三大陸の恋人
あなたは何歳から記憶がありますか?
三島由紀夫は産湯の記憶があるそうだけど、私は2歳ごろからの記憶がはっきりしている。
「さすがお姉ちゃんねぇ」
「お姉ちゃんだからしっかりしなさい」
「お姉ちゃんは泣かないのよ。もう大きいんだもん」
「お姉ちゃんはミイちゃんの面倒みるのよ」
散々母親から言われた言葉。あるときは近所の人たちといったピクニックの場で。あるときは父方の祖父母の家で。祖父が亡くなったのは私が3歳になる前だったけど、その祖父の前で、母に「お姉ちゃんだからしっかりしなさい」と言われ、甘えたい気持ちを拒絶された私は、祖父に涙をふかれた記憶まである。
母は自分自身が本当に子どもで、私と年子の妹の子育てにアップアップしていた。1歳の妹だけを手塩にかけ、わずか2歳の私をお手伝い要員にしたのだ。本当にひどい母親。そして、それは私が3歳になっても4歳になっても続いた。5歳になって弟が生まれてからはもっとひどくなった。私は2歳からもう抱っこしてもらえなかったのに、末っ子の弟は12歳になっても抱っこされていた。そして、私はいつも「しっかりしている人」という代名詞の、人に甘えることができない人間になった。早く自立したかった。高校を卒業したら家をでる。一人で暮らす。もう親の影響は受けない。「お姉ちゃん」じゃなく、佐伯瑠璃という一人の人間としてだけ存在したい。
だから、中・高時代はものすごく勉強した。私が通っていたのは私立・京城学園で毎年100人位が東大に行く学校。そこで歯を食いしばって6年間特待生を死守した。だって学費がタダだもん。普通のサラリーマン家庭で子ども3人じゃ、やっぱり全員私立は無理。
私が10歳の時に、ぽやんとしているかわいい妹はお嬢様学校、跡取りの長男は名門校の私学に通わせるという我が家の方針が立てられた。私はしっかりしているから、公立で十分だと。こんな差別冗談じゃないと6年間特待生制度がある京城学園を受けた。それこそ必死に勉強して。
いざ入学してみると、京城学園はものすごく居心地がよかった。世間ではものすごい進学校と思われているが、そしてそれは当たっているけど、意外に自由でゆるくて、学園祭や体育祭のイベントはもう本当に鬼のように盛り上がる。努力している人はそれが勉強でも趣味でも変な遊びでも歌でも、なんにしろ一定の尊敬を受ける。数学オリンピックや模擬国連で賞を貰う人もいれば、進学先が一流大学じゃなくてジュリアーノ音楽院なんて先輩までいた。勉強でも国内じゃ一流のはずなのに、学力で勝負じゃなくてピアニストになるんだって。水泳部の先輩はオリンピックにまで出た。大学進学をしないで、落語家に入門した先輩やバイオリン作りの職人に弟子入りした人までいる。とにかく多種多様な才能が集まっていて、でも別に誰も誰からも特別扱いされない気楽さ。公立の小学校じゃ、浮きこぼれて先生にさえ腫物にさわられるような扱いを受け、友だちからはいろいろなけん制をうけまくっていた私は、京城学園に入学して、そこでの皮膚呼吸の楽さに安堵した。
そして勉強だけは効率・能率を重視してぬかりなくやり、その分の空いた時間は楽しくおかしく友だちとバカばっかりやりながら6年間を過ごした。
大学は奨学金をもらって京都にする予定だった。東京じゃ一人暮らしはできない。家から通えるから。学費は奨学金、生活費は塾講師のバイト、そんな設計をしていた高2の秋に、担任に呼ばれた。
「佐伯は京大の経済志望だったな」
「はい」
「なんで東大じゃないんだ?」
「一人暮らしがしたいからです」
「・・・一人暮らし? 」
ちょっとあっけにとられたような顔をした担任の足立先生。
「・・・、ま、それも十分理由にはなるな」
「え? 」
私はやっぱりさすがだな、と思った。偏差値とか世間の価値観とか、そういう物差し意外にも認めてくれる懐の深さみたいなものがこの学校の空気に充満している。
「でもなぁ、佐伯、せっかくだから海外の大学も視野に入れる気はないか?」
「あ、先生、無理無理。中学の時にIVYリーグの学費とか調べたけど、出せるわけないじゃんって黙り込むほどの高額だもん。京大だって受かったら奨学金で行くつもりだし。ウチの家じゃ絶対無理。ハーバードは奨学金もらいやすいって聞くけど、受かる気がしないし、第一学費だけじゃなくて寮費だって結構かかるらしいし。世の中、お金ですね。やっぱり。庶民には関係のない世界です」
そんなこと言って笑った私に、足立先生は意外なことを言った。
「佐伯がこの前賞をとった友菱財団の経済論文あるだろ?」
「はい」
