03 -再会と転機-
03 -再会と転機-
スラセラート学園内、机の並ぶ教室内にて
葉瑠は一人席につき、試験が始まるのを待っていた。
(結構立派な教室ですね……)
この教室は講義専用の教室らしい。
前方の壁面にはスクリーンが嵌めこまれ、室内にある座席全てにハイグレードの情報端末が設置されていた。
座席数は軽く100を超えている。これだけの情報端末を揃えるとなると、かなり高い買い物だったに違いない。
室内は広く、天上まで高さもある。
席は座り心地もいいし、勉強するには文句なしに最適な空間だった。
是非ともこんな空間で勉学に励みたいものだ。
それができるかどうかは、この試験の良し悪しに掛かっている。
葉瑠は一番前の席で最終確認用に準備していたノートを眺めながら、今後の試験日程について頭のなかで確認していた。
……エンジニアコースの入学試験は筆記試験と実技試験の2つで構成されている。
配点の割合は分からないけれど、実技試験の割合が高いのは明らかだ。
(筆記は大丈夫だとして、問題は実技ですよね……)
ソフト系は自前の情報端末でいくらでも練習できて準備万端なのだが、問題はハード系の試験だ。
教本を読み込んでいるので工具の種類や扱い方などは十分理解している。……が、実際に触ったことがないのだ。
試験では必ず何らかのトラブルが起きると考えていい。
だからこそ、実技以外の試験で頑張らなくてはならない。
(落ち着いてやればできます……できなければ……)
できなければ試験に落ちる。
試験に落ちれば行くあてがなくなる。
行くあてがなくなれば……野垂れ死ぬだけだ。
(絶対に……受かってみせます)
改めて意気込んでいると、教室内でざわめきが起こった。
そのざわめきに混じり、ヒソヒソとした会話が耳に届く。
「……なあ、今入ってきた人って例の……」
「ああ、間違いないと思うぜ」
どうやら教室内に入ってきた人について話しているみたいだ。どこかの有名人か何かだろうか。
あまり興味はなかったが、続いて聞こえてきた言葉に葉瑠は反応せざるを得なかった。
「……あの人が10年前に世界を救ったっていう“救世主”か……」
「!!」
葉瑠は復習用のノートを机の上に放り出し、振り返る。
教室の入口付近には既に人だかりができており、合間からその人物の姿を見ることができた。
(シンギ・テイルマイト……)
ワイルドカットのブラウンヘアに怖気すら感じさせる鋭い目、口元から覗く八重歯は彼の荒々しさをより際立たせている。
雑誌などに載っていた写真通りの顔だ。しかし、瞳の色だけ違っていた。
写真では焦茶色だったが、今見る限りでは真紅に染められている。
しかし、誰もそんなことは気にしていないようで、有名人を前にして興奮収まらぬ様子だった。生ける伝説を目の前にして、気が気では無いのだろう。
そんな受験生とは正反対に、シンギはとても冷めていた。
受験生に押し寄せられ、シンギの表情はどんどん険しくなっていく。
やがてシンギは教室の中央で足を止め、短く告げた。
「……お前ら、席に戻れ」
その言葉には有無を言わせない迫力があった。
ぼそっと発せられた言葉にもかかわらず、葉瑠は鳥肌を抑えることができなかった。
受験生たちも何かしら恐怖を感じたのか、一瞬にしておとなしくなり、各々が自分の席に戻っていった。
シンギさんは歩みを再開し、教室前方の教壇に立つ。
すると前方のスクリーンが起動し、試験日程表と注意書きが表示された。
それは机の上に配られているものと全く一緒だった。
