蛇は絡み、毒牙を突き立てる
「これからどうするの?」狭霧は箒をロッカーに仕舞う。
「帰るよ」僕はちりとりをごみ箱の上で叩きながら答える。
「あ、私も帰る」
「部活、いいの?」
「行けって?」
僕は首を振った。狭霧はロッカーを開けていて、僕は空になったちりとりを彼女に渡した。彼女はそれを扉の裏のラックに突っ込んで閉めた。不良が蹴飛ばしたせいで全体が歪んでいて、取っ手のところを殴らないと完全には閉まらなかった。
「もう手遅れなんだ。練習試合でさ、出ちゃってるから。学校にいないの」
「手、洗った方がいいよ」
廊下やトイレの水道の蛇口には石鹸を入れておくネットが付いているのだけど、技術科棟の水道にはそれがなくて、石鹸は裸のまま水切り穴のついた器に乗せられていた。蛇口はいくつかあるのに器はひとつだけで、小さく摩り減った石鹸や、割れたのや、時々石鹸ではなくてたわしが乗っていることもあった。この日は幸いしっかりした新しい石鹸が王様のように鎮座していた。僕はそれを手の中で泡立てたあと狭霧の手の中に落として、彼女はちゃんと器に戻した。
ハンカチで手を拭いてハンドクリームを貰う。彼女は僕の差し出した手の甲に1センチ半くらい絞った。葡萄と木苺と、何だろう、とにかく果物系のいい匂いがした。
計算のために出していた文房具を筆箱に引っ込める。狭霧は作業台の角の席に座って僕の計算ノートに目をつけた。機械油で所々黒くなっているので、そこを触らないように爪で角を掴んで不器用にページを捲った。
「ネジ作るのも大変なんだね」
「そうでしょ。着替えるから――」僕は鞄から畳んだ制服を出して広げようとしていたが、狭霧の次の言葉に阻まれた。僕の言葉と行動、両方が阻まれた。
「ミシロはどうしてここに来るの?」
「機械に慣れるためだよ」
「その先に」
「先?」
「将来の夢とかさ」
「ああ」
「ない?」
「具体的に自分がどうなりたいかって思ったことはない。でも、自分で何か作りたいんだ。一から百まで全部自分でさ」僕は一度持ち上げてしまった制服を膝の上に下ろして作業台の縁に腰を預ける。左手をちょっと持ち上げれば頭を撫でられそうなところに狭霧が座っている。「自分が何をつくれるか。人と違うものをつくれるか。人間の個性はそういう創造にあるのだと思う」
「吾何をか為さん」
「もし僕がいなければ、そのネジはこの世になかったわけで。ネジくらいなら他のネジでも代えが利くんだろうけど、そうじゃないものを作り出せればいいと思うんだ」
「代えが利かないものを?」
「そう」
「それって、何にとって代えが利かないものなんだろうか」狭霧は学者みたいに訊いた。
僕は少し考え込まなければならなかった。「たとえば、世界、だろうか。大勢のヒトやものの集まりとしての」
「それは世界全体でなければいけないのか、それとも、世界に含まれるものの一部でもいいのか」
「一部でもいいだろうと思う。一人のためのものがのちのち世界全体にとって不可欠になることもある」
「私にとって代えが利かなければ、それでもいいの?」
僕はその質問に対する答えを上手く考えることができなかった。
刃先の鋭い質問だった。言葉は穏やかなのに、僕の奥底にある構造的な欠陥を抉り出そうとしていた。
不思議だ。簡潔な一言なのに。
「まあね」と僕は答えるしかない。
「でも、自分の価値を決めてくれる人や世界が不確定なものだったら、それにとってどんなに代え難いものも絶対にはなれない」
「個性を確かめるには足りない?」
「そう」
「だけど、それを言い始めたら、世界にも、人間の感覚にも、何も確かなものはないってことにしかならない」
「だって、私の中だけで満足できずにどこか別のところに存在の根拠を求めることは、結局そうなるんだ。何が確かなのかを問い続けていく……」
狭霧は言い淀んでから少しだけ首をこちらに向けて目の端で僕の顔を窺った。彼女の中で何かとてつもないものが口を開きかけていたのに、そこでしゅんと閉じてしまう。
「でも今ミシロは創造に自分を求めている」
「うん」
「それを仕事にしたいの?」
「そうだよ」
「いいね。私なんか不安で仕方がないんだ。世の中は納得のいかないことだらけで、大人の自分がどんな自分になっているかなんてろくに想像もできないしさ」
「そう、でも、そう思える方が大人だと思うな。好きなことばっかやってさ、それじゃあ駄目なんだよ、きっと。これじゃあ生きていけないって、そのうち痛感すると思うんだ」
「それでも、ミシロはさ、それをわかってて自分の好きなことを続けられるんだ」
狭霧は僕に背を向けているので表情は窺えなかった。少し首を俯けて、半分眠っているみたいに思える。