そういえば、夏休みの宿題でコンクール論文の提出を兼ねるレポートがあったっけ。私は「原宿の女子高生のファッション志向における世界経済への+3の影響」というどうでもいい内容のこじつけ120%の論文を書いた。それでどういうわけか大賞をとってしまって、友菱、いったい全体大丈夫か?と思った程だ。
「友菱財団で、優秀な高校生を世界に送り出すというプロジェクトがあるらしくてな、キミが望むなら、留学費用丸抱えしてくれるとのことだ」
「は?」
「もちろん入試突破は自力だけどな」そんなバカな。あんなバカバカしい論文一つで。学費って一年600万位かかるんだよ、4年で2400万。それを出してくれるの? いや騙されない、貸してくれるだけなら返さなきゃいけないから。卒業と同時に借金まみれは勘弁願いたい。黙った私に足立先生は言った。
「この奨学金、給付だから。返さなくていい」
「え」
「学費は給付、寮費なんかの生活費は貸与。だけど、成績がある一定レベルを満たして、卒業後に友菱グループに入社して3年働くなら全て返済無用という条件だ」
「なんか、よすぎません? その条件。あんなバカバカしい論文一つで? おかしいでしょ」
「んー、実は理事長が友菱の会長と懇意で、キミの普段の成績や生活態度も伝わってるみたいなんだよなぁ」
「えぇ?」
理事長は元財界の重鎮で実はとってもエライ人。この学園の創業者の息子だから、実業界を退いた後に学園の理事長について、すごい勢いで学園改革をやっている。結構学校内をウロウロしてて、気さくに生徒に声をかける奇特な人だ。私も偶然図書館で蔵書さがしを手伝って以来、けっこう気に入られている。
というワケで、急きょ私の進学先はアメリカの大学に決まった。あのうっとうしい家族から離れられる。嬉しい。何より外国だから、航空券が高いからと理由で季節休みも家に帰らなくてもいい。5校エントリーして3校合格し、結局プリンストンに進学した。もちろん合格した3校は母校の進学実績として、入学案内に掲載された。
プリンストン大学時代は、京城学園時代にも増して最高だった。
一言で言うと、自由。大学も自由にあふれてるけど、国自体が自由、人目が気にならない、家族に会わなくていい、やりたいことをやりたいだけ追及できる。学生生活を謳歌して、何度か恋もして、のびのびと4年間を過ごした。その後はロンドンに移ってMBAを取得して、友菱の本体に入社した。
そして今、私は人生始まって以来の危機に扮している。
朝目が覚めると、ベッドで肌触りのいい男の腕につつまれてた。
ぼんやり相手の顔を見る。整った目鼻立ち。意志の強そうな眉。キレイな輪郭。サラサラのちょっと茶色の髪。つつまれている腕の意味がわからなくて、まじまじとみつめてみた。
そして、ギャッと声にならない声をやっとのことで抑えて、そっとベッドから抜け出した。
混乱したまま確かめるとブラは外しているものの、キャミとショーツはつけているし、いたした形跡はない。こっそり確認してみると相手も下着はつけている。熟睡中をいいことに、あわてて服を着て部屋を抜け出した。部屋は外資の5つ星ホテルのスイートルームだった。あわてて逃げ出したので、よく見てないけど。だって、とにかく逃げることが先決。だって、だって、一夜の事故とはいえ相手が悪すぎたのだから。
昨日は中国での商談から帰国して、羽田に14時についた。早いので報告だけのつもりで、会社に顔を出した。そしたらその日は部の宴会だというので、ほんのちょっとだけとその宴会に顔を出したのだ。宴会といっても、驚くなかれ、居酒屋ではない。料亭だ。友菱の本体は少数精鋭部隊でグループの向かう方向をつかさどる会社。まさに巨大複合企業体の頭脳。友菱頭脳とか頭脳本体とか関係者からは呼ばれている。社員はたったの50人。グループ全体では従業員は数十万人なのだけど。だからこの頭脳本体は特別で社員はともかく受付嬢でさえも数か国語はペラペラだし、MBAも標準装備だ。もちろん給与も外資の一流どころの金融にさえ負けない(よすぎて外部には言えないが)。ただその分、仕事へのプレッシャーはすごいもので、厚顔無恥とか心臓に毛とかそういうものが装備されてないとすぐにメンタルクリニック通いになる。
その友菱本体の宴会なのだ、普段は政治家や経済界の重鎮が会合につかう料亭を貸切り、はじめは上品に文化的な話をしていた社員たちも、日ごろのストレスのためか30分もたてば、無礼講状態。混沌としたカオスの中、あっけにとられた私も中国人相手の商談が、ねちっこくてねちっこくて我慢に我慢を重ねてきた反動か、大好きな純米大吟醸のせいか、途中から記憶がない。そう、本当に記憶にないのだ。なんでこの人とホテルの一室で一緒に寝てたのか!?
