0章―4頁
【null-vier】
「さて……と。そんじゃ」
まずは、と手始めに、閉ざされていたシャッターを左の拳で適当に二回、一回、三回とノックする。回数に特に意味はない。安っぽい薄手のシャッター特有の、軽く乾いた、よく響くノック音。
そうして耳を澄ますと、こちらへといぶかしげに向かってくる革靴の足音の響きが、シャッターの向こう側に聞こえる。三人、というところだろうか。
……三人も釣れた、か。今夜はとことんツイてるな、逆に怖ろしくなってくる。
オレーグが、ゆったりと構えを取り始めた。腰、膝を深く落とし、左手、左足を突き出してシャッターに対し半身になる。後ろへと下げた右足に全体重を乗、同じく後ろへ深く引いた右手には短く握った刺叉。まるで、強く、強く引き絞った弓のような、力のみなぎる溜めだった。
「始めるとしますか」
顔を覆う翳りの下、オレーグの表情が少しばかり引き締まる。ここからは、軽口も叩いてはいられない。失敗など許されたものではない、始末屋オレーグとしての沽券に関わる依頼だ。
かれの、首に提げられ、胸の前で月光に冴え光る銀の円盤型のペンダント――祈蹟を起こすのに必要不可欠で、神聖国ではこれをタリスマンと呼ぶ――に、明らかに自然のものではない、うすぼんやりとしたライトブルーの光が満ち始める。
そのどこか神々しい水晶のような輝きは、淡く、しかし確かな明るさで辺りを満たしていく。影がより濃く縁どられ、そうでないものがこの港湾部に場違いなほど神秘的に照らし出された。
それはオレーグがこれから、今まさに纏っている『翳り者の貌』よりも遥かに高度な祈蹟を起こすことを予感させた。
「……祈蹟『遍く翳りの凄愴』」
――祈蹟『遍く翳りの凄愴』
それは古き異端の聖職騎士《翳り纏い》ヴァルナハンによる、
《翳り》の秘術の一つ。
彼は祈蹟に言う《翳り》を「この世の物なれば何物にも避け得
ぬ衰え」とした。その衰えを具象化した《翳り》を纏うことで、
彼は最強の騎士として名を馳せたのだ。
この『遍く翳りの凄愴』は、得物に纏わせた《翳り》を対象へ
切っ先を当てた瞬間に流し込み《翳り》の流入によって脆弱化し
た敵手の堅牢な防壁をぶち抜く、という祈蹟で、《翳り纏い》は
これを纏った長槍を片手に龍とも渡り合ったという。
溜めに溜められたオレーグ自身の力に、纏った翳りにより槍へと姿を変えた刺叉が添えられ、そして、ついにそれが、シャッターへと、大きくなり行く足音へと向けて。
突き込まれた。
●
「紅茶のおかわりをお持ちしました。オレーグ卿の調子はいかがですか?」
奥の壁に取り付けられた壁一面を覆う巨大なモニターに照らされる薄暗い部屋の中、彼は自らの主であるマザー・アルカリアへと紅茶を運んでいた。双城柚理、という名の彼は、最近マザーの秘書に指名されたばかりの、マザーお気に入りの青年だった。優しげな顔つきで線が細く、声は穏やか。年上の女性にウケのいい容姿をしていた。存外気に入られているのもそれなのやもしれない。
……まったく、紅茶を入れるのが得意ということだけで、本当に僕なんかが選ばれてしまってもよかったのでしょうか。仕事の出来など本当に人並みがやっとだというのに。
最近の彼の悩みはそれに尽きる。
「すでに二人倒したよ。相変わらず芸術的なまでの手際だ。今から乗り込むところ」
彼を振り向きもせず、マザーはソファーに座してモニターに釘付けになっている。その口調は楽しげで、普段の彼女の様子とは少し違った。彼女はお気に入りのエージェントたちを動かしその現場を付近に置いた使い魔からの中継で見るのを何よりの楽しみとしているのだ。
マザーという名やその喋り口で誤解されがちだが、マザー・アルカリアと呼ばれる彼女は、決して年寄りではない。少なくとも柚理には、どう頑張っても三十真ん中より上とは見えない。
さすがに本人直接聞いたことはないが。というか恐ろしくてできたものではない。
オレーグ卿くらいになると話は別なのだろうか。
上司の誰も知らないようだったのだから、まだまだ若造の自分如きが知るべきものではないのかもしれない。だから彼は今日も疑問を堰き止める。
本頁で登場した語彙についていくつか。
【タリスマン】
神聖国ヴァイデントラーデにおいて宗教者に与えられる、「神のしもべ」たる第一の証。神より庇護を賜り、神の力を借り受けてその代行者として祈蹟を起こすための絶対のイコンである。
ヒシュターの教えにおいて神より力を賜り神の意志を代行することは他の何事よりも名誉なことであり、民草はその最大の栄誉に浴するために、日々このタリスマンを身に付け、神への信仰を欠かさない。
タリスマンは通常、直径10センチ程度の大きさの銀の円盤で、表面には信仰する神ごとに違った紋章が刻まれる。裏面にはその者が宗教上、神恵階層というヒエラルキーのどの位置に存するかが記され、その位が上がるごとに賜る恩恵の質も変わってくるのだ。
【龍】
現在地上にて、知能を有し大きな勢力を築いた生物種の中でもっとも古くより存在する種。人類が生じるよりも、天累が生じるよりもさらに以前の時代には、世界の覇権をめぐり魔族と争うことなどもあったが、元来よりの争いを好まぬ性質もあってか地上領域を大きく魔族に譲った。
現在でも一定の個体数は存在し、地上のあちらこちらにて巣を形成して独自の生態系を築いている。現在ではその姿を見ることは久しくなくなり、人類では一生のうちにその姿を、一度でも目にすることの出来る者がどれほどいるだろうかという程度である。
魔族との戦争で個体数が大きく減少したが、その数百倍は攻めて来た魔族を殺しており、単一の戦闘能力では龍にまで及ぶ『個』の存在は魔族にも天累にも、人類の中にも滅多に生まれないと言われている。
また、魔族の中にも龍の象りを持った者たちが存在するが、それらは龍族と区別の意味を持って卑竜種と呼ばれる。