「私は、どうかな。仕事に限ったって、好きか嫌いかより得手不得手で、英語は得意だから。これからネイティブもいろいろ知ることになるし、翻訳なんて無難だって思う。でも門は狭いのかな。こっちにはそういうの専門にやる大学もあるみたいだしさ」
「その方がよほど現実的だよ」
「そう?」
「それに、僕にしたって、いつもいつもじゃない。特に今日みたいな日は」
「立ち止まってみたくもなる?」
「立ち止まらずにはいられないんだ。上で止まった観覧車みたいに、不安定で、心許ない」
「現実なんて、どこにあるのかな」狭霧は呟いた。
現実なんてどこにあるのか。
その言葉の意味は僕にはまだわからなかった。
狭霧は僕の左手を取ってその手の甲を自分の頬に寄せた。目は瞑っていた。僕の手に狭霧の手の熱が伝わる。指先に柔らかい髪の感触がある。でもそれを感じられたのはほとんど彼女が僕の手を離してからだった。事態を把握した時には彼女は教壇の向こうにまっすぐ立っていた。鞄の肩紐に腕を通し、傘を持っていた。
「ごめん、ねぇ、もし少しでも嫌だったならそう言ってね。本当のことを言って。もうすぐ私はいなくなるんだから、これからお互いのことがどうなるか、周りの目がどうとか、なんてことは気にしないでいいよ。好きなように振舞って。もし少しでも嫌なら、私は一人で帰るよ。今日は、ミシロが私のことで迷惑していると思ったから、謝っておきたかったんだ」彼女はそう言って傘を両手で取り上げた。
結局その時何をするのが最善の選択だったのか、いまだに判断がつかない。わかるのは、彼女には彼女の存在を全面的に受け入れ、肯定してくれる何かが必要だったということ、つまり、彼女の全身をしっかりと抱きしめて、君はこの世界にいなくちゃならない存在なんだと言ってくれる天使が必要だったということ、それだけだ。その天使にとっては彼女のどんな言動も予想外ではない。何をしても天使は『君がそんなことをする人間だと思わなかった』などとは決して微塵も思わない。つまり天使の抱くイメージは本質的な彼女と全く一致している。そういう何か、自己存在を確定して現実世界に結び付けてやる何かを彼女は必要としていた。
雨は降り続き金工室の屋根にばたばたと打ちつける。トンネルの反響のようなサラウンドが途切れず大気を震わせている。
とにかく軽率な返答だけはできない。それは僕にもわかっていた。困惑が顔に出るのもだめだ。僕はただ傷つけたくない一心だった。相手が逃げようとしている時は追っても無駄なのだ。どんな生き物だって、本来的に触れ合いを許す相手には、そういうものだろう。立っているよりは座っている方が追う気がないという意思は明瞭だ。だから僕はくっつけておいた椅子を跨いで膝の間に手を揃えて突いた。ゆっくりとそうした。
「嫌じゃない」僕は言った。
「それはきっと嘘か過信だよ」狭霧は傘を置いて僕のふたつ先の椅子まで戻ってきた。膝を揃えて横向きに腰を下ろす。
「もしそうなら、過信の方がいい」僕は言った。
「私は傷つけるよ」
狭霧は髪の匂いや体温の感じられる間合いまで顔を近づける。
「どうだろう」と僕。
淵田の言っていた蛇のイメージが現実に重なる。白く滑らかな腕が腕や脇腹を這う。絡みつく。相手の体をしっかりと締め上げながら、襟を越えて首筋に触れる。そして咬む。牙が――実際には爪が――肌に食い込む。破ろうとする。
最初におそろしい痛みがあった。肉を千切られるような痛みがあった。ようやく慣れると皮膚の内部に爪の刺さっている感覚がひたすら続いた。狭霧はまるで崖の上から転がり落ちながら我夢中で掴んだ手掛かりが本当に頑丈なものかどうか確かめているようだった。彼女の背後には浩々とした深淵が広がっていた。
僕は圧倒されて少しのけぞった姿勢のまま固まっていた。手も微妙な高さに持ち上がって宙に浮いたままになっていた。それに気づくだけでも随分時間がかかってしまった。恐る恐る彼女の肩に触れ、軽くさする。
同い歳の人間がこういう温かさのするものだと初めて知る。狭霧の髪は少し濡れていた。
人間の心の揺らぎは、ぞっとするような孤独や絶望は、夏の夕立のように前兆もなく、僕たちのあらゆる働きかけも虚しく、分厚い雲とともに現れて地上を暗く濡らしていく。
やがて雨は過ぎ、夜に向かうやわらかな彩色の空の下で僕たちはある種の痺れのような不思議な感覚に包まれて息をしている。周りの景色が次第に認識されてくる。狭霧は手の力を抜いて僕の背中に回し、傷を舐めてその上に顎を乗せた。彼女の胸が広がったり狭まったりしてだんだんゆっくりと呼吸をしているのが感じられた。
