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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第1章 詩――あるいは蛇について
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鳩はむしろ殺すべきだった

 夏休みの間に一度だけ狭霧の家から電話がかかってきた。母は「柴谷ちゃんから」と言って僕に代わったが、狭霧がまだ日本にいるはずはなかった。そして全くわけのわからない気持ちで出てみると、声の主は白梅絹江だった。敬語を使わないで、というのが第一声だった。なんとも冒険心をくすぐる一言じゃないだろうか。彼女は僕を家に呼んだ。

 僕はその時狭霧の家の表札をちょっと確かめてみたけど、黒々と「柴谷」と記した木製の札の上に大理石の表札がもう一つあって、確かに「白梅」と彫られていた。でも石の模様が高度な迷彩のようになっていて、近づいてあらゆる角度からぐるぐると見てようやく文字が読めるというくらいの代物だった。さすがに石の表面か文字の内側どちらかを塗った方がいいんじゃないだろうか。

 門をくぐる。寄り付きの北側に以前は水色のフィットが置いてあったのに、この時は紺色のルーテシアに交代していた。無塗装の黒いウレタン材バンパーをつけた古い車だけど、タイヤの溝はまだ深く、ホイールも煤けていない。耳を立てたまま前輪を少しこちらに捻っていた。前のフィットは一体どこへ行ったのだろう?

 絹江さんは縁側の方から玄関に歩いてきてスリッパ立てのスリッパを一足僕の前に出した。狭霧の言った通りほっそりして綺麗な人だった。ノースリーブのスタンドカラーのブラウス。脛丈で腰の高い、色の深いデニムスカート。オレンジの細いベルト。僕の知らない香水をつけていた。

 彼女は僕を縁側回りで居間に通す。縁側からは生垣の手前に白い花火のようなタカサゴユリが何株か咲いているのがよく目立った。庭の地面や芝生には熱線のような太陽が降り注いで庇や木々の下にくっきりとした影を落としていた。その影の中で痩せたハトが何羽か歩きながら地面を嘴でつついていた。

 絹江さんは僕が庭を見ている間に冷たいほうじ茶とお絞りを用意してくれた。僕はスリッパの始末にちょっと困って、縁側の敷居で脱いで食卓の前に座った。考えてみると狭霧の家にきちんと玄関から上がったのは初めてだった。座布団の位置は前に狭霧と二人で話した時と同じだった。そこから居間の中をぐるっと見回した。特に内装の変わっているところはない。縁側に電気式の蚊取り線香が出ている。仏間の襖はぴったり閉じている。家の中には僕と絹江さんしかいないようだ。僕がいなくなれば絹江さんはこの家で一人になる。当然僕が来る前もそうだった。けれどその孤独はあまり異質なものには感じられなかった。

「暑かったでしょう」絹江さんは自分のほうじ茶をグラスに注いできて僕の向かいに座った。例の切子のグラスだが底は紫色。彼女は指や手首には何もつけていなかった。爪も素のままだった。

「とても」僕はとりあえず素直な感想を口に出そうと思って答えた。

「歩いてきて、なんてちょっと酷だったわね。でも帰りは送るから」

「いえ……」

「いいのよ。そのつもりで頼んだのだから」

 絹江さんの話し方はちょっと沈んでいるといってもいいくらいに落ち着いていた。僕がどんな突拍子もないことを言おうがちっとも動揺させられないような気がした。

「ここまでどれくらいかかったの?」彼女は続けて訊いた。

「十五分くらいです」

「そう、それなりに遠いのね」

「前にも歩いてきたことはあります」

「この辺りは坂が多いから大変よね。歩道も途切れ途切れのところがほとんど」

「そうですね」

 僕は自分が受け答えをする度に愛想笑いしているのに気付いて努めて表情を消した。絹江さんも質問の続きをやめた。

「彼女はこの家には住む人が必要なんだと言っていました。今は絹江さんがここに住んでいるんですか?」僕は訊いた。

「そうよ。以前は川崎に居たの。聞いたかしら。幸いここからでも通勤にはあまり不便はないわ。早く慣れたいと思っているところ」

「僕を呼んだのは?」

「狭霧から大切な用事を一つだけ頼まれているのよ」

「何でしょう」

 絹江さんは少し腰を上げて脚を崩した。それから手の中にあるグラスを二十度ほど回転させた。「あなたは以前にもこの家に来たことがあるのよね?」

「はい」

「あの戸棚の中に飛行機の模型があるでしょう」

「ええ」

「あれをあなたに」

「彼女が、僕に?」

「そう。あれはもともと私の妹の夫が買ったもので、長い間他の誰かの興味を惹くこともなくあのガラスの中に仕舞われていたのよ。狭霧にとっては父からの贈り物ということになるでしょうけど、彼女が望むのであればあの模型がここからなくなって惜しむ人は誰もいないわ。価値のわかる人のもとに置かれるべきだと思ったのかもしれない」