シンギさんはきちんとスクリーンが表示されていることを確認した後、発言する。
「知ってると思うが、俺はここの教官をしているシンギ・テイルマイトだ。今年度は俺が試験監督をすることになった。分からないことや何かトラブルがあったらすぐに報告するんだぞ、いいな?」
「はい!!」
背後から無数の元気良い返事が聞こえてきた。
葉瑠はとっさのことで返事ができず、取り敢えず小さく頷いた。
シンギ教官は腕時計をちらりと見、手元のタブレット端末に目を落とす。
「もう時間だな。……試験開始前に本人確認をするから全員顔上げとけよ」
「はい!!」
今回は葉瑠も返事することができた。
まるで軍隊のような返事だなあと思っていると、机に備え付けられた情報端末が起動した。画面には準備中という文字が表示されていたが、すぐに試験問題の表紙ページが表示された。
「今から回るから、その間注意事項をよく読んどけよー」
シンギ教官は教壇から降り、机の合間を歩き始める。
「えーと、まずはラージ・アトウッドからか……」
すぐにシンギ教官による確認作業が始まった。
名を呼ばれた受験生は「はい」と返事をし、顔を正面に向ける。
シンギ教官は顔を確認すると「オーケー」と呟き、後ろの席に座っている受験生へ移る。
「……」
この一連の作業を見て、葉瑠は動揺していた。
単に顔を見せて返事するだけの簡単な作業だが、葉瑠にとっては都合が悪かった。
シンギ教官に自分の姓を知られてしまう……。
……この姓のせいで私は不遇な人生を送ってきた。
いじめられ、迫害され、世間から冷たい目で見られてきた。
もう二度とあんな経験はしたくない。
昔のことを思い出したせいか、自然と心拍が早くなり、呼吸も荒くなっていく。
(駄目、落ち着いて……落ち着かなきゃ……)
何とか感情を制御しようと頑張るも、症状は悪化する一方だ。
視界が狭くなり、気分も悪くなってきた。もはや周囲の状況すら正確に把握できない。
「次は……!!」
シンギ教官は手元の資料を見、続いて私の顔を見る。
しかし、確認作業をせずにすぐに手元のタブレットを操作し始めた。
「あー、お前が例の……」
受験生の個人データを見たようで、シンギ教官は確信を持って告げる。
「……更木の娘か」
――知られてしまった。
とうとう私の名前を知られてしまった。
絶対に知られたくなかった名前、結賀さんやリヴィオくんにも伏せていた名前。
この名前を聞けば、必ずみんな私の元を離れていく。
何故ならこの『更木』という姓は、10年前に世界中を混乱に陥れた大罪人の名前だったからだ。
「あ……」
葉瑠はショックのせいでうまく声を出すことができなかった。
シンギ教官は異常に気付いたのか、タブレット端末を机に置き、覗き込んでくる。
「どうした? って、顔真っ青じゃねーか……」
真っ青になるもの当然だ。この名を知れば、みんな私に非難の目を向け、悪態を付く。
葉瑠はシンギの気遣いを無視し、恐る恐る周りの反応を窺う。
「……」
隣の受験生を見る。
男子受験生は不思議そうに首を傾げていた。
そのまま後ろを見る。
殆どの受験生が情報端末の画面に目を向けていた。
……どうやら更木という名を聞かれずに済んだようだ。
みんな注意事項を読むのに集中していて、他人のことなど気にする余裕もないのだろう。
しかし、葉瑠の耳にははっきりと軽蔑の言葉が聞こえていた。
――更木って……まさか、あの更木正志の関係者か?
――マジで? 10年前、世界中の軍事施設を襲撃したっていう……
――なんでそんな奴が学校通ってんだ?
