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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第4章 絵画――あるいは破壊と再生について
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新しい朝

 翌朝僕は日の出前に目を覚ました。部屋の中は暗く、カーテンの隙間から覗いた空が闇よりもわずかに明るかった。暗く薄青い雲が浮かんでいた。空より雲の方が明るいのだ。顔を洗って髪を梳き、オレンジのジャンパーを着て一階に下りて電話の横のメモに「いったん家に帰ります」と書いて合い鍵で戸閉めをして家を出た。外はほどほどに視界の利くようになっていた。息が白く光る。空気は精鋭部隊のようにきりりと冷えている。ジョガーも犬の散歩もいない。信号機だけが夜番の続きをしている。

 マンションのエレベーターは動いていた。扉の前に立ってしばらく悩んでから、階段を使ってどうにか八階まで上がった。家に入った。家具がかなり動いていた。戸棚の中の食器もかなり危ない。ひとまず落っこちそうなものだけ下ろして応急措置をした。その間テレビをつけてニュースを流しておく。昨日の各地で取られた映像がかなり集まってきているようだった。まだ早朝なので生の映像はない。シャワーを浴びて服を替える。黒いVネックと、気合が入るように迷彩柄のカーゴパンツ。パソコンを立ち上げて学校の情報を調べる。残りの期末テストは無しだそうだ。ベランダに出て手摺に乗り出すと地平線を抜けたばかりの太陽が見えた。対岸の新しいマンションが長い影を下ろしている。見下ろすとあちこち飛び回っているカラスの姿が見える。昨日は飲み屋が休業だったろうから、食い残しや吐き戻しなんかの朝ご飯がなかなか見当たらないのかもしれない。

「おはよう。昨日はまた何度か余震があったようだけど、状況を悪化させるほどのものではなかった。千住の僕の家にも大した被害はありません」僕は狭霧にメールを打った。なんだか彼女が心配しているような気がしたからだ。僕はその心配を救済する気持ちだった。諸外国から日本に救援の申し入れが舞い込んでいるという時に、気持ちとしては逆をやっている。

 たしか『人間の土地』にも砂漠にまつわるそんな一節があった。飛行場の方位を見失って一面の砂漠の上を迷い飛んで燃料がじりじりと空に近づいている時に、書き手はむしろ目指すオアシス都市を救いに行かなければならないという使命感によって気力をつなぐ。砂漠によって断絶した都市と都市のネットワーク、人と人とのつながりを生み出し、回復し、維持するのは自分の役目だと。今の僕にはその気持ちが実感として理解できた。

 返信はすぐに来た。

「よかった。こちらのテレビでも大分話題になっているよ。世界的な災害だね」

「絹江さんには連絡取った?」

「さっき母が電話をしていたところ。昨日はお店の片付けで帰りが遅くなって、暗い中でそのまま眠っちゃって、今朝起きてから結構危ないのがわかったって。危ないといっても家は平気よ。礎石がずれたり、瓦が落ちたり、そんなのはないみたい。長押にかけた写真が落ちそうになっていただけ。まあ、額の一つでもどんな怪我をするかわからないけど」

