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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第1章 詩――あるいは蛇について
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強制力のないごく自然な沈黙

「どうぞ、着替えて」狭霧は背中を向けてスカートの裾折れを直しながら言った。

 僕はジャージの袖を掴んで腕を引く抜く。そうして着替える間、狭霧は渡り廊下側にある作品置き場の棚を眺めて時間を潰していた。スチールの骨組みだけの棚に一年生が作ったブックエンドや小物入れなどが置かれている。木工作品の方が物が大きいから隣の木工室の置き場が足りなくてこっちまで溢れているのだ。狭霧は出来の良さそうなターレット付きのリモコンラックをひとつ取り上げて手の上でくるくる回していた。

 僕が着替え終わった時、狭霧は教壇の横に出した角椅子に座って膝の上で鞄の中身を確認していた。僕が歩いていくと「通知表が出てきた」とわざとらしく言った。

 彼女はまず裏面を見せた。出欠日数の二学期三学期の欄に斜線が引かれ、認定欄の「修了」に校長の認印が捺してあった。僕がそのハンコを見て妙な感傷を覚えていると、狭霧は通知表を上下にくるりと裏返して一瞬だけ中を――つまり教科ごとの成績が書いてある面を――開いて見せた。それから作業台の上に用意してあった鞄と傘をひったくって金工室の外へ逃げた。

 僕は渡り廊下に出た。でも荷物も置いたままだし戸締りもしていない。狭霧はもう校舎の扉のところまで行って顔の横で通知表をひらひらさせていた。僕は「鍵閉めてから」と叫んで金工室に引き返す。

 狭霧は足の速い少女だった。僕が一番よく記憶しているのは四月の体力測定で、トラックに五十メートルのまっすぐなコースを五本か六本引いて、一人三セットずつ記録を取った。狭霧がコースに入った時、僕はいくつか先の組でゴールまで全力で走ったあと心拍数を戻しながらスタートの方へ向かって歩いているところだった。一番インサイドのコースに彼女が見えた。スタートラインの白線の粉が付かないぎりぎりのところに正確に指を置き、顔を上げて少し睨むくらいの表情でまっすぐゴールを見つめる。運動部の連中は自前のスポーツウェアを授業で着ていることも多かったけれど、彼女はスタンダードな白のいわゆる体操着で、裾はズボンの中に入れ、靴はナイキのブルーのランニングシューズを履いていたと思う。陸上部のスタート係がオレンジとイエローのフラッグを振って走者は走り出す。狭霧は男子顔負けの、いささか凶暴なくらいの素晴らしいフォームだった。僕はスタートから十メートルくらいのところに立っていたけど、彼女が走っていくのを後ろから見ると上体がすごく安定しているのがわかった。あっという間に小さくなって、ゴールを過ぎたところで一緒に走った組の中で最初にコースを逸れる。真後ろに近い角度から見ているとゴールの順位がわかるのはその時だった。一番はやはり一番に横へ抜けてくるのだ。

 職員室は会議中で、僕は荷物を置いて後ろのドアからこっそり入り、部屋前方の鍵掛けまで行って戻ってきた。すると技術の先生が会議を抜けてきて廊下で僕を捕まえた。

「せっかくの半ドンなのにもう帰っちゃうのか」

「すみません、でもどうしても調子が出なくて」僕は答えた。苦笑いをこらえたせいで顔がよじれそうだった。

「そうか……、会議が終わったらと思って楽しみにしてたんだが」先生は腰に手を当てた。

「夏休みは来るつもりですから」

「わかったよ、気にするな」

 狭霧は僕と先生のやり取りのあいだ職員トイレの入り口の陰に隠れていて、ドアを開け閉めする音を頼りに出てきた。職員室前の廊下は両側を部屋に挟まれていて窓がない。そのせいか蛍光灯の光が床や壁にぼんやりと反射して閉館後の水族館のようだった。床材の歪みが水面の揺らめきに似ているのかもしれない。昇降口前では長い廊下を使って陸上部がダッシュのトレーニングをしていた。シューズのきゅっきゅという足音や合図の笛の音が規則的に聞こえた。コーチが集合をかけると三十人くらいが一斉に返事をしてぞろぞろと体育館の扉の前に集まってくる。

