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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第4章 絵画――あるいは破壊と再生について
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店番と電話

 冬休みに入って最初の水曜日、それは同時に二〇一〇年最後の水曜日でもあったのだけれど、正午前頃に突如として手島模型のおやじさんから電話がかかってきた。僕は深理さんかなと思って受話器を取ったのでちょっと動揺した。おやじさんの方から僕に対して接触を図ってきたことなんて今まではなかったからだ。

 急ぎの頼み事があるという。僕もいよいよあの親子の使い走りだなと思いながら筆箱と物理の問題集を鞄に入れて自転車を漕いでいった。耳が凍りそうだった。

 到着してみると玄関は鍵が開いていて階段の下り口でおやじさんが首元のネクタイと戦っていた。僕は靴を脱いで手を出す。おやじさんは大人しくホールドアップして顎を上にする。

「焦っててね」おやじさんはもどかしさと恥ずかしさ半々で言い訳した。

「ええ」

「どうして上手く行かない」

「わかってますって」

 アイビーリーグ風のネクタイをセミウィンザーに結んで襟を下ろし、角のボタンを留める。喉のボタンは外したままでいいという。僕は下がる。おやじさんは襟の具合と結び目の位置を指で確かめる。白地にピンクのグリッドの入ったボタンダウンのシャツにサンドグレイのツータック。裾をきちんと入れてベルトをしている。覆いのついたバックル。背広はダイニングの椅子にかかっている。

 事情は電話で聞いていた。突然大学に呼び出されたのだ。それだけなら普段の手島模型は店を閉めていれば済むのだけど、この日は年末の入荷があってすっぽかすわけにいかなかった。直前になって受け取りをキャンセルされたら配達の方も迷惑だろう。それならちょうどよく暇そうな高校生が居るじゃないか、というわけで抜擢されたのは理解できる。だけど手島模型に来るまでにいくつか疑問も浮かんでいた。

「深理さんはいないんですか」僕は黒いコートを脱ぎながら訊いた。ネクタイの歪みをチェックしてやるのだって普段は彼女のはずだ。

「出かけてるんだよ」

「白州さんと?」

「うん。『と』というか、『に』というか。あれだよ、なんだ、個展のお披露目会だとか」

「へえ」

「聞いてないの?」

「いや、白州さんが個展をやるっていうのは知っていましたけど」

「とにかくいないんだよ。いないものは仕方がない」

 おやじさんは僕を二階に連れて行って次の間の押入れから荷受け用のハンコを出して僕に渡した。

「お金は要らないですか」

「入荷は先払いだから客が来なければいらない」

「お客さんが来たらどうするですか」僕一人に手島模型を任されるのではないかという勘違いが先走っていささか戦々恐々としていた。

「入口を閉めておけば入ってこないだろう」

「でも、でもシャッターは開けておかないと配達の人が来たかどうかわからないですよね」

 おやじさんは額を皺でいっぱいにして金庫や帳簿の並べてある棚の奥に腕を突っ込んだ。なんだかミラージュⅢ戦闘機を真横から写したような形の木札が出てきた。OPENとCLOSEが表裏になっている。「これをどっかに掛けておけば開けておいてもわかるんじゃないか」

 僕はハンコとミラージュの札を受け取る。おやじさんは押入れを閉めて一階へ下りる。

「五時には帰れると思う」

「なんとかやってみます」

「店の鍵はここにある」革靴を履きながら柱のフックに掛っているキーホルダーを指す。「何かあったら電話してな」

「はい」

 おやじさんは徒歩で出かけた。僕は玄関の鍵を閉めてから急いでミラージュの札を表に掛けた。垂直尾翼の付け根の辺りに紐をかける穴が開いていたので、新聞を縛るのに使うプラスチックの紐を探してきて長めに通し、半自動扉の上のサッシにクリップを挟んで内側から吊るした。CLOSEの面がしっかり表に向くように癖をつけておく。

