創造に捧げる、ネジはきっと上手く切れる
同じ日、学校の日程は午前中で終わりだった。下校時刻は変わらないので各部活が午後をいっぱいに使って好きに活動できる特別な日だった。屋内部活はいつも通り、雨であいにくの屋外部活は廊下をトレーニングルーム代わりにして活動する。
人間の活動には数多のカテゴリがある。広範な括りがあれば、ごく限定された括りもある。大勢で行う活動もあれば、一人で行う活動もある。具体的な括りがあり、抽象的な括りがある。体を動かすものがあり、じっと待つものがある。仕事ということもあれば、趣味ということもある。数多というしかない。
十代の僕は中でも創造というものに心を捧げていた。まっさらな無の平面から僕の手で何かを生じさせること、それを確かな形に留めることを追い求めていた。実在するもの、実在でなくとも既に誰かが想像したものだけで人間は満足しない。誰だってこの世界を、あるいはその中の小さな一部分を、自分の思い通りにしてみたいと、理想通りの形にしてみたいと思っている。でも多くの場合それは現実の世界の在り方から抜け出して科学的な破綻に至っている。だからこそ途方もない非現実だと割り切った上で幻想するのかもしれない。幻想と創造は人間という種族の特権であり宿命なのだ。
この世界には実在しない個人的な幻想の中だけに閉じ込められているものがたくさんある。そして幻想の産物たちの多くは卵の殻を破ることなく死んでいく。幻想それだけではあまりにふにゃふにゃと軟弱で現実世界の重力のもとで生きていくことはままならない。そんな軟体の幻想にしっかりとした骨格を与えられる人間だけが幻想を現実に変えることができる。幻想を幻想のまま捨て置くことに満足しない人間が時代の閉塞を打破してきた。幻想の骨格とは何か。それはたぶん合理的な説明に基づく説得力だ。幻想をひけらかしているだけでは誰も、もちろん自分さえ説得することはできない。筋が通っていて合理的な説明ができるから説得力がある。自らもその幻想が幻想ではなく有効な構想だと信じることができる。幻想は構想に変わって初めて現実の人間とリンクする。高みに浮かんでいる雲から高層建築のてっぺんに姿を変える。幻想を実現する道程は長く険しい。体力が必要だ。その険しさを悟った多くの人間が見上げるのをやめて去っていった。十五の僕はまだその険しさの渦中にあるわけではなかった。けれど骨格のない幻想に甘んじている人間を軽蔑する心は持っていたし、自分のことは軽蔑したくないと思っていた。それは人生の初期における輝かしい希望の一部だった。
僕は中学三年生の時点で何の部活にも所属していなかった。例えばクラフト部というのがあったけれど、木や革の加工が主で金属加工は活動の範疇ではなかった。だから僕は放課後に個人で金工室を借り切って一人で籠って工作をしていた。機械は自由に使えたし、二年生の技術科で真鍮のペーパーウエイトを作る授業があって、その端材を譲ってもらって材料にすることができた。お小遣いで買い足さなければならないものはほとんどなかった。家から持ってきたものだってボロ雑巾くらいしかない。工作機械を使う腕を鍛えるのが目的であって、何か完成させたいものがあるというわけではなかったから、特別な材料、特殊な道具は必要なかった。
その頃の僕はかなり長い時間をかけて旋盤を使ったねじ切りに挑戦していた。金工室にはそこそこ立派な普通旋盤が一基あって、先生もそこそこ熱心に指導してくれた。痩せた職人系の先生だった。しかし先生には先生なりの事情があって、他の部活の顧問でもあったし、この日は学期末の職員会議があるので、最初に短く安全確認だけすると鍵を預けて出ていってしまった。
まず一時間くらい頑張って切って、でもやっぱり調子が悪かった。わざと規格のわからないネジを拾ってきて、見本と合うように試行錯誤して切るのだ。ピッチが大きかったり小さかったりするのをノートに書いてギア比をがりがり計算する。それを何度か繰り返しているうちに額の奥がサハラ砂漠みたいに熱くなってきた。腕が重たい。続けられるか? いや、どうだろう。このまま続けていたら怪我をするかもしれない。
だめだ。
ゴーグルを外して作業台に投げる。
グリスの付いた手をクレンザーで洗い、角椅子を四つくっつけて膝下の乗らないベッドを作った。ゆっくりと横になり、頭の後ろで手を組んで枕にする。
