She is a vampire ◆Spinoff
こんなはずではなかった。こんなはずではなかった。今日ショッピングモールにやってきていたのは、丁度昨日、自分の気に入っていたシャツが着られなくなっていることに気付いたから、ただそれだけのことだった。今日家を出た自分を、その足を引きずってでも止められれば、と彼は思った。
全身にいくら力を入れても動かない。動く気配がない。まるで自分の体ではなくなってしまったかのようだ。痛みはとうの昔に閾値を超え、最早痺れしか感じない。黒煙の巻き起こる中に、自分は倒れていた。辺りは阿鼻叫喚で埋め尽くされ、人々は慌てふためき逃げ惑っている。
自分は死ぬのだろうか。ここで、死ぬのだろうか。嫌だ。死にたくない。なぜだ。どうして僕だけがこんな目に――。
「これは酷い。胴体に大穴があいている。この子はもう駄目だトリアージしろ。他のまだ救える命を救うのだ」
その言葉を疑った。しかし自分の胴体を見ることすら、今は叶わなかった。悔しくて涙が出た。悔しくて悔しくて嗚咽が出た。人間とは、なんて弱い生き物だろう。僕は本当にもう駄目なのか。ここまでなのか。だとしたら、神はなんと残酷なのだろう。僕がいったい何をしたというのだろう。何を――。
「まだ生きたいか」
薄れていく意識の中で、黒髪で黒い瞳の男の言葉を聞いた。
「それが地獄の底であっても、みっともなく這いずりまわってでも、生きたいか? 自分以外の全てを敵に回してでも、世界を敵に回してでも、それでも生きたいか。その覚悟はあるか」
その時の自分には、その声は一筋の光明にしか見えなかった。
「僕はまだ生きたい」
"吸血鬼狩り"――それは人ならざるものを、異形の鬼を討つ者達。古くから人の目の届かぬところで、闘い続けてきた者達。
吸血鬼。この世に蔓延り人の生血をすすり、同類へと貶める悪鬼羅刹。絶望の体現者。最悪の三文字。奴らに対抗せし唯一の者達なり。
"吸血鬼狩り"は奴らに対抗するために、その遺骸を材料に"神器"と呼ばれる特異な武具を創り出した。それは吸血鬼の遺骸から特殊な方法を用いて錬成される。それを預かるのが、"錬成士"である。
ロンドンのヒースロー空港を出た赤月燕は、異国の地でさっそく道に迷っていた。
「全部英語なのにわかるわけないじゃん」
その手に持っているのは尋ね人の居場所が記された地図。だがやけに漠然とした記し方で正確性が欠けていた。あの上司は一体何を考えているのだろう。
季節は日本で言うところの秋。ヨーロッパでも色付く木々を見ることになるとは、と思いながらも完全に遭難状態にあっては素直に楽しむこともできずにいる燕だった。一休みしている公園にはアーモンドの木がいっそうに生い茂っている。さてどうしたものだろう。
「ろんどん、ぼろうぐ、おぶはりんげい?」
そこに記されていたのはLondon Borough of Haringeyだった。ハーリンゲイ・ロンドン特別区。どうやら彼女の場合は日本人だから英語が分からない、というレベルの問題ではないらしかった。しかし"吸血鬼狩り"の適性試験にもその後の修行期間においても語学は重要視されないということを考えれば、致し方ないというものか。そもそもの話、その適正があることがまず奇跡的と言っていい。白夜家――彼女が所属する組織であるところのそれは通常の職種には属さない。彼女の父親がその筋の人間と関わりがあったという理由で、こうして現在に至っているわけだ。
どうやら燕にはその適正とやらがあったらしい。
「仕方ない。あるこう」
まだ昼過ぎだが、この分ではいつまでかかるかわからない。今日中に見つけ出して日本へ戻らなければならないというのに。また何もかも投げ出して、おめおめと帰ってきたらあの父親になんと言われるか。それを理由に当分は嫌味を言われるだろうことを考えると燕としては、どうしてもこの仕事を失敗するわけにはいかなかった。
人の流れを観察し、人通りの多い道を探す。何、相手は英国人とはいえ同じ人間である。言葉が通じないからといって、それで何一つ伝わらないなんてことはないだろう。そう思いたい。ブラウスの襟を正し、ロングの黒髪を直していざ燕は異文化交流にふみきった。
「や、やー。はろー。はろー。そーりー、ココハドコデスカァ?」
結果からいえば異文化交流には失敗した。数回にわたる果敢な挑戦は無残にも水泡に帰した。英国人は冷たい。英国紳士という言葉は嘘だったのだろうか。
実際には燕のやり方があまりにも悪かっただけで、英国人には一ミリも責任はないということはここで釈明しておく。その中の一人の青少年は燕の伝えたいことを何とかして理解しようと頑張っていたが、恋人とのデートの最中だったらしくガールフレンドが嫌な顔をし始めるとしぶしぶ申し訳なさそうに去って行った。それがまだ良い方で、後は滅茶苦茶な燕の英語とさえいえない何かを全く理解できずに呆れた顔で踵を返すのだった。無理もない。
結局はというと燕は道に迷った時の正攻法をとることにした。つまりは交番のお巡りさんに頼ることにした。
