0章―3頁
【null-drei】
右手に握った「刺叉」を、問いを発した方、背の高い、いかにも歩哨然としたゴツい体躯の男の頭目がけて振り抜いた。マットブラックに塗装されスモークのかかったバイザーのヘルメット頭へとそれは吸い込まれるように叩き付けられ――轟音と共に男が一人、ありえない距離を飛んだ。強化プラスチック製であろうヘルメットがひしゃげ、細かく飛びちったバイザー片の向こうに完全に白目を剥いた男の面が見えた。体躯の割りに意外や線が細く、整った顔立ちだ。
「ウィルバー……ッ! 貴様、この――」
歩哨のもう一人が突然の事態に慌てつつも、アサルトライフルを向けようとするのだが。
「――ひッ!?」
グリンッ、とオレーグの顔、視線がそちらを向くと、竦んだかのように息を呑み、強張った全身の動きが止まる。バイザーを上げていたその厳つい顔から伝わる感情は恐怖と……戦慄。完全に呑まれていた。
……祈蹟『翳り者の貌』。
彼の顔を今、夜闇よりも深い、新月の影の淵から這い出しでもしてきたかのような《翳り》が覆っていた。それは靄のように不定形で、ところどころ濃く、薄く、しかし見る者になにか根源的な恐怖を呼び起こす。
心臓を鷲掴みにされ、背骨をへし折られ、臓腑を喰らわれるような、被食者の恐怖だ。
撃とうとし引き金に掛けた人差し指までも、氷の芯を通されたかのように動かない。翳りのもやの切れ間から覗いた、どう見ても人の物ではない赤い眼光が、男の心を、骨を、肉を、蝕んでいた。
「ぐ……かは……ッ!」
刺叉の、U字に分かれた金具の根元による突きがその喉を捉え、そのまま男の体を一メートル程度、高く持ち上げる。取り落としたアサルトライフルがガシャリと派手な金属音をたてる。
――こいつ……ッ、腕一本で、なんて力だ……魔人か何かなのか!?
「お前らは、この中で何が行われているか、知っているのか?」
咎める響きはなく、ただ聞いている、という印象の語気。声にまで靄がかかったかのように、不明瞭で、しかし穏やかなテノールの声は十分に男へと聞こえた。
「し……知らないッ、雇われただけで……聞かされていない……ッ」
恐怖と、喉を突かれ、そのまま持ち上げられている苦しさに喘ぎつつ、男は答える。圧倒的に強く、わけのわからない闇に覆われた顔の向こうから赤い視線を投げかける碩学者の姿に、男の声は完全に怯えに支配されていた。
「誓えるか?」
「ち、誓う! ヒシュターの神々に誓って……! 知らない!」
「そうか。……安心しろ、命までは取らない」
喉を引っかけ浮いた体を持ち上げたまま、踏み込んだ右足を軸にして大きく半回転、振り回した体をそのままオレーグは、頭からコンクリートの地面へと叩き付けた。遅れてついてきた男の体も地面へと強かに打ち付け、流れるように意識を失う。
「命までは、な。大したことなかったが、とりあえず二人……と」
分厚い、下されたシャッターを見つつ、オレーグはぼやいた。
どうやら、中にいる馬鹿どもは表のドンパチには気付かなかったようだ。
「ついてんな、今夜はめずらしく」
本頁登場の語彙解説
【祈蹟】人類語彙
ヒシュター地方西海岸を領有する西の大国・神聖国ヴァイデントラーデにて使われる、神々への信仰心を具現化する神聖魔法。ヒシュター地方の人類に広く普及する【碩学】と呼ばれる魔法とはまた違い、「信仰する神々より魔法を授かり、それを神の代理人として振るう」という特殊な教義を持つ。
胸に提げたタリスマンこそが彼らの信仰の象徴であり、このタリスマンを依り代に神聖国の聖職者たちは神格を得、人の身にありながら神の領域へと足を踏み入れる。たゆまぬ信仰とたえぬ修行に裏打ちされた祈蹟は、神話の時代の終わった今も神聖国の人々の拠り所として敬謙なる神への信仰に意味を与え続けているのだ。
【翳り】人類語彙
神聖国ヴァイデントラーデ北部に位置する《異端の大都イルゲンツィア》に伝わる、その通り異端の祈蹟の体系。神聖国において信ずる神により人は様々な色の祈蹟を得るが、『翳り』は人の身にありながら神の体系に名を連ねる《小さき神》ヴォーレッグを信ずる者達に与えられた祈蹟の神威である。
《黒き聖女》アリエラや《廃深》カナス、《翳り纏い》ヴァルナハンなどヴォーレッグを崇めた多くの司祭が各々の信仰の解釈を持ち寄り作り上げた多様な異端祈蹟の系譜であり、それぞれの解釈に応じた多彩な祈蹟のヴァリエーションを持つ。がその大半が禁忌指定を受けている現状から、「翳り=禁忌」との印象を抱かれがちだ。
翳りが視覚化される祈蹟においては、翳りは「墨汁を水に溶いたような」「新月の闇夜の奥底より滲みだすような」「人間のこころのように濁った」と表現されるような靄状になって現れる。
他の異端と同じく北の寒都イルゲンツィアへと押しやられたその異端の姿はしかし、人の中に存する負の感情たる怒りや悲しみ、絶望を薪にして祈蹟を起こす、もっとも人の姿に近い碩学と言えるのかもしれない。
【碩学者】
上記の、碩学という魔法を使う魔法使いの人類領域における名称。より学問的意味合いが色濃く表れるのが、他種族と比した際の人類の魔法の特色であり、そういった意味合いからも碩学(あらゆる知の集成、の意)という名は妥当に思える。ヒシュターの三大国に碩学者は多いが、それぞれ国により、傾向、運用方式、学問的分類等に差異が見られる。
神聖国の祈蹟などはその顕著な例である。