仰向けになると視界から窓が消えて妙に暖かい孤独を感じた。不思議なものだ。何百人という人間が同じ学校に居るのに、僕以外に自主的に金工をやりたいなんて人間は一人も居ない。僕だけ。それが寂しくもあり、でもどちらかというと気分がいい。僕は特別だ。
機械の作動音が消えてからしばらく経って僕の耳は静寂に慣れてくる。薄い屋根にしとしとと雨の当たる音が聞こえていた。技術科棟は平屋で、出入口は校舎の職員室近くから中庭に伸びるコンクリの渡り廊下に面していて、H鋼と耐震用ワイヤに支えられたトタンの屋根が校舎から技術科棟の前まで延びている。その先は中庭を横切って教室区画の方へ続いているけど、屋根がなくて雨曝しだし、近道にもならないから誰も通らない。人間の気配というものがまるでしなかった。吹奏楽部の音階の練習や運動部のホイッスルは聞こえる。でもそれは僕にとって演劇の舞台背景のように無害だ。僕も彼らもお互いのことを邪魔しないし興味もない。
誰かが窓を叩く。先生だったらノックはしない。起き上がって作業台の天板から少し顔を出して入口の方を窺った。狭霧だった。目が合うと彼女は顔の横で小さく手を振った。機嫌が良いみたいに見えた。けれど扉のところまで行ってみると、そんなに明るい様子でもないことがわかった。鏡を覗き込む時のような言葉のない目でガラスのこちら側を見通していた。本当に僕のことを見ていたのだろうか。わからない。
僕は手に付いた金属の切り屑を払ってから引き戸を開いた。雨の匂いを一杯に含んだ湿った風がどっと吹き込んできた。金工室の中の比較的乾いた空気と雨の外気が交換されて混じり合う。
狭霧は何度か大きく瞬きして僕を見上げた。渡り廊下より金工室の方が一段高くなっている。
「雨が強くなったね」彼女はろくに口を開かずに低い声で言った。それから渡り廊下の中庭方面に首を向けた。
僕もそっちを見る。
確かに雨は正午より強く降っているようだった。渡り廊下のコンクリは横殴りに吹き込んだ雨で一部が濡れていた。僕は狭霧の肩を見た。ブレザーは着ていない。ブラウスは半袖。灰色のベストとスカート。それから足元を確認した。きちんと上履を履いている。鞄と傘は足元の壁際に寄せて置いてあった。
「部活は?」と僕。外に出ると校舎で活動する部活の掛け声や楽器の音がよく聞こえた。
「エスケープ」狭霧は狭霧に戻って僕に顔を向けた。屈んで鞄と傘を取り上げる。
「寒くない?」
「平気」
「入ったら」
狭霧は肯いて金工室に上がる。彼女が入ったあとで僕が引き戸を閉め、黒板前の教卓を指して「荷物は上に置いて」と言った。教卓といっても造りは生徒用の作業台と同じ、角に万力がついただけの平たいテーブルに過ぎない。今はそこが最も旋盤から遠く、僕の作業の影響が少ない場所だった。
「傘も上ね」
「はい。何か流儀があるの?」狭霧はまた僕の言うとおりにして訊いた。それはもうなんともないしっかりした受け答えだった。
「床は散らかってるからね。切り屑が付いたままだと危ないんだよ」僕はベッドに使っていた角椅子のひとつを教室の前方に引きずっていって座った。屑を落とすために袖を指先まで伸ばして何度か振った。
「ああ、そういうことか」狭霧は教卓の下から角椅子を出し、座面を水平に見て小さな凶器が付着していないかきちんと確認してから僕の前に置いて座った。「ここ、勝手に使っていいの?」
「勝手じゃない。公認だよ」僕は答える。
「怪我するかも」
「その時はそこの内線で呼び出せって。手当はしてやるけど、事故も治療も自己責任。その辺雑なの。公立だったら生徒だけで機械使わせたりできないからね、きっと」
「ミシロは結構前から放課後ここに来ているよね」
「知ってたの?」
「知ってたよ」
狭霧は体を捻って鞄をがざがざ漁った。携帯電話を取り出してちょっと開いてすぐに閉じる。時刻を確認したみたいだ。茶色っぽい黒のW43Sで、液晶の背面にタイル模様があり、彼女がそのまま手の中に包んでいるので時々きらきらと光を反射した。
「邪魔したかな」狭霧は申し訳なさそうに訊いた。
「してない。寝てたの見たでしょ」
「ごめんね、捗らないよね」
「柴谷のせいじゃないよ」
「淵田のこととかさ。気にしてるかなと思って」
