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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第1章 詩――あるいは蛇について
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なぜ僕は狭霧を救うことができたのか

「彼女は僕のことを話しましたか?」僕は絹江さんに訊いた。

「ええ。その模型のことを頼む時に」

「そうですか」

「あなたが狭霧のことをどう思っているのか訊いてもいい?」

「はい」

 絹江さんは僕の返事を少しの間待ったあと、こちらに半身を向けて「それなら訊くけど、あなたは狭霧のことをどう思っているの?」と笑いを堪えた様子で改めて訊いた。

「彼女が物事をどう考えているのか知ってみたいという興味がふと生じたんです。彼女は他の中学生たちとは違った感じがして、それはたぶん彼女の考え方によるものだと思った」

「知的な?」

「そういう表現もかなり当たっていると思います。僕の周りでは誰と誰が付き合っているとか、誰のことが好きなのかとか、そういう恋愛の話題が飛び交っているけど、僕にはそれがとても遠い場所の出来事のように感じられるんです。恋愛もある種の興味の形なのだろうけど、容姿が好き、性格が好き、話し方が好き、そういう生々しい興味と僕の感じているものは何か違うような気がしている」

 絹江さんは「そう」と僕の言葉を受けながら何度か頷いた。僕はなんだか恥ずかしくなって毛布にくるまって全身をすっぽり隠したいような衝動に襲われた。こんなに暑いのに。

「例えばどういった時にあなたはその興味を感じたのかしら」

「彼女に対して?」

「ええ」

「僕と彼女は三年で初めて同じクラスになって、それからちょっと印象が変わったんです。授業中の発言や態度というのは生徒同士だと同じクラスになってみないとわからない。クラスメートになると、それは別に彼女に限ったことではないですけど、共有する時間や場所が全然違ってくる。たとえ授業という拘束があるにしても、それは休み時間では代えられない圧倒的な共有なんです。何と言うか、クリーンな意味で運命だと」

「それはわかるわ。仲のいい子や好きな子と同じクラスになれるとそれだけで嬉しいものね。というより、四月の初めにクラス組みのプリントが配られると祈るような気持ちになるものよ。もしかしたらそれは、誰しも、あなたの言うような共有を期待しているのかもしれない」絹江さんは膝に手を置いて目線を隣の家の屋根の方へ高く向けて言った。

「他人より少し長く知っている仲だからちょっと違うように見えるのだとそれまでは思っていたんですが、それは間違いでした。国語や社会の時間に先生が生徒の意見を訊くことがあって、それは、この話題についてあなたはどう考えるか、というような正解のない質問ですけど、そこで時々当てられると、彼女はあまりありきたりなことは言わないんです。正しいことや一般的なことを言って済ませようという気持ちがない。かといって一般的ではないことを言ってやろうという気持ちがあるわけでもなくて、彼女の自然な意見が人とは違っているんです。それはみんなを感心させることもあるし、混乱させることもある。頭のいい奴の言っていることはよくわからない、そういう感想を持っている奴もいたと思います。彼女自身は別に特別であることを探求しているわけではなく、でも特別になることを疎んじてもいない。ただそうなってしまう」

「三年に上がる前にも関わりはあったの?」

「電車で会って話したり、流しで水を飲んでいる時に話しかけられたり、そういう機会はありましたね。一応知り合いでしたから」

「そう」絹江さんはまた頷いた。僕の言葉は彼女の中にある深い空洞にただ吸い込まれていくみたいだった。彼女は立ち上がって片方ずつ足首を伸ばし、縁側の縁に腰掛けて脚を組んだ。

「脚が痛くならない?」

「え?」

「ハトが嫌いでなければこっちに来たら?」

 僕はほうじ茶を一口飲んで縁側に移動した。ハトたちは少し逃げ腰になってぎょっとした目でこちらを見上げたけれど、座ってじっとしているとすぐに戻ってきた。絹江さんは靴脱ぎ石のサンダルの上に左足を置いていた。脚を組んでいるので右足は空中にある。薄いトウシューズのような靴下を履いていた。パン屑のタッパを僕に任せると体を折り曲げてサンダルに入っている砂を捨て、靴脱ぎ石に乗っている小さな石ころや砂をつまんで地面に放った。石ころはほとんど靴脱ぎ石の近くで止まったけれど、中には日向まで転がっていくのもあった。風に庭の木々の枝が揺れていた。その手前でタカサゴユリの白く細長い(遠目に見れば)上品な花も揺れていた。よく見るとすぼめた傘のような蕾もあった。