「ここがあのスコットランドヤードかあ。シャーロックホームズに出てきた」
日本でいうところの警視庁。交番というか、ロンドン警察の総本山。NEW SCOTLAND YARDと書かれた看板の前に燕はいた。有名な赤いダブルデッカーバスで、なんとかポンドを数えて支払うことに成功してやってきていた。
警察ならさすがに善良な外国人が困っていたら助けてくれるに違いない。そう淡い期待を抱いて、ガラス張りのビルとも言うべき建物のなかへと入っていく。もう既に燕は観光気分だった。
しかしよく考えたら……いやよく考えなくてもだけれど、さっきの失敗は言葉が通じなかったから生じたのであって、それは一般人だろうが警察だろうが変わりないのでは…………まあ良いか。
「すいませーん。私吸血鬼狩りというものなんですけどー」
「What? Who are you?」
「わっと?ふぁ、ふぁーゆー?」
またも雲行きが怪しくなってきた。これはまただめかなあと、我ながらに半ば諦めかけたところへ。知らない言葉で埋もれた異国の地で、既に懐かしく感じる言葉で救いの船が出された。
「あんたが赤月燕か」
古びれた黒いトレンチコートに身を包み、銀色の腕時計を左手にはめている。背は高く見事なブロンドを後ろへ流している。しかし瞳は漆黒で顔立ちはどことなく日本的だ。銀の眼鏡が似合っていて知的な雰囲気を漂わせている。
例えるならそう、物語の主人公。有能な助手がいたりして、どんな難事件もその明晰な頭脳でたちどころに解決してしまう。そんな想像が独りでに展開されていった。
制服を着た警官らしき男達とは違い、彼は一般市民のようだ。しかしスコットランドヤードの重役と言われれば、信じてしまいそうな風貌を醸し出している。自分に向けられたその言葉も、暫くかけてようやくそうだと把握することができた。
「そう、ですけど」
「そうか。本当にいるとはな」
彼はそんなことを言って、そのブロンドをかき上げる。
「俺がヴァリアビリス・ベルモンドだ」
――ヴァリアビリス・ベルモンド。
その名前を聞いて、さすがの燕も一つの真実にようやくたどり着く。胸元のポケットから一枚の写真を取り出し、そこに映った人物の顔を確認してから裏に記された名前を読み上げて、それからもう一度写真を見直してから目の前に立つその人を見た。
「あ」
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
ビクトリアストリートのとあるカフェにて二人は遅い昼食を取ることにした。案内された店は「Coffin of iron」と書かれていたが、燕にはその意味はわからなかった。大通りに面しているにしては、あまり繁盛していない。しかしどことなく懐かしく、気負うことない店だった。入り口には順番待ちの為か木製の椅子が雑多に並べられ、古風な作りの店内をこれまたアンティークなランプが照らしている。
「それにしてもどうして私があそこにいるとわかったんですか?」
「俺のところに来た手紙にこう書いてあった。昼過ぎになってもあんたが来ないようならそこに迎えに行ってくれとな。あんた信用されてないようだな」
……完全に読まれていた。どうやらあの上司の実力を見誤っていたらしい。だてにこの世界で生きているわけではないようだ。
「たはは。それにしてもすいませんでした。迎えのはずが迎えにきてもらってしまって。お昼もこんな時間になっちゃって申し訳ないです」
弁解の余地は全くなく、平謝りするしかない燕。それも仕方のないことなのだ。彼は私達組織にとっては超重要人物。機嫌を損ねて仕事を断られたとあっては、私の首がとぶこと受けあいである。
「……別に構わないさ。あの男のことだ、こうして何もかも最終的にうまく行くようになっているのだろう」
どうやらあの上司とは知った仲らしい。運ばれてきたサンドイッチにかぶりつきながら、頭の中で仕事の内容を整理する。
「私がお迎えに上がったのは、手紙にも書いてあると思うのですが……他でもない貴方に仕事を依頼するためです。ある吸血鬼の遺骸、その神器への錬成を貴方にやってもらいたいということです」
ヴァリアビリス・ベルモンド――その界隈では知らぬものなしという凄腕の”錬成士”。錬金術師の家系であるベルモンド家の正当血統。二十代の若さでその英知を極め、常人には不可能と言われる神器の錬成を手掛ける男、らしい。燕がその名を知ったのはこの仕事を受けた時なので、これらは全て受け売りである。
彼はエスプレッソに口を付け、燕の言葉に返す。
「神器の錬成なら、あんたら組織お抱えの錬成士で事足りるんじゃないのか? わざわざここまで使いをよこす理由をまず話してもらおうか」
「それは」
"奴"の遺骸の錬成は彼にしかできない。
「クロノス・ビネランディ――その名を聞いたことはありませんか?」
そこで彼の表情が厳しくなったのがわかった。
