知らない通学路、家には行けない
僕の駅で降りて、狭霧は改札へ行く前に定期券を精算機に突っこんで精算切符を買った。財布の中で選んだ小銭を一度に全部手の中に持って入れようとしたせいか、十円玉が二枚こぼれて床に落ちた。彼女はすぐに拾おうとせずに転がっていく方向を目で追っていた。それが自分の失敗だと認識するのに時間がかかったような感じだった。片方を僕が捕まえると彼女も屈んでもう一枚を拾った。
駅前では雨が止んでいた。けれど曇天はまだ空の蓋になって冷えた空気を地表に押し込めていた。ロータリーを走るバスやタクシーの黒いタイヤが路面の水を細かく舞い上げた。
「喉渇いたな」と狭霧は言った。
「水筒は?」
「あるけど、何か、炭酸」
僕も狭霧も水筒なら持っていた。でもお茶やスポーツドリンクの気分ではないのだ。言われてみると僕もそんな気分になった。
コンビニの軒先にガチャポンと並んでいる自動販売機で缶のソーダを買った。その自販機で買い物をしたのはそれが初めてかもしれなかった。普段は帰りに飲み物を買ったりしないから、どこのメーカーの機械なのかさえ意識して見たことはなかったし、電車を降りたところで喉が渇いたと感じることもなかった。でもどうしてだろう、この時はそこでソーダが飲みたくなり、その自販機には缶のソーダが入っていた。
「こっちの道だったよね」狭霧は空になった缶を丸口のゴミ箱に入れ、北東を指して訊いた。学校に向かう道を探しているのだ。校外学習で電車を使う時は僕の駅から乗っていたので彼女も憶えているはずだった。
僕が肯くと彼女は早速歩きはじめた。ルコックのエナメルバッグの短く絞った肩紐を襷掛けにして、腰と肩紐の間に傘を差していた。荷物はそれでコンパクトにまとまって、雨上がりの通学姿として絶妙に完成されていた。僕はちょっと真似してみたい衝動を覚えたけれど、それは目の前にある完全なものを致命的に穢してしまうような気がした。歩兵銃式に傘の先端を上にして担いで狭霧の後をついていく。
「あ、この道だ」住宅街に入って間もなく、坂の前で狭霧は呟いた。道は緩やかにカーブしながら丘を登る。それから駅と学校を結ぶ道筋から曲がり角二つほど逸れたところ、直交する道路まで行くと彼女は右手を向いて立ち止まった。そこは長い坂の上で、遠い麓の向こうに竹林が茂っているのが見えた。
「ここが私の通学路だったんだ。行きは登って、帰りは下りて。いい眺めでしょう」狭霧は麓を指して言った。
確かに素晴らしい見通しだった。グライダーのためのジャンプ台のようだった。
丘の上から赤帽の軽コンテナが走ってきて僕らの横を通り過ぎた。滑らかに坂を下りていって最後にブレーキランプを灯し、突き当たりの角を右に曲がった。その角には僕も見たことのある看板が立っていた。
「あの角を左に行くと私の家だよ」
「僕もこの前あそこを通ったよ」
「そう」狭霧は車が来ないか左右を確認して道路を反対側に渡る。歩道の縁石を降り、車道の白線を越えて向かいの歩道へ。アスファルトには浅い轍があった。学校へのルートに戻る。「ミシロの道には何かなかった?」
「何か?」
「面白いもの」
「こんなに眺めのいいところはなかったな。ずっと用水路の横を歩いていくんだ。あんまり綺麗な川じゃないけど、たまに橋の下をくぐってカワセミが飛んでくのを見るよ。本当にたまにだけどね。緑か青にきらきらして、小さくて速いからほとんど丸く見える」僕はそう言って指で円をつくる。
「何分くらい歩くの?」
「十分から十二分くらいかな」
小学校の敷地は緑色の防球ネットで囲まれていた。校庭に人影はなく、池のような大きな水溜りが広がっていた。でも人はいるようで、校歌の伴奏の練習をするピアノの音が微かに聞こえた。音の反響からしておそらく体育館で弾いているのだろう。校門の中に侵入するのはやめておいて、校庭のフェンスに沿って歩ける道を歩いた。
「意外と知らないものなんだ。柴谷が毎日どんな道を歩いていたかなんて。こないだ手紙を届けに行った時も思った。まあ、そんなの、向かいか隣に住んでる幼馴染でもなきゃ知りようがないんだろうけど」僕は言った。我々は並んで歩いていた。
「それだけ私たちのテリトリー、領域が離れていたってことでしょ」
「実際遠いよ。結構歩く」
「そういう過去の体験は自分だけのものなんだよ」狭霧はフェンスを見上げたまま言った。「たとえ知っても相手の体験が自分のものになることはない。私がこの道を通ったということも、ミシロが別の、ミシロだけの道を通ったということも、同じように共有できない過去の圧倒的な積み重ねなの。どれだけ親しくてもそれだけは変えられないし、本当に知ることもできない」
「それって、過去の経験が個々の人間を規定するってことなんだろうか」
「私がそこに留まるなら、部分的には」
「でも遠くへ行く」
「だから最後に少しだけでも共有しておきたいんだ」
「なるほど」
「ねえ、せっかくだからミシロの道も見せてよ」