その人は友菱光世という。友菱の御曹司。そして京城学園の2こ上の先輩だ。
「おはようございます」
「・・・おはよう」
よかった。ポーカーフェイスで挨拶できた。相手も何食わぬ顔をしている。私たちのオフィスはやっぱり特別で、一人ひとりに個室がある。といってもまだ二年目の私は未だOJT付の身分で見習い状態だ。机もOJTの先輩の個室の隣の大部屋。そこには大机もあってミーティングも頻繁で、とにかくいろいろな所から情報や仕事を盗め、盗んで覚えろという主義らしい。私のOJTは春山という5年目の男性社員。5年目だけどMBAもPH.Dも持ってるし、しばらくハーバードで教壇にも立ってたらしく、年齢はけっこういってる(らしい)。
20代後半にしか見えないけど。その春山さんと友菱先輩は仲がいいらしく、しょっちゅう行き来していろんな話をしている。仕事の話だけじゃなく趣味やプライベートの話もしているみたいだ。(きいてないけど、ていうか、仕事盛りだくさんでそんな余裕ない)
友菱先輩は御曹司・・・という以上に能力が抜きんでているせいか、私の2歳上だけなのに、もう確固たる地位を築いていた。
もともと、京城時代からすごい人なんだよね。姿形麗しい、背は高い、スポーツ万能、さわやかで友だちも多い。5年生(高2)の時はあの京城で、生徒会長までしてた。頭もものすごくよくて、時々駿台模試一桁番台とかシャレにならない偏差値だしてた。しかも財閥の御曹司。もてないわけない。後光が差してた。生徒総会でのスピーチなんか、本当にもうすごいのよ。口は立つし、ユーモアがあるし、オーラは出てるし。新一年生なんか、初めて見る上級生のすごさにピキーンって固まって、公立中学に行かずに京城に合格できて、京城生になれてよかったって、涙する位なんだから。私もずっと憧れてた。でもすごすぎて、恐れ多い人。だから、友菱に入社して、同じフロアで働くことになって、ビビった。いや本当に。今もあんまり口をきけない。(立場的に頑張ってなんでもないふりをして話すけど、その実ココロはがちがちだ)
「出張?」
「私の代わりにバーレーンに行ってくれ」
春山さんが行くはずだったバーレーンでのオイル関係の交渉。突然アメリカでアクシデントが起こって春山さんが駆り出された。
いくらロンドンビジネススクール出身とはいえ、二年目の私が一人でできる交渉ではなく、なんと友菱先輩のアシスタントとしての業務だ。
気まずい。気まずいが仕事だ。仕方ない。
私たちは、お互いに機内待ち合わせでバーレーンに飛んだ。(要するに多忙な二人なので飛行機に乗るまで別行動)
飛行機の中で簡単に現状と問題点、今回の交渉の目標到達点と妥協最低ラインなど先輩からレクチャーを受けた。あの日のことはなんら話題に出ないので、私もなかったことにした。
バーレーンの政府公館の一室。オイルマネーで潤っているのが証明されているような煌びやかな部屋で、交渉は難航していた。だんだんと重くなる空気、先輩の眉間に深くなるシワ。私はほぼ見学なので(気分は)あえて、その渦に巻き込まれないように心の中で必死で鼻歌を歌い、重い空気に抵抗していた。だって仕方ないじゃんね。自分は自分、仕事は仕事、自分が立ってる位置は自分で守る。仕事でメンタルに影響受けないっていうのが、就職したときに誓った私の不文律だからね。
では続きはまた明日、となった時に、せっかくだからお茶を入れなおしましょうと、相手が英国式アフタヌーンティーを出してくれた。その3段のトレイがロンドン留学時代に大好きだったリンカーネルホールのもので、こんな所で出会えてちょっと感動すると口にしたら、相手がおもしろがって、ロンドンの食べ物の話になった。イギリス人の味覚には驚愕する、日本と同じ自然に恵まれた島国で、ハロッズの食料品売り場には新鮮なものがいっぱいあるのに、調理したらなぜあんなにひどいものになるのかわからない…なんてありきたりの話をしていたら、ロンドン帰りの王族がいるから紹介しようと部屋に入ってきた男が、なんとビジネススクール時代のクラスメイト。ディベートでいっつもやりあってて、犬猿の中だと思ってたけど、学校を離れて、こういうビジネスの場で会うのはまたまた感動する。思わずその感動が表情に出たら、なんだかわからないけど、その犬猿男もいたく感動したらしく、口添えしてくれて、いきなり交渉はうまくいった。しかも翌日、王族のプライベートなパーティがあるから2人で来てくれと招待までされた。
されたのだが、王族のパーティってどうよ?