――どっかに閉じ込めとけよな……何するかわかったもんじゃないぞ
――さっさと死ねばいいのに
幻聴だ。
これは幻聴だ。
学校に通えていた頃に散々聞かされた言葉だ。
そうだと理解していても、辛辣な言葉は葉瑠の胸に突き刺さっていく。
「あ……う……」
幻聴をきっかけに、過去の記憶が一気にフラッシュバックする。
あの時の迫害のせいで私は学校に通えなくなった。
他人とまともに話すことができなくなった。
人生を、狂わされた。
「ん……ぐっ……」
急に締め付けるような頭痛に襲われ、葉瑠は思わず頭を抱える。
同時に世界が回り始めた。
足に力が入らない。
体に力が入らない。
込み上げてくる気持ち悪さに耐えられず、葉瑠は机に突っ伏す。
「う……」
そして、緊張とストレスによって収縮した胃は、その内容物を机上に盛大にぶちまけた。
酸っぱい臭いが漂い始め、付近から悲鳴とも絶叫とも取れる声が上がる。
「マジかよ!? ……誰か、医務室から人呼んでこい、早く!!」
「は、はい!!」
受験生に指示を出した後、シンギ教官は机越しに私を抱え上げる。
そして、自分の服が汚れるのも気にしないで教室の出口へ向かっていった。
「あの、わたし……」
「黙ってろ」
葉瑠は咄嗟にお礼を言おうと口を開けるも上手く喋ることができず、教室から出る頃には気を失っていた。
――10年前まで私は何不自由なく暮らしていた。
欲しいものは大抵手に入ったし、一人娘ということもあり、多少のわがままも許してくれた。
可愛い服を着て
美味しい物を食べ
長期の休みには旅行に出かけ
生まれた時から成功者になることを約束されていた。
七宮重工の法務部長兼、社長秘書の更木正志の娘だった私にとって、それは当たり前すぎることだった。
だが、そんな生活も終わりを告げることになる。
父が人工衛星明神を私的に利用し、世界中の軍事施設を破壊。多くの損害と犠牲者を生んだのだ。
日本も大規模なクラッキング攻撃を受け、負傷者も大勢出た。
襲撃の規模は他国のと比べると小さかったが、十分過ぎる破壊行為だった。
……攻撃は軍事施設に限られていたため、主な被害者は施設職員が主だったが、その周辺に住んでいた住民にも被害が出た。
負傷者は数知れず、死者も合計で千名を超えた。
当初は報復を恐れて誰も何も言ってこなかったが、シンギ・テイルマイトの活躍によって父が捕まるとガラリと変わった。
一夜にして私は大罪人の娘となった。
すぐに外を出歩けなくなり、家には様々なものが投げ込まれ、昼夜問わずカメラが向けられた。
父が脱走して死亡してからは騒ぎは収まった。
しかし、当初の中傷が可愛く思えるほど、それからの10年は受難の連続だった。
何度も引っ越ししても非難が無くなることはない。
あらゆる土地で私は陰湿ないじめを受け続けた。
父が死んでから1年。
母は鳴り止まない非難中傷の電話に耐えられず、ある日突然首を吊った。
当時6歳だった私には何がなんだか理解できなかったが、両親がいなくなったことだけは理解できた。
小学生になる前に天涯孤独となった私は、親戚の家に引き取られた。
その家でも私は孤独だった。
私はひたすら空気に徹し、いじめにも耐え、学校に通い続けた。
しかし、中学生になると同時に限界が訪れた。
小学生までのいじめとは比べ物にならない程暴力的で陰湿ないじめ。
私は物が上から下に落ちるくらい当たり前に自宅に引きこもった。
それでも勉強は止めなかった。
親戚はむしろそれを望んでいたようで、すぐに自宅学習の手配を行ってくれた。
これほど自宅学習制度に感謝したことはない。
朝から晩までいじめられない。それだけで幸せだった。
そして先日ついに全ての義務教育課程を終え、家から追い出されたというわけである。
私は日本に居続ける気はなかった。自分を受け入れてくれる場所がない日本が大嫌いだった。
国外へ行こうと決め、色々と情報を集めていた時に見つけたのがスラセラート国際学園だった。