 冷蔵庫から調整豆乳のパックを出してグラスに注ぐ。僕が頻繁に出入りするようになってから手島家の冷蔵庫にも豆乳が常備されるようになった。でも知らぬ間に減っているので僕だけが飲んでいるわけでもないらしい。カウンターに座ってそいつを飲み、空けたグラスをショウウィンドウ越しの光に翳してみる。底がちょっとした切子になっていて面白い屈折をしていた。グラスを洗ってから店の中をぐるっと回り、棚の下が埃の温床になっていたのを思い出して箒で床を掃いた。それから模型の箱を開けてみたりテレビを点けてみたりして時間を潰した。お客は全然来なかった。それどころか表を通り過ぎる人だって一人もなかったんじゃないだろうか。車の音もほとんどなかった。僕はようやく少し安心してカウンターで物理の宿題を始めた。

 冬休みにはいつもたっぷり宿題が出る。作文一本くらいの春休みは置くとして、夏休みの方が量は多いけれど日数と年末の忙しさを加味すればよっぽど冬休みの方がてんこ盛り感がある。それに実家へ帰ると気分がだれるから千住の家にいる間に終わらせておきたかった。

 休みと宿題という命題については羽田と議論したことがある。先生という生き物は目の前に休みがあると宿題を出さないと気が済まない生き物なのだ。休みなら時間があるでしょう、これくらいの課題はできるだろうから、次の授業までにやってきてください。それがいくつもの教科に渡って重なるので結局休みが休みではなくなる。先生は生徒が何教科もの授業を受けていて他の授業でも宿題が出るってことに気付いていないのかもしれない。それとも普段部活に土日を潰されている腹癒せなのだろうか。休みは誰かに強制される物事がないから休みなのではなかったのか。人は合理性の豚になって休みの本質を忘れようとしている、とかなんとか。

 一時間ほど経って外でネコの鳴き声がしたので正面から出てみた。二匹のネコが道傍で険悪な感じになっていた。白黒の靴下ネコと薄いトラのオレンジネコだ。そのうちにオレンジの方が太鼓橋みたいに背中を曲げて毛をぴんぴんに逆立てる。白黒は側溝の縁を背に体を低くして首を引っ込めている。どっちのネコも相手の横顔にパンチを食らわせてやろうとして少し手を持ち上げてそのまま静止している。膠着。

 そこで僕がそっちへ歩いていこうとすると先に白黒の方が気付いて、その動きにオレンジが釣られた隙に植え込みの中に飛び込んだ。オレンジも慌ててそれを追って見えなくなる。公園の中まで見に行ってみる。オレンジが日向に出て一匹で毛繕いをしていた。白黒はどこだろう。屈んで顔を地面に近づける。向こうの植え込みのツツジの下にいた。いかにも不服そうに目を細めて尻尾をべしべし地面に叩きつけている。

 僕は店に戻って奥へ入る前にミラージュの札が何かの拍子にOPENを表にしていないか確かめた。一度裏返してCLOSEの文字を確認しておく。二杯目の豆乳を飲んだ。

 十四時頃にとうとう電話が来た。僕は電話機を手元に近づけてからしっくりと座り直して身構え、アルミホイルみたいに緊張して受話器を取った。

「はい手島模型」

「私です。深理です。ミシロくん?」

 なんだ、深理さんからだった。彼女は携帯電話を持っていない。公衆電話からかかってきた電話だった。

「あ、はい」僕は気が抜けたせいで妙に明るい声で答えた。

「ええと、あんまり手持ちがないからそっちからかけ直してほしいんだけど、番号出てるわね?」

「はい」

「じゃあ、いったんバイバイ」

 電話が切れる。

 何の話だろう。

 手島模型の電話はナンバーフォンなので液晶に向こうの電話番号が出ている。着信履歴からその番号を呼び出してこちらからか掛ける。深理さんが出る。コレクトコールなら十円玉は要らないはずだけど、接続が面倒だから僕にやらせたのか。