と思わず先輩を見る。先輩も一瞬考えて、そしてにこやかに参加の返事をした。
え~。あの、アナタは御曹司だけど、私は平民、その平民風情がどのように・・・・。
「キミ、ドレスか着物か持ってきてる?」
「はい? ちょっとお洒落なスーツどまりです」
「・・・・・・ダメだな」
ダメだしですか? ああ、そうでしょうよ。なんで出張きて、私みたいな平民風情のペーペーが王族のパーティに呼ばれると思うでしょうか? てゆーか、あの犬猿男、王族だったの? 全然知らなかったんだけど。
ま、いいや、お洒落なスーツで。と考えることを放棄して泊まってるホテルのラウンジで一応作戦タイム中。(先輩だけ) 私は態度だけは借りてきた猫で、心の中はくつろぎ中。
翌日、午前中に交渉内容の詳細を詰めて、午後にホテルに戻る。そしたら驚いたことに数種類の着物を用意した着付けの人がいて、装わせてくれた。先輩の手配らしい。すごいね、さすが御曹司。しかもなんかむっちゃ好みの柄の着物ばかりで、自分でも似合うと悶絶してたら、着付けの人に笑われた。
ジリリン
呼び鈴が鳴る。
「用意できた?」
先輩が迎えに来た。
「はい。先輩、ありがとうございます、着物」
「うん。いや。」
先輩はいつものポーカーフェイスのまま、さらりと上から下まで目線を回すとちょっと笑ったみたい。上から下まで見たのに、目のやり方にいやらしさがなく、上品な人だな~、さすが御曹司とまたまた思った。
「じゃ、行こうか」
さらりと左肘を差し、エスコートも慣れているみたい。ええ、私は必死ですまして合わせました。ココロの中では歯がガチガチですが。
王宮で開催されたパーティはごく私的なものとあったけど、なかなか盛大なもので、あらゆる人種がいた。言語はアラビア語だと困るなぁと思っていたら、英語とフランス語が中心。フラ語は趣味だし、フランス人の彼と付き合ったこともあるし、結構大丈夫。先輩はさすがに友菱の名前は通っているらしく、その上、知り合いも何人かいたらしくいつも誰かに話しかけられていた。私はというと、着物効果で結構モテモテ。うふふ。日本にいると「しっかり者」とか「隙がない」とか「優等生でつまらん」とかの評価しかないけれど、海外に出ればおしとやかな日本人形イメージ(& 話してみてのその活動的なギャップ)で抜群にモテるのです。あ~楽しい♪ 犬猿男もやってきて、ついでに隣の国のやっぱりロンドン時代の同窓生まで連れてきて、ロンドン生活を懐かしみ、盛り上がり、また再会を誓い合ったのです。
パーティでは会社の名前と先輩個人をかなり売ったのではないかなぁ、いい夜でしたねと車で話しかけたら、むっつり顔で無言の先輩。やば、私何かやりましたか? 一瞬悩みましたが、ま、いいか、考えるのやめよと、態度だけはしんみりと平静を装いつつ、関係のない楽しいことを妄想してココロを満たしていると、くすっと笑われました。
「なんでしょう?」
「いや、気まずい雰囲気でもすぐ自分の中だけこっそり切り替えるから、面白いと思って」
ガーン、生きていくためのサバイバル法、バレてる。
「いえ、そんな・・・」
愛想笑いでごまかす。
「おかげで交渉がうまくいった。ありがとう。お祝いだな、一杯だけ乾杯しよう」
と部屋に戻る前に最上階のバーで乾杯することに。
なんか、その言い方だと断れない。本当に一杯でやめようと思ったんだけど、やっぱり先輩はすごい人。話がめちゃくちゃ面白い。会社ではクールでそんな感じじゃないんだけど、学生時代の姿を知っているからかな、あの頃に戻ったみたいで、ものすごい盛り上がった。
「え、なんで私が京城出身だって知ってるんですか? あ、経歴開示されてるかぁ」
「いや、在学中から知ってた」
「え? どうして? 先輩は生徒会長だし有名人だったからもちろん私は知ってましたけど」
「佐伯も有名だったけど。知らなかった?」
「うーん、上級生にも知られている程だとは。なんかしたかなぁ?」