世界でも治安がいいと言われている海上都市に建ち、宏人さんが日本を離れてまで入学したかった学園。
しかも入学すれば学費はいらない。
……それに、VFにも興味はあった。
亡き父はどうして七宮重工に入社したのか。それほどVFに魅力があったのだろうか。
自分の目で確かめたいと思ったのだ。
書類選考を通過し、共通テストにも通り、結果ここにいるというわけだ。
……だが、この選択は間違っていたかもしれない。
(情けないですね……)
日本を出れば変わるかと思っていた自分が情けない。
更木という名を背負っている以上、私はどこに行っても大罪人の娘なのだ。
しかし、それでも更木の名を捨てなかったのは父が大好きだったからだ。
世間では大罪人扱いされているが、私にはそう思えなかった。
記憶に残っている父は常に笑顔だった。多少恰幅が良かったが、それでも私にとっては格好良い父親で、唯一のヒーローだった。
名前を捨てるくらいなら、いっそのこと死んだほうがましだ。
……と、心では思っているのに、体は実に正直だ。
いじめを受けた時のトラウマでゲロ吐いて気を失うなんて情けない。
やはり、ずっと後ろ指をさされながら生きていくしかないのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていると、不意に耳に女性の声が届いた。
「……かわいそう」
ふわりとした声のあと、目元に柔らかな布の感触を得た。
どうやら誰かが私の目元を拭ってくれているようだ。
この感触のお陰で葉瑠は覚醒することができた。
目を瞑ったまま、葉瑠は現在の状況を確認する。
背中全体にパリっとしたシーツの感触。
後頭部には低反発素材の枕の感触。
そして、仄かに薬品の臭いが漂っていた。
どうやら私は医務室のベッドの上にいるようだ。
それ以上の事を把握するべく、葉瑠は目を開ける。
……涙のせいで視界がぼやけて状況を把握できなかった。
だが、目元に当てられたハンカチが涙を吸い取ってくれ、すぐに視界が明瞭になってきた。
「はい、眼鏡」
またしても女性に話しかけられた。ハンカチに続いて眼鏡も掛けてくれるなんて、親切な人だ。
「ありがとう、ございます」
礼を言いつつ、葉瑠は視線を横に向ける。
ベッド脇には白衣を纏った女性が座っていた。
フワフワとしたイエローの髪を持つ彼女は、女神の如く柔らかな笑顔で微笑む。
「意識ははっきりしているみたいね。よかった」
白衣の彼女はすっと手を伸ばし、手のひらをこちらの額の上に載せる。
彼女の手はひんやりとしていて気持ちが良かった。
感触もすべすべだし、何だかいい匂いもする。
「うん、熱も引いたみたい。少し安静にしていましょうか」
白衣の彼女はまたしても笑みを浮かべ、椅子から立ち上がった。
そして、薬品棚に向かい、薬を物色し始める。
その背中に向かって、葉瑠は声をかける。
「あの、校医さん……」
「あ、ごめんね。わたし校医じゃないの」
薬品のラベルを眺めつつ、白衣の彼女は言葉を続ける。
「偶然居合わせたというか、ただの医学博士で……でも、お薬を用意するくらいはできるから安心してね。それにしても校医さんか……それなら毎日シンギに会えるかも……」
独り言を言い始めた彼女に、葉瑠は再度話しかける。
「あの……」
「どうしたの? まだ気分が悪い?」
「……試験、どうなりましたか?」
葉瑠が質問した瞬間、白衣の彼女の動きが止まった。
「……」
彼女は背を向けたまま微動だにしない。
この反応だけで、葉瑠は質問の答えを把握した。
それでも、その事実を受け入れたくなかった葉瑠は白衣の彼女の言葉を待つ。
もしかすると、試験を中断してくれているかもしれない。
そうでなくとも再試験があるかも知れない。
だが、そんな淡い希望はあっという間に砕かれてしまった。
「残念だけれど……30分前に実技試験も終わったわ。だから……」
「うぅ……」
試験はもう終わったのだ。