「……忘れもしない。"十戒"の一つに数えられた忌まわしき吸血鬼の名。この界隈でその名を知らない者はいないだろう。そうか、日本でお陀仏になっていたか」
「……百人の同僚を失いました。それがつい最近のことです。遺骸は必要な処置を施して今、白夜の屋敷に安置してあります。しかし並の錬成士では、プシュケーを犯されるかもわからない。鬼頭の例もありますし、事は慎重に運びたいのです」
プシュケーとは生命の血液に宿り、吸血鬼が欲するある種のエネルギーともいえるものだ。俗に言う魂、に近い概念である。古代ギリシャにおいてソクラテスが唱えた概念で、当時はその実態はよくわかっていなかった。吸血鬼との長い闘争の中で、先人が積み上げた知識の一つである。吸血鬼はそうして得たプシュケーを自在に操り、人間の精神に干渉する。
「なるほどな。そこで俺、というわけだ」
彼はそこで右手を口元にやり、何やら考え事をしている。
「その通りです。クロノスの力を従えることができれば、私達の目的により近づける。上は謝礼に糸目はつけないと言っています。しかるべき地位も……しかしこちらは貴方には不要なのでしょうね」
この男、ベルモンドは自らの家を二十歳になると同時に出ており、それ以降どの組織にも属していない。完全なフリーランスである。それが彼の仕事における流儀なのだそうだ。
「あんたの上司には借りがある。その仕事を受けることはやぶさかではない。しかし、ひとつ条件がある」
「条件、とは」
彼は銀の眼鏡を直し、燕の姿をそこに映して言った。
「俺がこれから錬成する、その神器クロノスをまずは俺の用に使わせてもらいたい」
それは燕にとって予想外の返事だった。
「……それは私の独断では今すぐお返事致しかねますが、向こうで交渉していただければ可能とは思いますけれど、一体どんな用が?」
「何、野暮用だ」
「はあ」
どうにも掴みがたい男である。しかしこれで依頼を拒否されるという最悪の結果は避けられそうだ。心の中で胸を撫で下ろす燕だった。腕時計に目をやり、現在時刻を確認する。
「それでは私はこれを食べたら飛行機の手配をしておきます。ええと……」
「俺のことはベルモンドでいい。あんたのことはアカツキと呼ばせてもらう」
「……ベルモンドさん。遠征の準備をお願いします。ヒースロー空港で落ち合いましょう」
「今度は、スコットランドヤードまで迎えに行くようなことがないようにな」
彼は、口の端を軽く吊り上げてそう言った。
「はは……、勘弁してくださいよー」
どうやら既に彼の中で私のイメージは固まりつつあるようだ。別に赤月燕という人間がどのように思われようと、私は一向に構わないけれど。もとから大した人間ではないのだ。今更取り繕うようなことは何もなかった。
少し虚しくなりながら、カプチーノの液面に映る自分を見つめながら燕はそんなことを思った。
「柳先輩にと、あの上司とそれから……紅茶とチョコレートでいいかな。あと自分にも」
ヒースローの売店には様々な人種の人でごった返していた。白人、黒人、アジア系の人間まで。その一人一人が慌ただしく右へ左へと流れていく。皺一つないスーツに身を包んだ白人のビジネスマンが目の前を通り過ぎたと思ったら、アジア系の一家の男の子がおもちゃを母親にねだっているのが見える。その光景に何となく微笑ましくなりながら、燕は腕時計を見てまだ時間に余裕があることを確認した。
あんなことがあったばかりだというのに、自分一人はこうして生きている。次の日には傷も癒え、元通りだ。あの地獄から生きて帰ったのは片手で足りるほどだった。自分が生き残れたのは単なる偶然だと思う。あの場には自分よりずっと経験も力もある狩人がいたのだ。
吸血鬼はある山村に突如として現れ、村人を喰らい始めた。その吸血鬼は極めて強い力を持っていて、村は完全に支配下に置かれた。私たちがそこに赴いた時には、人間が吸血鬼の奴隷として扱われていたのだ。クロノス・ビネランディは、かつて北欧のある国を崩壊させたと言われる強大な吸血鬼だ。人類に多大な影響――主に悪い影響をもたらした十体の吸血鬼が名を連ねる"十戒"の一つでもある。それが何の因果で辺鄙な島国に現れたのかは定かではないが、最悪の場合日本までもが同じ末路を辿りかねなかったことは確かである。鬼頭からも援軍の狩人がやってきた程だ。
白夜家は、世界に跨って活動する吸血鬼の討滅を生業とする一族の一つである。公には明らかになっていないが、各国の政界にも強い繋がりがあり、その秘密は守られている。吸血鬼の存在はこの世で最も重い禁忌である。この世に人間と吸血鬼が生まれたその時から、彼らは戦い続けている。
赤月燕は高校を出て、進学もせずに暫く彷徨った後に白夜に拾われた。そして四年間の修行を経て今年の秋に晴れて"狩人"となった。その界隈では吸血鬼狩り、デモンズキラーなどと呼ばれている。最初はあまりにも辛くて何もかも投げ出して逃げようとしたこともあったが、紹介された実の父親に弱味を握られまいとする一心で、燕は99.9%がふるい落とされる過酷な修行に耐えて見せた。
