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メソポタミアの蛇ノ目  作者: 前河涼介
第1章 詩――あるいは蛇について
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プロローグ・帰りの会

 人間、日が落ちて暗くなれば眠り、夜が明けて明るくなれば目を覚ますもので、そうした地球のリズムとの同期を図るために僕が眠る前にすることが三つある。一つ、枕と掛け布団の位置をきちんと整える。二つ、遮光カーテンを窓の両脇へ押しやる。三つ、消灯。そして布団に潜り込む。

 再び朝日が差し込むその時まで完全な覚醒はない。重要なのは光だ。朝日さえあれば僕の体は自然と起き上がる準備を始めて、窓や天井に集まった光が暗闇の広さを上回るその瞬間に僕もまた意識を取り戻す。それから少なくとも数時間は布団の上に戻らない。無理に横になったままでいると背中がむずむずする。もちろん寝苦しくて夜中に起きることもあるけど、せいぜいトイレに行って水を飲んでくるくらい。一度毛布の下に空気を送り込んで姿勢を変えれば、意識の覚醒はあまり長続きしない。どういうわけか僕は気付いた時から五年以上もそんな野鳥のような生活を続けている。

 だから逆に暗い環境で目を覚ますのは難しい。うっかりカーテンを開け忘れた朝、太陽が低くて寒い朝。そして雨。夜明け前から雨の朝は寝坊が多かった。新学期が始まってしばらく、これが二三日も続くと、ああ、なんてこった、今年も梅雨が進駐してきやがったと思う。まるで沈没船みたいに重たい気持ちになる。こういう時は明るくても布団から出る気になれないし、起き上がっても頭が重くてすぐ倒れ込みたくなる。

 まだ目もきちんと開かないままベランダに出て、外の世界が雨の音にしっかりと閉ざされているのを確かめ、それから「大地讃頌」のメロディを口笛で吹く。「母なる大地のふところに 我ら人の子の喜びはある 大地を愛せよ 大地に生きる人の子ら その立つ土に感謝せよ」という始めのところだ。雨の壁にぶつかってとても広がりのない音になる。


 梅雨という季節は春と夏に挟まれて毎年肩身の狭い思いをしているに違いないのだけれど、僕の記憶の中で最も長い梅雨、二〇〇八年の梅雨は五月の終わりから七月まで筋肉モリモリの腕で双璧を押しやって、我が物顔で地面に向かって湿り気を投下していた。雨は天上から無尽蔵に降ってきて真っ黒なアスファルトの上に鬱蒼とした霧を立たせ、用水の水は土色に濁って橋の下の堰でちょうど浅い滝のようになってごうごう唸っていた。

 中学三年の僕は家を出て長い傘を少し前方に傾けて支え、骨の先端から滴る水が爪先に当たらないように歩く。駅に着いてもまだ頭が冴えない。電車の床にできた水たまりが加速度で前へ伸びたり後ろへ伸びたりする。鞄は下には置けない。改札前のタイルが滑る。昇降口で上履きに履き替える時に靴下が濡れていないと少し救われた気分になる。必ずタオルを持っておいて、鞄を拭き終えたら、次は染みた制服の裾を押さえる。放っておくと授業の間どんどん脚が冷えてくる。帰りは家に着けばいくらでも着替えられるから少しおおらかになって濡れて歩く。傘を土間に広げて、靴に丸めた新聞紙を突っ込んでおく。


 ……


 六月も終わりに近づく金曜日、帰りの会で先生が狭霧を話題に上げた。

 帰りの会は班会議と合唱と委員会連絡と先生の話で成り立っている。あとは日直の号令が少々。気をつけ、礼、お願いします。起立、礼、さようなら。

 僕は議長係だった。二三度前の音楽の授業で合唱のテストがあって、その名残のまま「大地讃頌」をロッカーの前に並んで合唱したあと、僕が教卓と黒板の間に出てクラスメートを座らせる。一クラス約三十人。男子も女子も、特に後方の連中は話に興じていてなかなか静かにしない。放っておいたらどんどん声がでかくなる。歌の時より声が出てんじゃないか。僕は教卓をグーの底で叩く。口で言っても聞かないから、いつも何か叩く。いくつか視線が僕に刺さり、でもそのちくちくとした不快感は静寂とともに消え去る。ほんの一瞬、惜しむように静けさを堪能して、生徒からの連絡事項がないか確認を取る。副級長が手を挙げる。僕が指名する。五分ほど学年委員の会議の報告。僕は彼がプリントを配るのを手伝ってから、ドアの横で配膳台に後ろ手を突いて彼の話を聞いていた。先生は窓際の机で椅子の下で足首を組み、時々プリントに目を落としながら生徒がこそこそしていないか見張っている。窓の外はベランダだ。アルミの手摺から雨の雫が次々に落ちて塀のモルタルに跳ねている。リズムはない。ないけれど、雨粒同士お互いに合わせようとして微妙にずれているようにも見える。