これで全て終わりだ。
ベッドの上で打ちひしがれていると、医務室のドアが勢い良く開いた。
その音に遅れ、懐かしい声が聞こえてきた。
「葉瑠ちゃん!?」
名を呼ばれた葉瑠はドアに目を向ける。
そこには見覚えのある日本人男性が立っていた。
彼は私の姿を確認して安堵の息をつき、ベッド脇まで移動すると膝をついて手を握ってくれた。
「シンギ教官から聞いた時はまさかと思ったけれど……本当に来ちゃったんだね」
「宏人さん……」
葉瑠は男性の名を呼び、そのまま抱きついた。
「宏人さん……会いたかったです」
「ちょっと葉瑠ちゃん、いきなり抱きついて……困ったなあ……」
そう言うものの、宏人さんは私を引き剥がすことなく、抱擁を受け入れてくれた。
(やっぱりいたんですね、宏人さん……)
――日本を出ると決めた時、行き先にこのスラセラートを選んだ理由。
唯一心を許せる宏人さんがここに在学していると知ったからだ。
……宏人さんとは不登校児のための集会で出会った。
彼は筋金入りの不登校児で、私と同じように集会でセラピーを受けていた。
彼はどちらかと言うと学校という場所自体に価値を見出しておらず、自分の好きなことをやっている人だった。
不登校児とは思えないほど活力に満ちていて、初めて見た時は職員側の人だと勘違いしたほどだ。
優しい眼差しににこやかな表情。
一言で表すなら爽やかなイケメンさんだった。
今まで出会った人の中で彼が一番優しくしてくれた。
彼は私が更木の娘だと知っても普通に接してくれた。
彼は私を妹のように可愛がってくれ、私も彼を兄のように慕った。
だから、彼がスラセラートに行ってからの2年間は寂しかった。
入学できればまた会える。そう思っていたのに、もうお別れだなんて耐えられない。
「う……うう……」
今更ながら葉瑠は自分が不合格になったことを思い出し、嗚咽を漏らしてしまう。
宏人さんは何も言わずに背中を擦ってくれた。
手のひらから温かさが伝わってくる。至福の一時だ。
(……不謹慎ですね)
弱みを見せて宏人さんの気を引くのは卑怯な方法だ。
葉瑠は頑張って自分を律し、宏人から離れる。
宏人はまたしても笑顔を浮かべ、葉瑠の頭に手を載せた。
「もう大丈夫みたいだね」
「はい……」
セラピーを受けていた頃は宏人さんに褒められるために頑張ったものだ。
我ながら易い女だなあと思っていると、呆れた声が聞こえてきた。
「ただの知り合い、って感じでも無さそうだな、ヒロト」
いつの間にかベッドの正面に立っていたのはあのシンギ教官だった。
……シンギ教官は私の父を打ち倒した張本人だ。
だが、不思議と怒りや憎しみは湧いてこなかった。
宏人さんはシンギ教官がいることに気付いていたようで、落ち着いた口調で言葉を返す。
「ええ、彼女とは長い付き合いで、言うなれば……妹みたいなものです」
「そうか? てっきりガールフレンドかと……」
シンギの言葉に葉瑠は素っ頓狂な声を上げる。
「こ、恋人だなんてそんな……」
「そうですよ教官、僕みたいなナヨナヨした男、葉瑠ちゃんとは釣合いませんよ」
「……」
ここまで恋愛対象外にされると結構凹む。
そんな葉瑠の様子を見て勘違いしたのか、白衣の女性は再試験についてシンギ教官に訴える。
「ねえシンギ、どうにかして再試験させてあげられない?」
「無茶言うなよリリ。俺もそうしてやりたいんだが、簡単にルールは曲げられないだろ」
「でも、かわいそう……」
白衣の彼女はリリという名前らしい。
介抱してくれただけでなく、こうやって教官に訴えてくれるなんて、まさに女神様だ。
「教官、僕からもお願いします。提出書類を見ればわかると思いますが、葉瑠ちゃんは超がつくほど頭がいいんです。必ずマスターレベルのエンジニアになれます。僕が保証しますから……」
「そう言われてもなあ……」
シンギ教官は顎に手を当て、難しい表情を浮かべていた。
できれば私も再試験は受けたい。