 返事があまりに早いので僕らはまるで話しているみたいだった。僕がベランダでメールを読んでいるなら、狭霧はガラス戸の敷居の傍に立っていた。

「平気?」と僕は訊いた。

「どうして?」

「自分の体験していないことは余計に心配しちゃうものじゃないかと思って」

「ああ、そうかも。

 とにかく、平気そうでよかった。

 こんな時に申し訳ないけど、今日は学校で散々発表をやらされたせいで疲れていて眠たいからそろそろ寝るね。それでは、おやすみなさい」

 おやすみなさい。

 ああ、そうだ。こっちが朝なら向こうは夜だ。

 欄干を背にして部屋の中を眺める。薄暗い。カーテンが風に揺れる。

 景色に向き直る。薄紙のような朝の冷たい空気が背の低い街の上に溜まっている。低く新しい太陽が眩しい。夜などもうどこにもない。

 きっと空間の隔たりは絶対のものではない。けれど時の隔たりはただ忘れられるだけで、消してしまえるわけじゃない。

 彼女の居る世界ではこれから夜が深まろうとしている。それは今しがた僕の上を通り過ぎていった夜だ。

 廊下の奥で電話が鳴っていた。深理さんだろうと思って取るとやっぱり深理さんだった。

「よかった。ちゃんと家にいるのね」

「はい。特に被害ありません。足しになりそうな食べ物とか持っていきます」

「気をつけて帰ってきてね」

「はい」

「気をつけてね」彼女は念押しする。

「はい」

 僕はウールのダウンジャケットを着て、キッチンに置いてあったデコポンを三つとキウイを二つレジ袋に入れて持って家を出る。

 帰り道は朝の景色や空の色よりも災害の爪後に目を凝らした。アスファルトの亀裂や、カルデラのように浮き上がったマンホール。家の基礎がずれて側溝ブロックとの間に生まれた隙間。それらは沈没して魚のすみかになった戦艦のように、全てのものが長い時間をかけて侵食され自然に返っていく前兆に思えた。生き物は停滞することなく死に向かって瑞々しく活動する。人の道具も同じように使用されながら擦り減り、汚れ、縮んでいき、やがて壊れる。それでも眠っているよりいい。

 生まれ変わる

 それは夜と朝との滑らかな境目のようなものだろうか。それとも午前零時に日付変更線を跨いだ気分になることだろうか。

 手島家に戻ると玄関に入る前からいい匂いがした。ベーコンを焼いているらしい、換気扇の吐き出した空気が裏口や車庫の辺りに充満している。サンバーの横を抜けたところで塀の上を歩いてくる例の黒ネコと目が合った。しゃがんで待っていると塀を下りてランウェイみたいにくねくね歩いてきて僕の指先の匂いを嗅ぎ、僕は触れるかなと思って手を伸ばすのだけど、すかさず顎を引いて右手をおたまのような形に構え、指先を狙い澄まして一回、ついでにもう一回横薙ぎにパンチした。

 血が出た。

 左の親指の横っ腹に二センチくらいの浅い切り傷。とりあえず口で吸いながら玄関に入って

「戻りました」と挨拶する。

 ネコも何食わぬ顔で扉の隙間をするっと入ってくる。

「ああ、よかった。ちょうど今つくっているところ」と深理さん。目の遣り場に困るくらいぴったりしたスウェットのワンピースに白いカーディガン。フライパンの上にベーコンエッグが乗っている。「あら、君にも何か作ってあげようね」とネコを見つけて、それから僕と見比べる「引っ掻かれたの?」

「今そこで」指を咥えたまま答える。

「ちゃんと洗った方がいいわよ」僕が持ってきた果物の袋を受け取って中を覗き込み、それを調理台に置いて、店との通路横の押入れから消毒液を取ってくる。

 傷を流しながら僕は他に何を見るでもなくフライパンのベーコンを眺めていた。少しずつ小さく縮れていって、縁に小さな焼き目がつき、流れ出た油が跳ねる。少し火を緩めてやる。

 水を切ったところに彼女はティッシュを当てて消毒液を吹きかける。残りが少なくてすぴすぴ言う。

「絆創膏は?」

「いいです。好きじゃないので」

 妹さんはテレビのリモコンを手にしたまま食卓の上に伸びている。自転車の疲れがまだ残っているらしい。もこもこしたフリースを被っている。テレビにはライブ映像が出始めていた。ヘリのカメラが孤立した地区を上から映している。

 ベーコンエッグとクロワッサンを皿に乗せてテーブルに並べ、食後にキウイとデコポンをひとつずつ皮を剥いて食べる。妹さんはあまり食べようとしない。「だってさ、柑橘類は朝に食べちゃいけないのよ」