「淵田はきみのメールを拒んだ」僕は訊いてしまった。でもそれはとても自然なことのような気がした。ふっと言葉が浮かび、浮かんだことに気づく前に口が動いていた。
「知りたいんだ」僕は僕自身の意志を確認するように続けた。
狭霧はほんの少し首を傾けた。僕らの耳と耳が当たった。
彼女はゆっくり時間をかけてから話し始めた。
「読んでいて返さなかったのかもしれない。受け取ったけど読まなかったのかもしれない。着信拒否か、アドレスを変えたのかもしれない」狭霧はまるで童謡を語って聞かせるみたいなとてもやわらかい声で言った。「何を送っても返信がこないの。私はまるで果てのない暗闇に向かって言葉を投げ続けているみたいだった。手に石を持って遠くへ投げる。石は途中で闇の中にふっと消えていく。そろそろ落ちるかなと思う。でも音はしない。私の足元の床は固くて、靴底くらい薄く水が張っていて、爪先で突くとぱしゃんと音が鳴って波紋が広がる。石を落とすと床に当たるかたんという音がする。ちゃんと反応がある。でも遠くへ投げると駄目なの。向こうで水が枯れていたらかたんと音がするだろうし、深くなっていたらばしゃんと音がして波紋が広がってくるはず。でも何もない。石は消えてしまう。それはとても怖いことなの。苦しくて、孤独で、だんだん自分が駄目になっていくのがわかる。でもやめることはできない。そうしたら自分の手元まで闇にのまれてしまう。水が深くなってくる。もっと早く駄目になってしまう」
狭霧の言葉の中にある景色は首筋や腕を伝って僕の中までつるつると入り込んできた。それは古いトンネルのように冷たく湿った暗闇だった。
「淵田が私に告白したのは、おばあちゃんが死んだ少しあとだった。私は彼が不安定な私を受け止めてくれるような気がしたの。でも違った。私たちはお互いが求めているものをどちらも与えることができなかった。それだけ。でも私の友達何人かはそのことで淵田を問い詰めようとして、そういうのを見ていると、私は疎外されて、相手の方にだけ世界が広がっているみたいな、そんな感じがした。メールが届かないのは相手が存在しないからじゃなくて、私が存在しないからなのかもしれない。だからみんな私の姿がだんだん見えなくなって、私の声が聞こえなくなっているんだ。そんなふうに」
狭霧の話は客観的だった。まるで他人の話をしているようだった。僕は手と腕の位置を少し変えて彼女の肩や背中の感触をもう一度確かめた。
狭霧が淵田に何を求めていたのか、何を話そうとしていたのか、なんとなくわかった気がする。たぶんそれは狭霧が僕に求めたのと同じものだ。今日話したこと、そしてこの前狭霧の家で話したこと、あるいは話し相手になるという、ただそれだけのことだったかもしれない。
「……今の私には私が現実に生きているという感覚が薄くなっているのだと思う。私の現実はこの場所やこの体ではないどこか別の座標にあって、この私はいつか現実の私の夢になって消えてなくなってしまうような気がする。本当の私はここにはいない。あなたもまた私にとっての現実ではないのかもしれない。時々、他人の目を通して私を見ることがあるんだ。私を見ている視点が私の意識に差し込まれる。実体のない視点、それが今の現実の私の存在なのだと思う。その視点が比較的長くこの私に取りついているから、私は自分を私と認識している。私と自分の繋がりは傾向に過ぎない、確定したものじゃない。あなたや他の誰かとこの世界を同じレベルで共有しているということが私には信じられない。私だけが誰にも感じられない空洞になって、私を含まない世界がひとりでに続いていく怖れや不安を、私はいつも感じている。ねぇ、私はここに居る?」
狭霧にとって自分という概念は感覚ではきちんと捉えられないものだった。けれど自分という概念を理論で捉えるのはもっと難しいことだった。多くの哲学家が自分というものの解明に挑み、そして一握りの納得と多くの謎を残したまま死んでいった。彼らの朽ちた理論が渦巻く灰色の海の上を狭霧は漂っていた。
ねぇ、私はここに居る?
「わからない」僕は言った。「でも確かに君はある。それが僕にとっての現実だ」
「ありがとう」狭霧は体を離して僕の肩を持った。「あなたは誰かがここに来ないか不安に思っている。まだ誰も来ないということが私にはわかっているけど、私がそう言ったところであなたの不安は消えない」
僕らは離れた。窓の外には依然として雨が降り続け、屋根に跳ねる雨音が響き、金工室の中は薄暗かった。緊張と閉塞の塹壕から這い出してなお世界は殺伐とした雨の気配に包まれていた。