 週末だった。支度の早い生徒はロッカーから出した鞄やジャージの袋、白衣の袋を机の上に並べて帰りの会が終わるのを心待ちにしている。

 僕が背にしている壁には時間割表やビラを貼るためのコルクボードがあって、その下端にヒートンのようなフックがついている。給食当番は週末に白衣を洗濯してアイロンをかけてくる決まりだから、大抵の当番は金曜の給食の片づけが終わると白衣の袋をロッカーか鞄に押し込んでしまうのだけど、予備を別にしても毎週必ず一二着は帰りの会まで掛けられたままになっていた。

 並んだフックには中身が綺麗に畳まれて薄っぺらい予備用の袋が二つ。それに雑然と詰め込まれて膨らんだのがもう一着分、まだ配膳台と壁に挟まれていた。教室の後ろの方で僕にこっそり合図をするやつが居て、僕は指の本数で「6」を示して返事をした。膨れた袋の表にかなり薄れたマジックの文字で「3‐A ⑥」と書いてあったからだ。そいつが肯いたので一番前の生徒に黙って渡した。彼女は振り返って事情を確かめてから後ろに流す。先生はプリントを広げた姿勢のままで、見えていないか無視しているかのどちらかだった。

 副級長の話が終わって、他に連絡もなかったので僕は先生に引き継いで席に戻った。さっき僕に白衣を頼まれた子の隣の席、一番前で右から二列目。先生は最初に狭霧の話をした。

「柴谷がかれこれ一週間休んでて、心配に思う人がいるかもしれない。先生も心配だ。本人はちょっと悪い風邪が長引いているだけで来週の月曜にはちゃんと来るって言ってるんだけどな。そういうわけで見舞いついでに今週分のプリントが溜まっているから誰かに持っていってほしいんだが、家を知ってるのは……」

 先生がそう言うと窓際の女子たちがざわざわした。誰が同じ路線だとか、それでも家の場所までは知らないとか、そういった言い合いをしているんだ。

 狭霧の席は僕の斜め後方だった。それをちょっと振り向いて、先生と目を合わせてから軽く手を挙げた。僕は狭霧の家の住所を知っていたし、他の生徒に比べれば家も近かった。降りる駅も一つ違うだけだ。先生も僕が適任だということはわかっていて、他に有志が現れるのをあえて期待してみたのだ。

 僕は周りの反応を見たり聞いたりしないように意識して黒板の日付に目を留めていた。日和見だと思われるのが嫌だったからだ。先生はいくつか生活面のコメントをして話を終わりにした。日直が起立と礼の号令をかけて解散。一部は部活に駆け出す。一部はまだ帰りの会が終わっていない隣のクラスにちょっかいを出しに行く。

 当時僕は金工室に寄って機械の勉強をしてから帰るのを日課にしていたのだけど、その日は技術科棟に寄らなかった。帰りがけに狭霧の家にプリントを届けに行くのだと思うとうまく集中できない気がしたからだ。教室を出てまっすぐ昇降口に向かった。

 下駄箱の前で上履きを脱ぎながら前庭の方へ目をやる。地表を覆う水煙が妙に白っぽく見えた。屋内よりまだ外の方が明るいせいだ。昇降口は白黒映画のように薄暗いコントラストで満たされていた。簀の上で靴を履く。ガラス扉を押して外に出ると、さーっという雨の音が大きくなった。僕の周りに見えない球体があって、その壁面全体から音が発しているみたいだった。目の細かい重たい雨が傘を打った。

アイデンティティの物語、ここから始まります。

記号的、構造的な側面を持った作品なのでしばしば解説的なものをここに書いていくつもりです。

3年前に一度完成させた作品なので展開と結末は見えていますが細部は手直ししていくので、投稿リズムが崩れたらぐにぐにいじってるなと思ってください。

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