闘うのは嫌いではない。学生時代には散々鳴らしたものである。年頃の女子高生として振る舞うことに疲れた当時の燕は、その頃から周りとは一線を画していた。クラスの不良集団を一人で捻じ伏せ、地元の暴力団系事務所に一人で乗り込んだこともあった。吸血鬼の存在は父親の仕事もあって聞かされていた。この世には人間を脅かすそういう存在が在ることを知っていた。しかし自分とは直接関係ない世界だと、実感は全くわかなかった。そう、それははるか遠くにいるものだと。
人間が家畜か何かと同様に扱われているのを見て、燕はただ気持ち悪いと思った。そこには理屈や常識では説明のしようがない何かが渦巻いていた。犯罪や、クーデターとは全く次元が違う。それは明らかな人類への反逆行為である。
覚悟していなかったわけではない。白夜家の、地獄と見紛うような修行を潜り抜けてきた燕である。しかしその絶望的な光景に燕は打ちのめされた。周りの狩人が一人また一人と倒れていくのを横目に、自分は何もできなかった。ある者は四肢を奪われ、ある者は血を吸われ、ある者はプシュケーを犯されて発狂した。鬼頭から借り受けた神器がなければ、何もかも終わっていただろう。鬼頭家は、白夜と並ぶ吸血鬼狩りの一族であり、最初に吸血鬼の遺骸から神器を錬成した錬成士の一族である。ある事件で一度崩壊の危機に陥ったが、現当主である鬼頭景道の手によって復興を果たし、今では多数の神器と錬成士を抱えている。
死地から帰った後散々嘆いた。父親に当たり、上司の連絡も無視して一週間ほど暇を取った。しかし燕は結局白夜に戻ってきた。自分の居場所はそこにしかなかったのだ。普通の人生などとうの昔に捨てていた赤月燕には、吸血鬼狩りとして生きるしか選択肢は残っていなかった。
普通の人間として生きるために大事な部分はもう壊れてしまっている。もう燕のそれは戦うための体だ。鋼鉄に打ち続けて変形した拳も、不死の鬼を相手する為の強化された心臓も、何もかもが吸血鬼を殺す為に死に物狂いで手に入れたものである。修行で命を落とした者も大勢いた。今全てを投げ出せば、それら全ての人間を裏切ることになる。
三日三晩寝ることもできずにただ考えていた。いや、それは迷っていただけなのかもしれない。そして迷い続けた後に、燕は白夜の屋敷に戻ってきた。その時に燕を温かく出迎えてくれたのは、死地からの生き残りの一人、葉隠柳だった。彼女は一歳年上の狩人であり、年の近い燕に姉のように振る舞ってくれていた。物心ついたときには既に母親がいなかった燕にとって、女性がどう立居振る舞うべきかということの多くを彼女から教わった。今自分が大分丸くなっているのは、彼女の影響が大きい。
「柳先輩はもう狩人に復帰してるんだ。わたしもこんなところで愚図愚図していられない」
「……ならさっさと行こうか。土産は選び終えたのか?」
「べ、ベルモンドさん……いらっしゃっていたんですか?」
慌てて暗く落ち込んだ顔を、不器用な笑顔で塗りつぶす。変なことを独り言で呟いてはいなかっただろうか。
「さっきからな。あんた物凄い顔をしていたぞ。気分でも悪いのか」
ベルモンドは、まるで漆黒の棺桶のような巨大なトランクを背中に背負っていた。彼の背丈ほどもあるにも関わらず、その顔に疲労の様子は無い。
「い、いえ大丈夫です。それでは搭乗手続きに参りましょうか」
諸手続きを一通り終え、ベルモンドのトランクを預けてラウンジへ。こちらの空港では向こうよりも手続きが煩雑でわかり辛く、そこはベルモンドに助けてもらった。ラウンジの席につき、時計を見るとまだ出発まで一時間程ある。
「ところで日本語お上手ですけれど、日本にいたことがおありなんですよね」
「ああ。高校は向こうで終えている。中学卒業と同時に日本に錬成士の修行の為に行った。昔こっちで日本の錬成士と知り合ってな、その伝手で暫く滞在していた」
通りで流暢な日本語なわけだ。中学を卒業する年ならば、十五、六歳のときか。こういう人間はきっと、生まれや育ちからして凡人とは違うのだろう。丁度同じころ、自分はどうしていただろうか? 考えるだけで空しくなってくる。
「聞いて良いかわかりませんけれど、どうしてそうまでして錬成士に?」
その時、彼の眼はどこか遠くを見つめていた。
「……俺にはこれしかなかったからな。選べる他の道などなかった。ただそれだけの理由……だ」
「ベルモンド、さん?」
「そういうあんたこそどうしてだ? どうして白夜の狩人になんてなろうと思った?」
「わた、しは」
わからない。もっともらしい答えなど、持ち合わせてはいない。その問いにどう答えればよいのだろう。私は一体何のために、命を懸けて吸血鬼と戦うのだろうか。
「わからないんです。白夜にいるのも、行く当てのなかった私を拾ってくれたからで私が決めたわけじゃないんです。家族を吸血鬼に殺されているとか、そういえばもっともらしいのかもしれないですけれど、私にはそういうのはないんです。変、でしょうか」