もうひと押しで首を縦に振ってくれるかもしれないし、私もお願いしてみよう。
「シンギ教官、私……」
「そうだ、お前ランナーコース受けろよ」
「え?」
予想外の提案を受け、葉瑠はろくに言葉を返すことができなかった。。
宏人さんとリリさんにとっても予想外だったらしく、二人して眉をひそめていた。
「教官……?」
「シンギ、本気で言ってるの?」
正気を疑われても仕方がないレベルの提案にも関わらず、シンギ教官は話を進めていく。
「本気に決まってんだろ。……何だかんだ言って更木は強かったからなあ。娘も期待できるんじゃねーの?」
適当過ぎる理由に、宏人さんは若干口調を強めてシンギ教官に言い返す。
「あのですね教官、強さは遺伝するとは限らないんですよ? 適当な理由で職権濫用してもいいんですか?」
「別にいいだろ。試験受けさせるくらい。裏口入学させようってわけじゃねーんだし」
葉瑠は提案にも驚いていが、それよりも“更木は強かった”という発言が気になっていた。
「父は……そんなに強かったんですか」
葉瑠はベッドの上を移動し、シンギと相対する。
父のやったことは記録では知っているが、当事者から父の話を聞くのは初めてだ。
シンギはしっかりと葉瑠の目を見て真面目に答える。
「間違いなく強かった。実際あのソウマにも圧勝してるし、俺もセルカがいなかったら負けてた。立場が違ってたらあいつも英雄になってたかもな……」
「そう、ですか……」
父を捕まえた張本人が、父を悪く言わないのは意外だった。
それどころか褒めている。何だか不思議な感じだ。
「マジでどうする? 提出書類は揃ってるし、ランナーコースの連中は今日は明日の実技試験のためにVFセッティングをやっただけでまだ採点に影響してない。今からコースを変更しても問題ないぞ」
「……」
チャンスがあるなら賭けてみたい気持ちはある。
しかし、私はエンジニアの勉強しかしていない。VFを操作できる気がしない。
こんな状態でテストを受けても、間違いなく落ちるに決まっている。
葉瑠は素直に白状することにした。
「私、VF整備の資料は読み込みましたけど、VFの操作なんて……」
「資料を読み込んだってことは、操作マニュアルも当然読んだんだろ?」
「もちろん読んではいますけれど……」
「だったら操作できるだろ」
無茶なことを言う人だ。しかも真面目に言っているのだから質が悪い。
こちらが返答に困っている間もシンギ教官は誘いのセリフを吐き続ける。
「この試験は、操作の上手さや小手先の技術をテストするんじゃない。どれだけの可能性を秘めているかをテストする。入学すれば嫌でも上手くなるから安心しろよ」
この人は本気で私が試験に合格すると思っているらしい。
断るのは失礼だし、そもそも私に断るという選択肢は残されていなかった。
葉瑠は宏人を見る。
視線に応じるように宏人は小さく頷いた。
この反応を見て腹をくくった葉瑠は、シンギの提案を受け入れることにした。
「……やります。やらせてください」
可能性は限りなくゼロに近い。しかしここでやらねば後がない。
「よし、決まりだな」
葉瑠が了承すると、シンギは視線を宏人に向けた。
「ヒロト、ハンガーまで連れてってやれ。ロジオンには俺から連絡しておく」
そして踵を返すと足早に医務室から出て行ってしまった。
宏人はふうとため息を付き、葉瑠の手を取る。
「……行こうか葉瑠ちゃん」
「はい」
葉瑠はスカートの裾を整え、ベッドから降りる。
「歩けるかい?」
「大丈夫です」
本音を言うとふらふらするが、これ以上宏人さんに迷惑を掛けるのも気が引ける。
葉瑠は悟られぬよう慎重に歩き、室内から廊下へ出る。
部屋を出る際、宏人さんは室内に向けて礼を言った。
「それじゃあ、ありがとうございました。リリメリアさん」
「頑張ってね」
室内のリリメリアさんは少し顔を傾けて笑顔を浮かべ、小さく手を振っていた。
葉瑠は会釈を返した後、シンギ教官の指示通りハンガーへ向かうことにした。