「構わないよ」
「今日は家に誰かいるの?」狭霧は訊いた。
「うん」僕は答える。言いにくかった。
「わかった。気にしないで」
「顔見せて行ったっていいのに。うちの母さんも柴谷のことは知っているんだから」
「いいの。気にしないで」
僕は交渉をやめて狭霧を先導して用水の道に向かった。僕の家から小学校まではいくつかのルートがあって、その中で最も短く、集団通学のルートにも使われているのが用水の道だった。深く掘られた用水の護岸上に通された道なので用水側はガードレールか金網、反対側は宅地の法面が迫っていた。道幅せいぜい一メートル半の隘路。自動車は入れないし人通りも多くない。時折走り抜ける自転車に気をつけていればあとは静かな道だ。その道を通る時に投げるものを持っていると妙に緊張したものだ。つまり、サッカーボールだとか、輪ゴムに引っ掛けて飛ばすスチロール製の飛行機だとか。子供の思考回路は、少なくとも幼少時の僕に関しては「危険だからやめておく」ではなく「危険だからスリルを楽しむ」というように接続されていた。そして案の定落とす。流れはあまりないのでほとんどの場合流木か投棄された自転車に引っかかって止まっていたけど、虫取り網を伸ばしても届かない高さなので救出にはバケツの取っ手にビニール紐を結んで持ってこなければならなかった。
学校の裏手から丸抜きコンクリートの坂を下り、その用水の道に入る。水嵩は雨のせいで三倍くらいになって土混じりの濁った水が流れていた。かつての慎ましい姿は見る影もない。向かいの切り立った護岸に突き出した排水パイプが雨水を吐き出していた。
時折振り返ると狭霧はガードレール越しに首を伸ばして荒れた水面を覗き込みながら歩いていた。僕はその時頭の中に浮かんだ「そのひとがうたうとき」を掠れた小さな口笛で吹いた。しばらくすると狭霧がそこにハミングを合わせた。僕はメロディラインしか知らなかったけど、彼女はちゃんと自分のパートを歌っていた。一年の時狭霧のクラスが合唱祭で使ったのがその曲だった。歌は雨と濁流の音の中で二人の間だけに響いていた。
やがてツツジの植え込みがこんもり茂っている低層マンション横の抜け道に入った。コンクリート打ちっぱなしの細い階段を上がって建物の間を抜ける。暗さといい狭さといい路地裏のような道だ。マンションの階段室の横にステンレス製の郵便受けが出っ張っていて、階段の下を斜めに切った天井の下にはサドルのない錆びた自転車が放置されていた。そこはあくまで抜け道。通学路としては正規の道ではない。薄暗くてコウモリが住み着いていそうな雰囲気なのだ。通り抜けると戸建の宅地の端に出る。中央線のない公道がそこでちょうどL字に折れている。
「ここに入るともうすぐそこだよ」僕は宅地の中にある自分の家の方を指し示した。「本当に来ないの?」
「いいの」狭霧は首を振った。
「じゃあ、こないだ僕が柴谷の家に行くのに使った道を教えるよ」
僕は用水から離れる方へ進んだ。表通りを北に行き、雑木林の横を通った。林の木々の葉は黒々と隙間なく重なり合って底のない茂みをつくりだしていた。奥行きがあって向こう側を見通すことはできない。葉の先端から滴り落ちる大きな水滴の音がさあさあというノイズになって辺りに響いていた。坂道を通って橋のところまで来た。当然そこに流れているのは用水とは別の川だ。その川はやがてより大きな川に注ぎ、用水路は遊水地を経て同じ大きな川に注ぐ。いつかは合流するが今はまだ別の流れ。自然堤防の上に桜並木があって深緑の葉をいっぱいにつけた枝が両側から川にかかり、幹は雨に濡れて黒い影のようになっていた。
「ここまで来ればあとはわかるよ」狭霧は橋の袂で立ち止まった。
結局僕らは僕の家から小学校へ通う道のりの三倍くらいの距離を歩き回ったのだと思う。でも足はまだあまり疲れていなかったし、あまり長い時間がかかったようにも思えなかった。それはまるで僕たちの記憶の先端と先端とを結い合わせる作業のようだった。
「それじゃあここまで」僕は狭霧に答えた。
狭霧が歩いていく。僕は橋の袂に立ったまま、騎士の直剣のように傘を地面に立てて見送った。狭霧の後姿は少しずつ、でも確実に小さくなっていった。
彼女の姿が塀の角に見えなくなってから、僕は道端に落ちていた小石を拾って橋の上から川の上空に向かって遠投した。小石は回転しながら落ちて川面に円形の波紋を広げた。大きな波紋だった。石を投げたことに理由なんかない。ただそうしなければ気が済まなかったというだけだ。海原に散骨するのだってただの好みじゃないか。
家では母が焜炉の五徳を外して金束子で磨いていた。僕はまず傘を広げて乾かし、冷蔵庫から麦茶のボトルを出してグラスで一杯飲み、自分の部屋に上がってベッドに倒れた。深い眠りの水面はもうすぐ足元にあって、僕は陶然とその中へ引き込まれていった。
生徒時代の記憶に合唱曲は欠かせないのです。