私は、どうして出会ったばかりの男にこんな身勝手な心情を吐露しているのだろう。
「別におかしいことではない。生きるために、自分の居場所を求めて戦うというのも理由に成り得る。あんたは別に間違ってない。しかし」
ベルモンドは続ける。
「吸血鬼は、人間の心の弱い部分に付けこむ術を知っている。あんた吸血鬼に対して恨みや憎しみを抱いてはいないようだな。むしろ恐れている。それは相当に厄介だ。相当に致命的だ」
恐れている。吸血鬼を。
「クロノスを目の当たりにしたなら無理もないが、アカツキ――あんたはそのままでは狩人として生きていくことはできない」
断言された。何の容赦もなく、言い放たれた。それをはっきりと燕に言ったのはベルモンドが初めてだった。あの上司も、柳先輩も、父親も例えそう思っていたとしても口には出さなかった。しかし彼は燕に対して嘘偽りなく言う。真実を口にする。
「私は、どうしたら」
そこまで言いかけて、自分がどうしようもなく惨めなことを聞こうとしたことに気付いた。私は仕事相手に一体何を求めているのだろう。彼にそんな義理は一切ないはずだ。
「コーヒーを、買ってきますね」
コートから財布を出して売店に逃げるように向かう。彼は止めることもせずにそれを見送っていた。日本へ帰った後、白夜に帰った後に私はどうすればいいのだろう。少なくともこのままではまた吸血鬼と戦うことはできない。いつまでも狩人に復帰できないようなら、柳先輩もあの上司も燕のことを見離すだろう。そうしたら自分は、また居場所を失うのか。
あまりにも虚しくて、瞼が湿ってきた。その顔を誰にも見られないように手で覆う。また自分は逃げ出すのだろうか。逃げて逃げて一体その先に何が待っているのだろう。
席に戻った後は、お互いに口を開くことはなかった。
生まれ育った家は僕を見捨てた。僕の姿を見た途端、悲鳴を上げて汚いものを見たかのような視線を浴びせた。僕は最早人間ではなかった。最早自分が生きているのか、どうかさえわからない。あの時に死ななかったことが、本当に正しかったのかさえわからなかった。
僕は何の為に生き残ったのだろう。なぜあの男は僕を生かしたのだろう。こんなことになるくらいなら、もういっそ――。
「■■■■■■■■■■■■」
目の前に見たことのない少女が立っていた。どうやら自分に向かって話しかけているらしい。しかしどうやら異国の言葉のようで、それが何なのか僕にはわからなかった。髪が黒く、瞳も黒いことから少女がアジアのどこかの子だということはわかった。
「■■■■■■■■■■■■」
お前は何だ。僕の境遇を笑っているのか。それとも同情でもしているのか。大きなお世話だ。向こうへ行け。どこかに行ってしまえ。意味の分からない言葉で僕に話しかけるな。
しかし彼女は僕の手を取った。自分の胸程の背もない小さな女の子。その小さな手で僕の手を取り、胴体を触った。そしてその顔をこちらへ向け、純粋な笑顔をした。健気な笑顔だった。自分の中の穢れた醜いものが全て浄化されていくような笑顔だった。もしもこの顔が偽りならば、僕はこの世の全ての物を信じられなくなると思った。
近くにいた、その子の父親と思われる東洋人は僕に分かる言葉で言った。
「この子は君に負けないでと言っているんだ。そしてその体が可愛いと言っている。君があまりにも寂しそうな顔をしているから、何とかしたかったんだろう」
瞳から何か温かい液体が漏れだした。それは抑えようにも止まらなかった。掴まれた手と反対の手でそれを拭った。しかし拭った傍からそれは流れていった。
僕は生きていていいのかもしれない。例え世界を敵に回しても、自分以外の全てを敵に回しても、この少女が笑ってくれるのなら、大丈夫な気がした。
少女は暫く僕の手を取ってくれていた。僕の涙が止まるまで、傍にいてくれた。その時、僕は確かに心の底から、地獄より救い上げられた。たった一人の幼い少女の手によって。
ビジネスクラスの客室にて、通路に両側を挟まれた席に二人で腰かけた。機内は乗客でごった返し、それらの音が丁度よく二人の沈黙をかき消してくれた。シートベルトを装着し、携帯電話の電源を切る。右横では既に、英語の文庫本を取り出して読みふけっているベルモンドの姿があった。到着までかなりの時間がある。変なことを聞かなければよかったと後悔した。仕方なしに燕は、暇つぶしで機内の乗客の人間観察を始める。
燕の左側には、ベージュのコートを着込んだブロンドの女性が座った。その女性が時折激しく咳き込むので燕はどうしたものかと焦るが、言葉が通じないので下手に手を出さないことにした。いざとなれば乗務員を呼べばいいだろう。ベルモンドも隣にいるのだ。
暫くすると、キャビンアテンダントが出てきて英語で乗客に訴えかけ始めた。よく聞き取れないが、恐らく間もなく離陸するということなのだろう。他の乗客もシートベルトをかけ始めている。窓の外は、徐々に日が暮れ始めて鮮やかな夕焼けになっていた。短い間だったが、イギリスもこれでお別れである。