 絹江さんは飾り棚の扉を開け、コーギーのワイバーンの主翼付け根の辺りを両手で支えて取り出し、中腰のまま持ってきてテーブルの上に置いた。閉鎖された狭い場所で保管されていたのであまり埃を被っていない。まるで空母の飛行甲板に戻ってきたみたいに生き生きして見える。

「確かケースが付いていたわ」絹江さんは飾り棚の前に戻って下の扉を開けた。彼女がその中をごそごそやっているあいだ僕はそのスカートの動きを眺めるともなく眺めていた。他に目のやり場がなかった。硬そうな生地だな、と思った。

 二分くらいして黒いプラスチックの四角い台座とアクリルの覆いが出てきた。台座には模型の脚を挟みこんで固定するための金具が二つあって、金具は裏面からビス止めされていた。台座はコーギーのロゴが入っていないので誰かの手製か既成品だろう。

「さて、ネジ回しがどこにあるか」絹江さんは立ち上がって台所の方をちょっと険しい表情で眺めた。

「まだ慣れないんですね」

「ええ、そうね。生活に必要なものは全く揃っているのに、まだ勝手が掴めないの。ストレスよね。姪は言葉だって違う国に適応しようとしているのに、こんな些細なことで」

「電話台の引き出しじゃないですか」

「知ってるの?」

「いや、鉛筆や鋏がそこにあるから、近くかなと思って」

 絹江さんはいかにも懐疑的な態度で廊下に出て電話台を見てきた。精密ドライバーのセットを持っていた。「あった」

「それはよかった」僕はただ頷いた。

 それから僕はセットの蓋を開け、頭の大きいプラスドライバーを出して台座の金具を二つとも外した。模型の脚を挟んだまま裏からネジを回すには机の縁を半分はみ出すくらいで支えておかなければならない。少々コツが必要だった。絹江さんは体を横に倒して目線を机の高さに合わせ、僕の作業を向かいから見守っていた。それはちょっと狭霧の仕草を思わせた。

「どうしてワイバーンだったんでしょうか」僕は呟いた。

「どういう意味?」

「彼女のお父さんは何か思い入れがあってこれを選んだのか」

「ああ。でも、だとしたらそれがひとつだけあるというのはいささか不可解よ。私は彼の知己と言えるほどの関係ではないけれど、そういった趣味のある人ではなかったと思うわ。目に付いたからそれにした、なんてところじゃないかしら。古い飛行機にしては少し変わった形をしているものね」

「じゃあこれはいくつかあるコレクションのうちの一つというわけではないんですね」

「そう。私の知る限りでは飛行機の模型は過去の分も含めてこれだけ」

 僕が台座にくっついたワイバーンを机の真ん中に置くと絹江さんはカバーを被せて僕の持ってきたアディダスのズックに入れた。

「こうして見るとそんなに大きなものでもないわね」

「はい」

 絹江さんは立ち上がって縁側に出た。仏間の柱の陰から食品用のタッパを取り上げ、蓋を取って中から何か細かなものを庭に播いた。それに反応して庭のハトが一羽ぱたぱたと飛び上がった。どうやらパン屑らしい。彼女はちゃんと日陰を狙っていて、ハトは黒い領域の中をちょろちょろ歩き回った。

「鳥は好き?」絹江さんは縁側の縁に膝を揃えてしゃがみ、パン屑を少しずつ播き続けた。

「種類によっては」

「例えば、ハクセキレイの夏羽とセグロセキレイを見分けられる?」

「頬が白いのと黒いの?」

 セキレイはすごく機敏で地上でも足の速い小鳥だ。よく尾羽をひょこひょこ上下に振る。機動性がすごいのでカラスでもうっかりすると迎撃で羽を毟られそうになる。

「正解。でもセグロセキレイの中には頬の白くなったハクセキレイそっくりの個体もいるの」

「交雑ですか」

「いいえ。違うのよ。時々白い羽の多いドバトがいるように、ひょんな手違いでそんな子供が生まれるのね。そういう時は見分けはつかない。見分けは。そっくりでも鳴き声はセグロの鳴き声だから、最後はそれで区別する他ないわね。……というよりも、声が違うからハクセキレイではないと気付いてもらえるのよね」そう言って中指の爪の間に挟まった細かなパン屑を親指の爪で追い出した。「私の仕事では天敵なのよ」