 ふと背中の方から風が吹いてくる。振り返ると台所の窓が開いていた。しばらく庭を眺めていたせいで家の中は暗闇に見えた。

 絹江さんは狭霧の親ではなかった。つまり僕の同級生の親たちとは、子供に対する立ち位置とか役目の自負みたいなものが確かに違っていた。親なら親身になって口煩くするところを、彼女は冷たいくらいに傍観していた。でもそれが二人の関係として間違ったものだとは思えなかった。遠目に見ているからこそ彼女は狭霧のことを正しく中立的に理解していた。

「狭霧はなぜ行かなければならなかったんでしょうか」僕は何度かパン屑を投げたあと、タッパを横に置いて訊いた。絹江さんの意見を聞きたかった。

 絹江さんは手を止めて上体を前に傾けたまま膝の上に腕を置き、一層慎重な口調で答えた。

「そこには私や私の妹といった外部的な強制力もあれば、彼女の中の何かがもうここに留まることを許さなかったという内部的な強制力もあったでしょうね」

「どんな環境の変化があって、彼女がどれほどそれに苦しんだかはわかります。外部的な強制については」

「あなたが訊きたいのは彼女の内部的な、ここに残るという選択肢もあったのになぜそれを選ぶことができなかったのかということ?」

「そうです」

「個人的な問題よ?」絹江さんは振り返って僕を見上げた。

「わかっています」

 絹江さんは体を起こして後ろ髪を直した。

「それは個人的ではあるけれど、おそらく彼女に限った問題ではないのよ。こんなことは本来人に話すべきことではないのだけれど、私も、私の妹であり狭霧の母である女も、ある意味では狭霧と通じる問題を抱えている。各々が一人きりで対処しなければならないものを先天的に抱えている。生きていく中で周りの環境の作用によって生じてくるものではなくて、ある年齢になると肌を内側から突き破って伸びていくツノの核のようなものを生まれた時から持っている」

「遺伝ですか」

「精神の構造が遺伝によって決まるものなら、そうでしょう。私の家系でも特に女性に強い傾向だと思うのだけど、ユング的に言うなら、私たちは極めて内向型の感覚を持っている。それはいわば自分自身への並みならぬ興味よ。難しい言い回しだけど、わかるかしら」

「わかります。確かに彼女は内向的な関心や思考に深く入り込んでいた」

「そう。その興味は、身体的な面、精神的な面、両方に対して向けられる。それは必ずしも自己中心的ということを意味しない。自分が綺麗か不細工か、善い人間か悪い人間か、そういった尺度でもない。ただ、自分が何者か、何をすべきか、その点について深く考えてしまう。狭霧に関しては、これは不運というべきなのかもしれないけれど、とりわけ頭の回転が速くて一つの物事を細かく調べる能力が高かった。だから自分について分析的に考えているうちに、いわば細かく分解して点検しているうちに、もとの頑丈な状態には戻せなくなってしまった。部分部分は連結されて正常に動作しているけど、きちんと噛み合って一つにまとまっているわけではない。そういう脆くなった状態でここに残っていてはもっと深刻な不具合が起こるかもしれない、きっと起こる。それなら全く別の場所で一からしっかりと組み直そう。そういう気持ちだったんじゃないかしら」

「ここに居続けることが自分の存在を不安定にするから、だからもういっそ離れてしまおうと?」

「おそらくは」

「それがなぜ今だったんでしょうか。以前にだってお母さんから向こうに誘われる機会はあったはずです。その時住んでいた場所からこの家に来た時も同じ理由を、随分昔のことだから判断というよりは直感だったでしょうけど、それを感じたから残りたいと言ったんじゃないんでしょうか」

「そうね。その時はまだこの家は彼女のことを匿ってくれる場所としてきちんと機能していた。でも状況は変わるもの。居心地のよい場所ではなくなってしまったのよ」

「一人になったことによって、それとも一人でいることを許されないことによって?」

「彼女はまだ子供で、一人では自由にやっていけない。周りの大人が見ているし、見られているということを彼女自身気にするでしょう。一人で生きていくかどうか、私がその問題に直面したのは今の狭霧よりずっと大人になってからよ。五年から七年は未来に考えるべき問題を彼女は負ってしまった」