車輪が動き始め、段々と速度が上がっていく。そして軽い無重力状態を体が味わうと、乗務員が乗客に離陸したことを告げる。軽く溜息を吐き、シートベルトを外した。飛行機を利用したのはこれが初めてではないが、どうにも慣れないものである。遠い昔に父に連れられ、何度か異国を旅したことがある。横を見たが、ベルモンドは顔色一つ変えずに読書を続けていた。
客席の前方に設置されているモニターには、去年話題になった洋画が映し出されている。それは人々に感染する悪夢の中で、ハリウッド俳優の演じる主人公達が人類を救うために悪戦苦闘するという物語だった。そこで暫くすると瞼が重くなり、身体が睡眠を要求してくる。今日は朝が早かったのだ。燕は欲求に逆らわずに、身を任せることにした。
身体に伸し掛かる億劫な重さや、心に伸し掛かる葛藤から一時解放され、意識が遠くなっていく。
気が付けば燕は、どこかの山中に佇んでいた。どうして自分がそんなところにいるのかわからない。どうして自分がそんなところにいるのかわからない。周りには誰もいない。自分以外には誰もいない。ふと上を見上げると、そこには赤い天井。即ち夕暮れの空が浮かんでいた。暗くなってしまったら、奴らが来てしまう。
暫く歩くと、いつの間にか生い茂っていた木々が消え去り、そこはいつの間にか建物の中だった。どうやらどこかの学校の校舎の中らしい。夕暮れに包まれる教室には、乱雑に積み上げられた机や椅子の上に一人の少女が立っていて、その下には制服を着た体格の良い男子生徒が何人も倒れている。
どこかで見たことのあるような気がする少女が、こちらを覗き込んだ。その瞳はまるで空洞のようで、あるべき光がそこにはなくて、次の瞬間その空洞が回転し始めたと思ったら、私は成す術なくそれに吸い込まれるようにしていった。
私は荒れ狂う竜の如く流れくる水をかき分けて、断崖の絶壁を身一つで登っていた。全ての指から流血し、冷たい流水に体温と血を奪われながらそれでも私は登り続ける。そうだ思い出した。これを上りきらなければ私は狩人になれないのだった。どうしてそんな大事なことを忘れていたのだろう。登らなければ。私は登らなければ。けれど苦しい。痛い。どうして私はこんなことをしているのだろう。もうやめてしまおうか。私が手を放すと、体は重力に押しつぶされるように滝壺へと落下していく。
次に燕がいたのは、どこかの山中の村らしきところだった。広がっているのは畑や民家、しかしそれは明らかに様子がおかしかった。人間が裸で首輪をつけられているのだ。ある者は鍬を持ち、あるものは斧を持って皆労働を課せられている。自分にはそれがいったい何なのかわからなかった。理解することができなかった。これが本当に現実の世界の光景なのだろうか。
赤い空。壊された建物。奴隷のように労働を強いられる人々。
次々と倒れていく狩人。空気を引き裂くような阿鼻叫喚。蔓延する絶望。次々と殺されていく狩人。指一つ動かせないでいる自分。恐怖に竦んで動けない自分。心の中では逃げたいと思っているのに、手足と頭が切り離されているようだ。全く言うことを聞いてくれない。それはまるで、自分の体ではないかのように。
そうだ。私はまだここにいる。
あそこから帰ってきてなどいなかったのだ。
あの地獄はまだ終わっていない。
そして今度は私の番だ。
それはひたひたと私の傍にやってきて。私を鋭く睨み付けた。それだけで私は呼吸ができなくなる。次にそれは私の両肩を、その鋭い爪を喰い込ませて鷲掴みにして、その項にその牙を――
目を覚ませ。
目を覚ませ赤月燕。
誰かが私を叩く。うるさいな。もう少し寝ていたいのに。寝ている?そうだ私は――
「目を覚ませ」
激しく体を揺すられて燕はようやく覚醒した。まるで何日も眠り続けていた後のように体が重い。急に重力が強くなって、燕の体を押しつぶさんばかりかのようだった。何とかして瞼を開けると、そこにはただならぬ表情を浮かべて私を揺するベルモンドの姿があった。
「ベル……モンドさん?」
「アカツキ、気が付いたか。起きろ。不味い状況になっている」
ベルモンドの肩に支えられ、立ち上がると周囲には妙な光景が広がっていた。
乗客が皆、首をもたげて眠っているのだ。それは普通ではさほどおかしなことではなかった。それが全て、眼に入る全ての乗客が一様に同じ格好で首をもたげて眠りこけている。まるで死んででもいるかのように、寝息一つ立てず彼らはただ沈黙していた。
「あんたも今まで同じ状態だった」
とベルモンドは言う。
「俺も今覚醒したところだ。さっきから乗務員の気配もしない。どうして今まで気が付かなかったのだろうか……、これは奴らの仕業だ」
「奴、ら…………」
奴ら。彼らがその代名詞を口にするとき、それは決まって一つのことを指していた。
途端に体から力が抜け、全身をベルモンドに預ける形になる。体から血の気が引き、絶望がつま先から侵食し始める。恐怖が全身を支配していく。
