冗談なんて、聞きたくないの。
「じゃ、別れようか」
あの人は言った。
なんて反応すれば良いのか、わからなかった。
「冗談だってば」
あの人は言った。
私はますますわからなかった。
だから私は、笑って言ってる彼に、
「ごめんなさい。
そういう冗談、私わからない」
そう言うしかなかった。
付き合ってもうすぐ1年が経つ彼は、時々そんなことを言う。
私はなぜそんな冗談を言うのかわからなかったけれど、真意は聞かなかった。聞けなかった。
しかし、言われる度に私の心臓がドキリとしていた事は間違いない。
私はいわゆる“受付嬢”の仕事をしていて、同じ出身校の先輩だった彼は、偶然にもこのビルの上のほうで働いている。
人が行き交うのをぼんやりと見ている毎日。目的があって行き交う人の流れを見ているのはなかなか面白くて、私は今の仕事が好きである。
「理緒ちゃん、最近さみしそうな顔してるね」
急に声をかけられ、私は顔を上げた。
「江崎さん……お帰りですか?」
「そうそう」
江崎さんは取引先の会社の方で出入りがとても多く、ここで私が一番会話をする相手である。
私は通行証を預かり、にこりとする。
しかし江崎さんはそれを見て笑うものだから、私はため息をついた。
「何したの、笑えてないよ」
「そうですよね……」
「相談、のってあげようか?
今日は夜までこの辺にいるし、もし必要であれば……だけど」
私は大きくうなずいた。
すると江崎さんは胸元のポケットからペンを出し、私の手元にある付箋にお店と時間を書いて去っていった。
私は連絡先も知っているのにな、と思いつつ、それを手帳に挟んだ。
「お疲れ様です」
指定された時間にお店に入ると、江崎さんはすでに来ていて、先にビールを飲んでいた。
「お疲れ、暑くてさー我慢できなかった」
「大丈夫です、気にしないでください」
私は飲み物を頼みながら着席する。
「理緒ちゃんと飲むの、久しぶりだよね」
「そうですよね、江崎さんこのところ忙しそうだったし」
そう言うと江崎さんは、
「俺?そうだったっけ?」
なんてとぼける。
江崎さんとは、以前仕事帰りに立ち寄ったお蕎麦屋さんで偶然一緒になったのをきっかけに、時々一緒にご飯に行ったり飲みに行くようになっていた。
そんな江崎さんは私の6つ上で、結婚しようと思っていた女性と別れてから恋愛から遠退いてしまったらしい。
「それで、どうしたの?」
「なんだか、疲れてしまって、」
「何に?」
「彼ですよ、彼、」
頼んだお酒を受け取りながら私は答える。すると江崎さんは“そんな事はわかっている”とでも言いたそうな顔で、
「この前すれ違ったよ。なかなか仕事もできるみたいだし、いい人に見えたけど」
なんて言う。
「“いい人”ではありますけれど、何を考えているのかわからなくて……」
「はあ、」
「この人、本当に私のこと好きなのかなって」
「んー」
「本当は全く、思われてないんじゃないかなって」
「……」
「“別れようか”って、」
「……ん?」
つまみを口に運びながら気のない返事を何度も繰り返していた江崎さんは、急に顔をあげる。
「どういうこと?理緒ちゃん別れるの?」
「違うんです、彼が“別れようか”って言うんです、真面目に。
それから笑いながら冗談って。
すごく頻繁に言うんです。
私、なんでそんな風に言うのかわからなくて……」
「そりゃあ“理緒、別れたくない。嫌よ”って、言われたいんじゃないの?」
江崎さんはこういう時、話題が重くなりすぎないように、私の声色を真似てわざと場を明るくしてくれる。
「でも、言われるとドキッとする言葉だし、いちいち悩んじゃう」
「不安なんじゃないの?受付嬢って高嶺な感じだし。……理緒ちゃんだし」
「ふふっ、それって良くわからない」
「わかってる癖にー。
理緒ちゃん狙ってる人はいくらでもいるでしょう」
「えー……」
「えー、じゃないよ。
でも、嫌なら嫌って言わなきゃ。
彼氏にストレスかけられてるわけでしょう」
私の脳はその言葉で、これがストレスなんだと解釈した。
そして私はその瞬間、はっきりと言った。
「江崎さん、私別れます」
「んー理緒ちゃん極端。お酒の力でそんな宣言しちゃダメだよ」
「酔っぱらってるのは、私より江崎さんじゃないですか……」
江崎さんはなぜか私の髪の毛先を指でもてあそび始めたのだ。
「私、彼のことをストレスとして感じていたんだなって。
江崎さんのおかげで気づきました」
私は酔っ払った江崎さんを見て笑った。
「じゃ、別れましょう」
私は言った。
「……冗談?」
彼は笑ってそう聞いた。
だから私も笑って、
「いいえ。本気よ」
と答える。
「どういう、こと?」
「そういうことよ。
あなたは何度も私に言っていたでしょう?
だから……良いわ。別れましょう」
不思議と落ち着いた声で言葉が次々に出る。
「ちょっと待てよ。
あれは冗談だって、何度も言っていただろう?」
「ええ。でも、私にとってその冗談は、ストレスだったのよ」
ストレスと聞いた彼は、ついに言葉を失った。
だから私は、
「あなたは何もわかっていなかった。
せめて、気がついてほしかったわ……」
そう言って彼の前をあとにした。
何に気がついてほしかったか。
それは、ストレスによって脱毛症になった私……。
彼が見ていたのはきっと、私じゃない。
ただの“受付嬢”だったのだろう。
ウィッグをかぶって出勤していた私。
気づいてくれたのは、酔っ払った江崎さんだけだったのだから。