「どうして?」深理さんが訊き返す。

「肌が紫外線に過敏になるから」

「外に出る用事でもあるの?」

「さあ、それはわからないけど」

「どちらにしたって、おいしいけど」

「だから太るのよ」

「肌の話じゃないの?」

 今日明日の命の心配をしている人がいる。そんな状況を目の前にしながら美容のことでなかなか真剣に悩んでいる人間がいる。きっと彼女には心配になるような知り合いが被災地にいないのであって、立場は僕も同じだ。それが人間の共感の限界なのだ。知っているものを失った時の痛みは僕のものだ。けれど知らないものの喪失は僕の喪失ではない。そこには実感としての痛みもない。痛むとすればそれは想像力の作用によるのだろう。その想像力が空間や時間に隔てられた人と人を結び、互への関心を呼び起こし、ひいては誤解と思い込みとを生むことにもなるのかもしれない。

 ネコは牛乳を貰って居間の日向でしばらく横になったあと、庭のガラス戸の前にすっと背筋を伸ばして座って誰かが気づいてくれるのを待っていた。戸を開けてやるなり飛び出して塀を越えていく。

 朝食の洗い物は僕がやる。デコポンの皮を生ごみ籠の袋に入れ、スポンジで包丁や食器を洗う。濯いで乾燥棚に干す。その間に姉妹は二階へ上がって洗濯機をしかけて布団を畳み、僕が洗い終わるより先に下りてきて店の片付けを始めた。通路から除けた箱がまだカウンター周りに山積みになっている。アンプの電源を入れてシャルル・トレネをかける。

 三十分ほどして洗濯機が止まり、休憩がてら三人で干しに上がる。ハンガーと洗濯ばさみに選別して掛け、ベランダの物干しに出す。そして作業に戻る。

 その日は西側の通路の片付けのついでに階段下の納戸を開けて整理をした。32スケールの棚の裏側にあって間口が階段と同じなのでとても狭苦しい。懐中電灯を照らして手前のものをどんどん外へ出して掘り進む。比較的よく使う道具類の奥に滅多に日の目を見ない電動鋸やピクニックキットが仕舞われていて、斜めになった天井の隅のところに飛行機の翼のようなものが見えた。日の丸が描いてあってかなり大きい。ビート板くらいありそうだ。二百度くらい左にバンクした姿勢で腹側を階段下の斜めになった天井に押し付けられている。

「あ、飛行機だ」

 僕が呟くと妹さんがそっちへ懐中電灯を向けた。「何?」

「鍾馗だ」と深理さん。彼女は戸口から背伸びをして見ている。翼端の形と塗装だけでわかったらしい。鍾馗というのは昔の陸軍戦闘機の愛称で、機首に太いエンジンを載せて胴体を細く絞ったので横から見るとオタマジャクシみたいな形をしている。主翼も翼というより鰭みたいに小さい。小回りよりもスピードを目指したデザインだった。

「知ってました?」僕は深理さんに訊いた。

「いいえ、初めて見た」

 僕は足場を確認しながら背中を屈めて近づいて翼の端に触れてみた。埃が指先にいっぱいくっついた。「舵があるな」

「ラジコン?」

「かもしれない」

「出してみましょうよ」

 僕は手前に折り重なっているダンボール箱やらを妹さんの方に送った。

「あいたっ」何かが足首に引っかかった。

「ああ、ごめん」と妹さん。

 手前が開いて少しずつ胴体が見えてきた。もしかしたら風化していてちょっとでも乱暴に扱ったら粉々になってしまうんじゃないかという気がした。だから慎重に持ち上げて、僕が腕を伸ばした状態で持ち上げるにはいささか重かったけれど、どこにもぶつけないように、力士の寄り切りみたいにしゃがんだまま納戸の入り口まで持って出た。

「やっぱり鍾馗だ」と深理さん。僕の頭や肩に付いた埃を払う。「あー、Uコンだわ」

「ユーコン?」妹さんは電灯を切って飛行機の横にしゃがむ。

「ラジコンは電波を使うけど、これは凧みたいにワイヤーで操縦するのよ」

「ワイヤーって、マリオネットみたいに?」

「そう」

「そしたら飛行機は自分の周りをぐるぐる回るってこと」

「ワイヤーをうんと長くしたらそんなに回っている感じはしないでしょう?」

「そうかなあ」

 引き続き納戸を掘り返しているうちにくたくたのおやじさんが帰ってきて真っ先に風呂を浴び、その間に深理さんがうどんを茹でて昼食にした。

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