「しっかりしろ。この分では他のフロアも同じだろう。皆、プシュケーを侵食されて昏睡状態に陥っている。パイロットもどうなっているか、このままではこの鋼鉄の鳥と共に全員心中だ」
嘘だと言ってほしかった。誰かに嘘だと、言ってほしかった。こんな地獄はもう終わったはずなのに。しかも今度は守ってくれる人間は誰もいない。ここには燕の身代わりになる狩人は一人としていない。この天空の鳥籠には逃げ場はどこにもない。
「まさか乗客の中に吸血鬼がいたのか。そんな様子は無かったが……。しかし確かめる他にないな。おい、立てるか?あんたの力が必要だ」
「いやぁっっっ」
燕は彼の手を無意識に振り払った。その手が自分を捕まえて、恐ろしい場所へと放り出すような気がしたからだ。
「なんで、どうしてこんなところにまで……嘘。いや、いやいやいやその名前を聞きたくない。その名前をいわないで。夢。これはまだ夢なんでしょう? そうだと、言って……」
自我が崩壊してしまわないように、その苦し紛れの現実逃避を口にする。夢。辛い現実を受け入れない為の便利な言葉。けれど、例え受け入れなくとも、それは容赦なく襲いくる。
「間違っていた。私が、間違ってたんだ。あんな者たちと、あんなにも恐ろしい者たちとまともに闘えると、そんな勘違いを、してた。自分では何も決めずに、ここまで来た……。私は、狩人になんてなるべきじゃなかったっ、私はそこまで強い人間じゃ、ない」
赤月燕は弱い。
狩人の中には、吸血鬼に立ち向かえる強靭な精神力を持つものもいるだろう。しかし自分は違う。今だって頭を抱えて震えることしかできない。恐ろしい現実を前にして顔を覆って立ち尽くすことしかできない。あの心臓を濡れた手で鷲掴みにされるような、おぞましい感覚が蘇るのだ。
相手が不良やヤクザの方がずっといい。相手が人間ならば力づくで解決できる。しかし相手が人外ではそうもいかない。奴らは人間の常識を逸脱して向かってくる。その姿を瞳に映した瞬間に、この世に生まれてきたことを後悔したくなるようにさせられるのだ。
「もう、いや。もうこんなのは……これ以上頭の中をぐちゃぐちゃに、されるくらいなら、こんなにも苦しみ続けるのならもう……この、まま」
もう死んでしまいたい。
しかし目の前の錬成士は、顔色一つ変えずに、そんな燕の姿を見てもなお、その端正な顔立ちを崩さずにこちらを見つめていた。
酷く自分が惨めに思えた。こんなどうしようもない自分の姿を、これ以上見ないで欲しかった。しかし彼は、一時たりとも目を逸らすことなく、燕の普段は隠している醜い部分を目の当たりにしても、それを憐れむようなことはなかった。
「そうか」
ヴァリアビリス・ベルモンドは続ける。
「そんなに死にたいのなら、そこで永遠に震えて蹲っていろ。それで十分お前は死人だ」
「…………」
「死というものは、お前に安らぎを与えるものではない。ましてやお前を許すものでもない。そんなことでよく狩人になどなれたものだな。白夜も堕ちたということか。奴の目も完全というわけではないようだな」
ヴァリアビリス・ベルモンドは容赦なく続ける。
「あの赤月紅葉の娘というから、どんな女かと期待していたが、ただの凡人だったらしい。これではその父親も知れているか」
唯一の肉親を貶されてもなお、言い返すことすらできない自分。弱い自分。そんな自分をこの手で殺してしまいたい。己の愚かさが憎い。
「お前が出来ないのなら、もう何もしなくていい。一生そこでじっとしていろ。ここで動けないお前は、この先もずっとそのままだろうがな」
そう言い捨てると、彼はトレンチコートを着直して踵を返した。燕を置いて、地獄への入り口へと向かって行く。その広い背中がやけに遠く感じた。燕には遠すぎた。
「まって……あな、たに、何が出来ると……」
「少なくともそこで蹲って動けないあんたよりは、役に立つだろうさ。何もせずにじっと終わりを待つくらいなら、みっともなく足掻いてやる」
「ベル、モンドさん……」
英国の錬成士は颯爽と客室から姿を消して行った。その一挙手一投足には迷いは一切なかった。
再び静まり返る客室。窓の外は漆黒よりも暗く、まるでこの旅客機はこの世の淵に向かっているようだった。いや、その表現はそれほど間違ってはいないのかもしれない。ここは確かにこの世の淵だ。以前として他の乗客達は皆、悪夢に耽ったままである。恐らくは感染型の吸血鬼がいるのだろう。クロノスがまさにそれだった。空間を問わず一度に多数の人間に影響し、集団催眠のような状態に陥れてプシュケーを喰らうのだ。もっとも性質の悪い種類の一つである。
もしそうなら、ベルモンド一人でどうこうできる相手ではない。狩人のように特別な訓練を受けていない錬成士には、とても敵う相手ではない。そんなことは彼にはわかっているはずなのだ。
それなのに。
彼は一瞬たりとも迷わなかった。
こんなときに父親なら、赤月紅葉ならやはり迷いなく行くだろう。葉隠柳も、少し迷ったとしても狩人として闘うはずだ。それに比べて、赤月燕はどうだ?