「まぁ男子生徒の数に比べて女子生徒の数は少ないから。ちょっとカワイイ子がいるとすぐファンクラブとかできてたんだけどな。お前も騒がれてたぞ」
「え。ご冗談を」
「ハハハ、ウソ」
「あ、ウソですか? ちょっと期待したのにがっかり(笑)」
「いや、本当は第三校舎の裏で何度か会ってるだろ、それ覚えてた」
「第三校舎? ああ・・・・そうですね」
部室から教室への近道だから好んでよく使ってた道なき道。
そこで、何度か先輩が壁にボールを打ちつけてるのを見たことがある。人気者の先輩にしては暗いオーラ全開で鬱々した雰囲気だったから、驚いて遠巻きにじっと観察したことがある。あれ、気づかれてたのか。てか、あれで、私って認識して覚えてるのすごくない?
ちょっと怪訝な顔で先輩を見てしまった私を、楽しそうな目で見返された。
うわー、やっぱりいい男、やば、見つめられたら石になる・・・とあわてて、かつ自然に見えるようにさりげなく目をそらす。
「ふっ、まぁいいや」
何がいいのかわからないけど、とりあえず石にならずに助かった。
それからは将来の展望やら夢やら学生時代に戻ったみたいに青いことを語り合ったりなんかして、またまたすっかりお酒が進んだ。でも今回は途中ペリエをはさんだりして、うまく酔いつぶれずコントロールできた。ああ、よかった。二度も同じ間違いじゃ、シャレにならないもんね。
それからしばらくはアメリカとの案件で私は忙殺された。先輩もヨーロッパに長期出張で、たまに帰国しても、入れ違いでずっと会う機会がなかった。
このアメリカの案件は本当に大変だった。2年目の後半に、やってみろと言われて、初めて中心になってやってみた案件。もちろん春山さんが後ろに注意深く控えてくれているんだけど、あくまで客先では私が主体。友菱頭脳では、こうして2年目の終わりに適当な案件を一人でやらせる。そして力を見る。合格だと、頭脳に残れるけど、力及ばずとみなされば、職を解かれて、グループ会社に転籍となる。合格率は3割程度らしい。厳しい。まぁ、こんな会社だから仕方ない。とにかく私は必死だった。自分の存在で事が動くのがおもしろくもあった。そして交渉は成功して、50億の案件を受注した。ほっとした。
奨学金の返済不要条件が友菱での労働3年。まだ2年しか働いてない。ここで失敗して転籍になると、友菱巨大企業体の社員という身分は変わらないからまさか返金とはならないだろう。だけど、少なくとも期待されているのは友菱頭脳で、その身分に恥じない働きをすることだと思う。プリンストン大学の4年間だけじゃなく、ロンドンでの2年間も物心両面から援助してもらった。企業の給費生というのはこんなに丁寧な扱いなのかと、驚くほどだった。国を挙げての援助がある中東の王族の留学生に引け目を感じることもなく、ただ学業にいそしめばいい6年間の、学業だけではない素晴らしい経験は、私を極東の島国の小娘から、知る大人へと成長させたのだ。
そして頭脳本体で働きだした2年間も、刺激と充実感とやりがいがいっぱいで、知的で満ち足りた時間を私に与えてくれた。働いているメンバーがみんな魅力的なのも極上だ。あの男だけは巧妙に避けなければならないが。そう、ただ一人、私の平常心を奪うあの男だけは。
「あ、佐伯さん、今日から机そこじゃないよ」
「え? 配置換えですか?」
「Ⅲ-D室が新しい君のオフィスだよ」
アメリカ出張を終えて、久しぶりに出社した私にボスが言う。Ⅲ-Dの部屋に向うと、息が止まりそうになった。入り口には私のネームプレート、ガラス張りの個室のドアを開けて入ると私専用の木製の新しい机。すわり心地のよさそうな椅子。飾られた大輪のバラの花。私の個室だ。
「「「「友菱頭脳の正式メンバー、おめでとう」」」」
入り口を見ると、スタッフが集まってくれている。みんな満面の笑みでよかったねと口々に言ってくれて、私はこの素晴らしい人たちの正式な仲間になれたことに、本当に心からほっとした。