「じゃあ、その話?」僕は努めて表情を変えずに言った。狭霧を怖がらせたくなかった。
「そう、その話」狭霧は目を俯けて、携帯電話を手の中で縦横に回転させた。ダンスのステップみたいに動きの速い時と遅い時があった。「いつか話すよ」
いつか……と思ったけど僕は黙って頷いた。
「ね、何作ってたの」狭霧は改めて訊いた。
「ネジだよ」
「ネジ。なんだっけ、えっと、サイコロじゃなくてさ……」
「タップとダイス?」僕は旋盤に一番近い作業台まで歩いてその道具を取り上げて見せた。「タップにダイスを嵌めてネジを切る」
「そうそう、それそれ。タップとダイス。去年使ったやつだ」狭霧は床の切り屑を踏まないように爪先で歩いてきてタップを僕から受け取る。柄の両側を持って上下に揺すって重さを確かめる。狭霧が切り屑を避けて踏み込んできたから、じゃんけんで負けたチームが足場の新聞紙を折り畳んでどんどん小さくしていくゲームがあるけど、ほとんどあんな状況になった。とても近い。彼女の髪の匂いが感じられるくらいだった。
僕は一歩退いて彼女の指や爪の形を少しの間眺めた。
「確かに楽だけど、これで一種類の径とピッチのネジしか切れないから、規格に合わないのを作る時は旋盤の方がずっといいんだよ」
「旋盤って?」と狭霧は顔を上げる。
「このでかい機械」
「え、ネジは?」
僕は自分で切った失敗ネジを一つ取って見せ、それを旋盤のチャックに当て、こうやって削るのだと簡単に説明した。狭霧にはネジの大きさと旋盤の大きさが不釣り合いに思われたようで、そのことをちょっと馬鹿にした。
「ネジ一つにこんな大きな機械が必要なの」
「他にもいろいろ作れるんだよ。僕はネジ切り職人になりたいんじゃなくて、旋盤に慣れておきたいんだ。他の工作機械も、使えればあとあといろいろ便利だからさ」僕は反論した。掃除ロッカーから箒と塵取りを出して、まず作業台や旋盤の上に残っている切り屑を床に払い落す。
「もうやめちゃうの?」
「今日はもともと調子が悪いんだ。雨の日はだめなんだよ」
「じゃあ、梅雨はいやだね。機械が悪くなるの?」
「機械は……どうかな。ただ、人間の体が悪いんだよ。それは確かだ。やっぱり晴耕雨読なんだ。現代人でも、農民じゃなくても、屋根があっても。晴れの日に作って、雨の日は知識を読むようにする。雨の日に無理して作れないわけでもないけど、人間の体はちゃんと晴れの日と雨の日を判別していると思う。目を瞑っても耳を塞いでもわかっちゃうんだ。関節痛みたいにさ」
狭霧はもう一本箒を出して逆さに立て、ヒンジのネジを締めて、そこでじっと手を止めた。
「ねえ、やっぱり見せてよ」と彼女。
「ネジ切り?」僕も手を止める。
「うん。一度だけでいいから」
「きっと上手くいかない」
「いや、上等なのができるよ」狭霧は僕の方へまっすぐ顔を向けて断言した。
「わかるんだ」
「まあね」
「ゴーグル。演台の引き出しにあるから」
狭霧は授業用のボリカーボ製のゴーグルを取ってきて頭に被る。しっかりと目の周りに当てて「いいよ」と言う。僕の準備はできている。
旋盤を動かす。巨大なモーターがうーんと唸りを上げて回り始める。最後に試したギアを組んで、チャックに真鍮の棒を噛ませる。刃の位置と送りを合わせて外周から切る。面取り、終わりの溝、そしてネジ。
狭霧は角椅子に膝立ちして僕のすぐ横でできるだけ近くで見ようと首を伸ばしていた。そのゴーグルの表面に切り屑のちろちろと反射する光がうっすら映っていた。
順調だった。長い切り屑がきらきら光りながら散った。サメの歯の形をした刃が真鍮を螺旋に削っていく。
行程の終わったネジを外して流水にあてながらナイロンブラシで切り屑を落とす。いい出来栄えだった。狭霧の予言どおりだった。
「貸して」と狭霧。ゴーグルを額にずらして押さえてから、僕が渡したネジを蛍光灯に翳す。宝石でも眺めているような様子だ。「貰ってもいい?」
「いいけど、使い道があるの?」
「さあ」狭霧はネジをスカートの裾で拭いて、少し迷ってから筆箱に入れた。
ゴーグルを仕舞って掃除を再開する。箒を取り、僕は機械の周りを重点的に、狭霧は教室全体をささっと掃いて回る。僕がちりとりに持ち替えて狭霧がそこにごみを掃き入れた。少しずつ下がって、取り残しがないように。僕らは基本に忠実に掃除をした。