「どうしたんです」僕は訊いた。

「ううん、別に、急用じゃないの。ただ話したくなっただけ。私が白州くんの個展にいるのは聞いた?」

「聞きましたよ」僕は上体を崩してカウンターに肘を置いた。「え、僕がこっちにいるって知ってたんですか」

「お父さん白州くんの携帯にかけてあなたのことをこっちに知らせたのよ」

「はあ、そんなこともあるんですね」

「そんなこともあるものよ。うん。あなたに頼むなんて、よく気が回ったものね」

「じゃあ僕が荷受けのために留守番しているのも」

「ええ、だから掛けたの。本当にごめんね、何度もこっちの都合で呼び出して。何か困ったことはない?」

「すごくびくびくしてるけど、まだ大丈夫です」

 僕にはおやじさんが深理さんより先に僕を頼りにしたということが結構驚きだった。

「深理さんはいま会場に?」

「そうよ。一応伊勢丹の中。白州くんは忙しそうだし、彼の付き添いとはいえ、ちょっとばかし彼のモデルをやっていただけの私が居てもお客さんの相手はできないし、ちょっと外を歩いていたの。でもどうやって時間を潰したらいいかなと思って」

「いいですよ。こっちも忙しくないし。今日はなんだか全然お客さんが来ない」

「えっ、お店開けてるの?」

「いや、シャッターだけ開けてるんです。それでも見に来る人がいない」

「そう、それならよかった」

「公衆電話からですか」

「そう。でも平気よ。公衆電話使いたい人なんていないもの。今時お年寄りだってケータイ持っているものね。まあ、万一ということがあれば、その人に代わってあげなくちゃだけど、見たところそんな様子もないわ。みんな平和そう。今ね、エスカレーターの吹き抜けのところで回りを眺めながら電話してるの。下の階も見えるわ」

「気をつけて」

「え、何に?」

「エスカレーターの吹き抜けでしょ? 僕はそういうところに居て手摺に寄り掛かったりすると落っこちそうで怖いから」

「高所恐怖症なの?」深理さんの声が少し笑う。

「ちょっとだけ。床が傾いているんじゃないかって思うこともある」

「意外ね」

「どうして?」

「だって、飛行機が好きなんじゃないの?」

「それはそうだけど、パイロットになりたいってわけじゃないし」

 沈黙。僕はカウンタの上にシャーペンを立てる。消しゴムの方が下。クリップが一方へ重さをかけるので簡単には立たない。二度やって諦めてペンを置く。店の中はとてもひっそりとしている。三菱重工の空調も黙り込んで蝙蝠の親玉みたいに天井にぶら下がっている。灯りも点けていない。模型の箱の通路に向いた面が小さな鏡になって表の明るさを反射している。それが棚全体ではモザイク画のように見える。

 深理さんが受話器のマイクの傍で大きく息をついた。

「溜息?」思わず訊いてしまった。

「ううん。ちょっと息苦しくて」

「?」

「実はね、下着がね、補正下着ってすっごくきついやつでね、全身ぎちぎちなの」深理さんは唇を近づけてすこぶる小声で答えた。「そんなの私が太ってるからいけないんだけど、ああ、憂鬱なドレス」

「大変ですね」

「大変。帰ったらへとへとで一人じゃできないだろうから、脱がすの手伝ってね」深理さんは冗談を言った。

 それが冗談なのは僕だってわかっていたけど、それでも顔が赤くなりそうだったので話を変えることにした。

 深理さんの話が連続していて、これもっと短く纏められないのかなと思わせてしまうのが冗長さの原因なのだと思う。

 他の人のトピックを挟んでいけばあまり感じなくなるんじゃないだろうか。


 それはそうと深理さんとのコミュニケーションツールが電話に偏っていることにお気づきだろうか。これはもちろんメールでしか話せない、声を聞けない狭霧との対照です。

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