムの気があるだけです。狭霧のメールを黙殺したのだって、怖くなったからですよ。弱い人間なんです。好き好んで狭霧を傷つけたわけじゃない。そういう対応しかできない人間だっただけ。だから彼に屈辱を与えるには真顔で見つめ続けるだけで充分なんです。


 純粋な悪役というのはこの物語には登場しません。そういう人物を物語世界から排除しているわけではないですが、描写上は排除しているのです。なので描かれる人々はそれぞれにそれぞれの「最良」を求め、自分に課し、また他者に与えようとしている。いわゆる優しい世界のようなものですが、そこにも避けようのない悲しみや苦悩はきっと残ってしまう。

 というのもこの作品のテーマとするアイデンティティの問題というのはそういう状況の下でしか追究しようのないものだと思うのです。より現実的な障壁を前にするときっとそんなものはどうでもよくなってしまう。それはたぶん深く考えることのできる余裕を持った人間、持ってしまった人間だけが辿り着く境地なのだと。

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