「セキレイが?」

「どちらかというと、ハトかしら」

「ボンネットに糞を落とすから?」

「それも聞いたの?」

「仕事については自動車の販売というだけで、詳しいことは何も。ハトの糞のことも。ええと、ルノーというのは察しがつきましたけど」

「そう。私の車を見れば、車について多少見識のある人なら、それはわかるわね。私が勤めているのは、まあ、ちょっとしたショールームのようなところよ。綺麗な箱の中に綺麗な車を置いて、あとは座る場所とテーブルがあって、そこへ来る人にコーヒーやカルピスを御馳走する」

「カルピス」

「そう。若い人ももちろん来るでしょう。小さい子はコーヒーや紅茶はあまり頼まないから」絹江さんはスカートの裾についたパン屑をいくつか取って庭に投げた。「というのが建前だけど、この時期大人相手にも結構出るのよ。こうも暑いと。あなたもカルピスの方が良かった?」

「いえ。ほうじ茶おいしいです」

「それで、何の話だったかな」

「ハトが天敵だという話」

「そうそう。ハトの話ね」と絹江さんは頷く。「ロビーに入れている車はいいけれど、それが全てではない、むしろ一部なのよ。屋根が付いていても梁が剥き出しになっていると、そこにとまったり、営巣することもある」

「迷惑ですね」

「そう。確かに迷惑よ」絹江さんは僕の発言をとりあえずなぞった。譲歩だ。「それで、もっと住みやすい設備があればそちらに移るかと思っていくつか試してみたのだけど、駄目ね。どこかから新しいのがそこへ飛んできて、もとのはそのまま。数が増えるだけだった」

「追い払おうとはしなかったんですか」

「しない」絹江さんはしっかりと首を振った。「最近では鷹匠を呼んで集まりすぎたハトやカラスを追い払おうという考えもあるようだけど、知ってた?」

「いいえ」

「カラスの場合だけど、たくさん集まって集団で夜を過ごす、つまりねぐらをつくるのは二歳程度の若いカラスなの。経験も実力もまだまだというカラスたちよ。猛禽が悠々と飛んでいるような場所では安心して眠れない。安心して眠れる場所を探して移動しようという身軽さが幼いカラスにはあるのね。つがいになるとパートナや子供との生活だし、他のつがいとの縄張りの取り決めもあるからそう簡単には動けないのよ。若鳥のように密集して大勢集まるということはない」

「事情が違うんだ」

「いずれにしても、もともとそこにいない猛禽を放して、もともとそこにいない場所へ追い立てる。そんな人為は独善だと思うわね」

「だから自分の管轄の中で別の場所に移らないか試してみたんですね?」

「そうね。もし死ぬほど迷惑だというのなら、そう感じる当人たちがその責任で、その場所で処分するということも本当は必要なのでしょうね」

「つまり、殺すということですか。処分というのは」僕は何度か瞬きしながら訊いた。

「直截な言い方をすれば、そうね、殺すということ。狩るということ。ごめんなさい。言うだけでも婉曲したくなるようなことだから、それが嫌だから人々は別所の迷惑は棚に上げて追い払うのだろうけれど。結局、餌の少ないところで飢え死にしてしまう若いカラスは多いそうよ。とはいってもそれが人間の営みを含めた自然なのでしょうし、誰かを説得しようというような外向的な思想も私にはないけれど。当然、あなたに対しても」

「鳥は飛ぶために代謝が高いからしょっちゅう食べていなくちゃならなくて、だからしょっちゅう糞をしなくちゃいけない」

「そうね。糞を拭くのも私の仕事。糞が落ちなければ拭かなくていいというのでは怠慢だものね」絹江さんはハトの群れを見ながら笑った。個人的で小さな笑いだった。「あなたは素敵な話し方をするのね。狭霧があなたを好きになったのもわかるわ」

「好き?」

「別に愛だとか性だとか立ち入った意味ではなくて、信頼したということよ。あなたが私のことを知っているということは、そういうことでしょう」

「話し方がいいと言われても、なんだか喋りづらくなります」僕は照れて顔を背けた。

「気にしないで」

コーギーというのはイギリスの模型メーカーで、ダイキャスト製の自動車とか飛行機とかを作っているところなのですが、スピットファイアやハリケーンのような有名機はともかく、ウェストランド・ワイバーンのダイキャスト・モデルは実際には存在しないのです。つまりこの物語においてその模型がワイバーンであることには特別な意味があるということです。

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