その夜はまた料亭貸切で私のお祝いの会。相変わらず30分で無礼講のカオス状態へと。さっきまで「ヨーロッパの古い教会の壁画に残る十字軍の形跡」という歴史オタクなネタで熱く語っていたはずの春山さんはただのスケベなおっさんになってボスの秘書の美鈴さんにアタックしている。
あちこちで武勇談の自慢大会が開かれ、ところどころで欧米帰りたちのストレートな口説きの現場があり、見てて面白い。面白すぎる。この会社。日本の閉塞感が嫌いで、「お姉ちゃんだからしっかりしなさい」と鎖でがんじがらめにする家族が嫌いで、やっと6年の欧米生活で人生を取り返した私は、日本に戻るのを極度に恐れていた。だけど、友菱頭脳での会社員生活は私をもっと自由にした。努力が結びつく仕事。自分次第でどうにでも転ぶ案件。そしていつも見えないところで努力しているのに、すまし顔でスマートに人生を楽しんでいる温かい同僚たち。私はこのものすごい人たちの仲間になれたことが嬉しくて、嬉しすぎて、やっぱりちょっと飲みすぎてしまった。
「大丈夫か?」
「うー、気持ち悪いです」
「アホだな、酒に飲まれるなんて」
「・・・ハイ」
朝日? 窓から差し込む一筋の光に意識が急にはっきりしてガバッと起き上がると、見慣れない部屋・・・・じゃない、一度見たことのある部屋だ。あの5つ星ホテルのスイート。そして、気のせいであってくれと切に願った声の主は・・・。
「・・・せん・・ぱい」
がーん、もう泣きたい。またやっちゃった。しかも今度は裸。いたたまれなくなってシーツを頭まですっぽりかぶる。
「どうした? まだ具合悪い?」
無視。無視だ。もう無理。こんなの。
「昨夜はしがみついて甘えてきて可愛かったのに・・・」
うっ。顔だけでなく全身が真っ赤になった気がした。意志の力できつくココロに蓋していたものが外されたんだ。あ~、どうしよう。
「なんとか言ってくれよ」
先輩はあくまで優しく問いかける。
いや、だからダメですって。日本には戦後、表面上は身分制度なんてないけど、やっぱりそれは表面上にすぎない。欧米に留学して外から日本を見たからこそ分かる。本人の意思が一番のキモだけど、その上で、非常レベルまでの努力ができるのは血筋、努力を超えたレベルまで突き抜けて学問に向かえるのも血筋。お金をうまく回せるのも結局血筋。意外に見えないところで、やっぱり血筋(DNA)っていうのは大事なのだ。そんなだから先輩とは中高と一緒で、今もオフィスは一緒だけど、結局身分違い。ものすごく能力が高い上に人徳もあるハイスペックの御曹司は将来この巨大企業体を率いることになっている。そんな人と恋愛しても先がない。実際、「お姉ちゃんだから」でずっと傷ついていた私に、本気の恋がダメになった時にもう一度復活できる気がしない。だからココロの本気をずっと殺して見ないふりしてたのに・・・。もう、どうしよう。
「また一人で対話しているのか?」
近づいてくる気配がする。げぇ、どうしろと言うのよ。ああ、このまま消えたい、ワープしたい。どこでもドアはどこ?
「ふーん、顔出さないなら、また襲っちゃおうかな」
えええええええ? なんということを。もう正気ですから。酔ってませんから。無理です。耐えられない。恐る恐るシーツから顔を出す。すぐ近くに先輩の優しい目があって、息が止まった。全身石になって固まった。動けない。先輩の手が私の頬をやさしく撫でて、そのままキス。触れるようなキスの後は、いつくしむようなキス。こんなに優しく甘いキスは知らない。それは私の心にある最後の氷を解かすのに十分だった。
そんなわけで、私の肩書に新しい役割が加わった。
友菱頭脳の社員、そして友菱光世の恋人で婚約者。
いつも冷静沈着な中学からの憧れの人は、朝日の中で満足そうに目を開ける。そして
甘い声で「瑠璃」と呼ぶ。この瞬間が私の宝物。もう誰にも渡せない・・・。
Fin.