 下駄箱で靴を替え、傘立てから自分の傘を引っこ抜いて外に出る。雨は続いていた。小さく無数の雨粒が鰯のように群れをつくり、もっと大きな誰かの腕となって辺り一帯を傲慢な優しさでもって包もうとしているようだった。雨の霧が白く立ちこめて視界の遠くの方を塞いでいた。

 そういえば狭霧は僕のところに傘を持ってきたけど、もしかしたら一度は一人で帰ろうとしたのかもしれない。昇降口から引き返して僕のところへ来たのかもしれない。下校する生徒の流れに逆らって危うい橋脚のように立ちつくしながら逡巡する彼女の姿を僕は少しのあいだ想像した。

 彼女はローファーを履いてガラス戸を抜け、荷物を背負い直して庇の下で傘を広げる。雨の中に繰り出して、五六段の階段を下がったところで振り向く。僕はその一挙一動を注意して捉えている。微笑した唇が傘の縁から覗く。

 僕も雨天の下に出て傘を開く。それぞれの傘の下で長い道のりを駅に向かう。傘の分だけ互いが離れていたし、雨音も大きい。僕らはほとんど喋らずに歩いた。

 コンコースの屋根に入って傘の水気を拭い、改札を通ってホームで電車を待つ。上りが二本も行ってから下りが来た。僕らは並んでベンチシートに座った。車内は妙にすっからかんでシート一本を独占できた。向かいのシートも体の両脇にどっさり紙袋を乗せたおばさんが一人端の席に座って居眠りしているだけだった。遠くにも一人客しかいない。静かだ。やはり僕と狭霧も特に喋らなかった。荷物を膝の上に乗せて、傘は角に座った狭霧が手摺に二本まとめて掛けていた。石突の下に小さな水溜りができる。空調はどちらかというと車内の湿気を追い出すために作動していた。天井からぶら下がった週刊誌のビラがその風で時折ばさばさとはためいた。

 列車は雨の中を走り、外の景色は窓ガラスの曇りや雨靄のせいで一層淀んで見えた。駅で停車して扉が開くと冷たく湿った風が車内に吹き込んだ。ホームの雨樋にしがみついていた水滴が風に流されて車内の床の上にぼたぼたと落ちる。

 狭霧は左手で荷物を抱え、右手は腿の横に置いてシートを撫でていた。前縁や側面はあまり擦れないからまだ長くて手触りの良い毛並みだった。単に安心のために触れているのか、あるいはそうやって自分の居場所を確かめていたのかもしれない。

 僕らはほとんど話をしなかったけれど、何か話をしなければという気持ちも不思議と起こらなかった。話したいこともやはり特になかった。必要に迫られて黙っているのでもなく、喋りたいことがあるのに気が進まないというのでもなかった。ただそこには自然な沈黙と静寂があった。一人静かに電車に揺られているのとほとんど変わらない気持ちだった。

「少し付き合ってほしいんだ」乗り換えのあとで狭霧は訊いた。電車の中はやはり空いていてほとんど無人だった。

「なに?」

「別に一人でもいいんだけど、見納めに小学校まで行ってみようかと思って。そっちの駅の方が近いでしょう」

「近いだろうね」

「せっかくだから」

「構わないよ」

 狭霧は電車がいつもの自分の駅に近づくとアナウンスに耳を傾けたり扉の窓に目を上げたりしてちょっと落ち着かない様子だった。今まで二年半、日々繰り返してきたルーチンに抗う無意識が彼女の中で悶ていた。それは電車が速度を落とすに従って大きくなり、扉が開いている間に極大を迎え、電車が再び走り出すと消失に向かっていった。


 徹底して「雨」を印象付けるための第一章。

 そして2度繰り返される「場面」。狭霧と2人で電車に乗るのは2度目だ。その状況だけを見るなら冗長なリプライズに過ぎないかもしれない。ただこの作品は冗長さを疎んじてはいない。疎んじるなら前回のシーンを省略して、ここで『人間の土地』の話を持ち出してもいい。でもそうはしなかった。別の話をするどころか、2人は(文面上は)一言も交わさない。

 この作品はむしろ積極的に冗長さを取り入れている。そしてここでは言葉のあるシーンと言葉のないシーンに分別することによって、人と人の関係は言葉の内容でも分量でもなく、共有する時間と機会によって深まるものなのだということを示唆している。この時点ではそれはまだいささか飛躍した主張に思えるが、のちに決定的に共有時間の重要性を示す場面があらわれることになる。

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