 絹江さんは僕が置いたタッパに蓋をして縁側に足を上げた。ハトたちは彼女の不意な動きに驚いて一斉に五歩か六歩遠ざかった。

「彼女の考えに関しては、私の哲学を持ち出して推察すれば、ということであって、もちろん当たっていると断言はできない。家族だからといって彼女の本心を聞けるというわけでもないし、家族ではない方が話しやすいということもあるでしょう」

 家族には話せない、他人にしか話せない。

 絹江さんは台所にタッパを置いてきて座布団に正座した。食卓に対して半身、左手をその縁に置く。

「正直に言うと、私は狭霧がもう回復しようのないところまで落ち込んでしまっているんじゃないかと思っていたの。他の人々の間でそつなく生きていくことはできない人間になってしまうんじゃないかって。それはどうしたって避けられない未来のように思えた。私にはどうすることもできなかった。だからあなたが狭霧を救えたことは奇跡のように感じられる。それともそこにはきちんとした理由があるのかしら」

「救った?」僕は縁側に立ったまま言った。

「そうよ。間違いない。狭霧を救うことができたあなたに私はある種の尊敬を抱いている。羨ましさすら感じる」絹江さんはやはり落ち着いた口調で諭すように言った。

「僕はただ彼女の美しさを失いたくなかっただけで」

「そう感じた相手は狭霧が初めて?」

 僕は考えた。目が潤んでくるのを感じた。僕は狭霧のことを救えたのだろうか?

「いいえ。違うと思う」僕は答えた。

 絹江さんは僕の次の言葉を待っていた。

「僕には姉がいます。とても歳の離れた姉で」僕はそこで重たい唾を飲んだ。「彼女は何度も理不尽に打ちのめされて、その度に僕は何も、何の救いにもなれなかった」

 そう言い終えた僕はきっと酷い顔をしていたのだろうと思う。

「いいの。もういい。わかったわ。ありがとう」そう言って絹江さんは僕を慰めた。

 僕は居間に戻ってほうじ茶の残りを飲んでお絞りを畳み、ワイバーンを入れた鞄を抱いて玄関を下りた。絹江さんは古いルーテシアの鍵を開けて僕を助手席に乗せた。外装は紺色、中は明るいグレイ一色で、ダッシュボードが直線的なデザインだった。イグニッションが何度か空振りして、それからエンジンがかかると思ったより低くて太い音がした。絹江さんは車を道に出してエンジンをかけたまま一度降り、門の木戸を閉めて戻ってきた。そこからは絹江さんが道を訊いて、僕は曲がるところを言った。

「あなたはこれからどうするの?」

「これから?」僕は訊き返した。ネジを持った金工室の狭霧を思い出した。

「そのまま高校へ上がるつもり?」

「いや、都内の公立校を受けようと思って」

「ふうん」

「そしてできれば独り暮らしをしたい。自分の空間を持って、そこで僕はいつも一人で、でもだからこそいつでも誰かを受け入れることができる。彼女はたぶんそういう場所を求めていたのだと思う」

「別にあなたが狭霧のために生きる必要はないのよ」

「そうです。でも彼女は僕の中に何かを残していった。手を差し出したのは僕の方で、今ではそれはとても重みを持っている。僕の他の部分と同じくらいか、それ以上に」

 絹江さんはごく中立的に頷いた。「狭霧、落ち着いたらあなたにもメールをするって言ってたわね。今はまだ学校のことでてんてこ舞いでしょうけど」

「ええ、待つしかない」

「そうね。諦めないで」

 降ろしてもらったのは宅地の外周だった。家の前までは入らない。十四の子供とその友達の伯母というのは二人で会うにはちょっと微妙な関係だ、という話を到着の前にした。絹江さんは僕を降ろして走り去る時にウィンドウを下げて、そこにちょっと手を出して見せた。古い洋画でしか見たことのない挨拶だったので少し驚いた。僕もお辞儀を返したけれど、ちゃんとミラーに映っただろうか。

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