お前はまた見殺しにするのか。震えて動かない足を、怖気付いて動けない心を言い訳にして?
うるさい。私にはどうしようもないことだ。
そうやって勝手に自分の力を見限って、それをまた言い訳にするのか? あの時に何もできなかった自分を、仕方がなかったと、どうしようもなかったと繰り返し自分に言い聞かせて。
その足を止めているのは、お前の弱い心だ。その心がお前の足を、体を震わせ、みっともなく言い訳だけ宣う。
「仕方ないじゃないか。弱いんだから」
「そんなことを言ったら、私だってまだまだ弱いよ。燕ちゃんが私のことをどう思ってるのかわからないけどね、私は全然強くないよ」
右隣りのシートに座っていた女性が消え、いつの間にかそこに座っていたのは紛れもない葉隠柳だった。ショートカットの茶髪に、意思の強さを感じさせる大きな瞳は間違えようもない。場違いにも十字架をモチーフとした白夜の団服に身を包んでいた。
「ただそんな自分でも、受け入れてしまえば案外楽なものだよ。いいじゃない強くなんかなくたって。弱いままでいいじゃない。それでも誰かのために戦えるんだから」
「でも私には、その誰かなんて」
「だったら私の為に闘ってよ」
震える肩に、その手が添えられた。心の奥底まで根ざす不安が、少しづつ和らいでいく。
「私がいなくなったら、燕ちゃんは悲しんでくれる?だったら嬉しいけれど。そしたら私を助けて。私が今と変わらずこれからも生きて行けるように、私と一緒に闘って欲しいんだ」
「先、輩……」
ベルモンドが去って空席になったはずの、右隣りのシートには見慣れた憎々しい顔が現れていた。
「お前のその色々と小難しく考えちまう性格は、あいつ譲りなんだよな。余計なことを考えすぎなんだよお前らは」
赤月紅葉は小馬鹿にしたような顔で、シートに腰掛け長い足を組み、前を向きながら言った。
「まあそれがお前であり、それがあいつなんだよ。今は精々みっともなく足掻いてぐちゃぐちゃになってボロボロになって、苦し紛れでも図々しくも、生き抜いてみろ。お前が決めた道を迷うんじゃねえ。吸血鬼に勝てなくても、その前に自分に負けてんじゃねえよ」
有り得ない目の前の光景に、認識が追いついていかない。自分は夢でも見ているのだろうか。夢?
「目を覚ませ」
目を覚ませ。
目を覚ませ。
色々な声がする。自分を呼ぶ声。誰かが自分を呼んでいる。一体何が起きているのだろう。私はどうなってしまったのだろう。
「「出口はあそこだ」」
柳は人差し指で、紅葉は後ろ手に親指で、共に後方の客室出入り口を指し示した。そこはベルモンドが消えて行った場所。地獄への入り口。すぐそこにあるはずなのに、果てしなく遠く感じられる。
「恐れることはない。そんなものは幻だ。奴らが好んで使う手だろうが。人間の恐怖心、猜疑心を煽って掌握しようとしてくる。だがな、お前忘れてんじゃねえだろうな」
「何のために私達がいると思う? 一人で吸血鬼に、立ち向かえるなんて思わないで。私達人間は、一人では弱いから、一人では敵わないから、徒党を組む。手を取り合うの。今燕ちゃんはたった一人で何もかも抱え込もうとして潰れかかってる。そうじゃないの。そうじゃないのよ」
その言葉は、何よりも誰よりも、燕の心の奥底まで沁み渡っていく。
「一人じゃない。一緒に行こう。躓いたらその手を取ってあげる。脚が震えて動けないのなら、私が燕ちゃんの脚になる。だから」
赤月紅葉は言うべきことを言い終えたのか、口をつぐんでいる。
「行こう。みんなが待ってる」
いつの間にか、全身の震えは止まっていた。私は気が付けば、葉隠柳の胸に抱かれていた。その中は妙に心地よく、まるで母胎の中にいるかのような感覚に陥るほどだった。私は今から、生まれ変わるのだろうか。今からでも、やり直せるのだろうか。生まれ変わることが、できるのだろうか?
その足に、力を入れる。どうやらまだ動く。
どうやらまだ私は生きているようだ。みっともなくもしぶとくも、この身はまだ生を掴んで離そうとしない。泣けてくる。心でどう思っていたところで、身体は正直らしい。
こんな私でも、生きていていいのだろうか。
「当たり前じゃない」
そうか。ならもう少し生きてみようか。
みっともなく、足掻いてみようか。
自分の力で、その足で歩く。覚悟を決めたせいか、その足取りは軽い。悪夢に捕らわれたままの乗客達の横を通り過ぎ、そこにたどり着く。そう、例え敵わない相手であろうとも。そんな程度のことで逃げ出したとあっては、父に馬鹿にされるだけだろう。
もう一度後ろを振り返ると、そこには葉隠柳の姿も父親の姿もありはしなかった。当然だ。そんな都合の良いことがあるものか。しかし不思議だ。さっきのやり取りが夢や幻とは思えないのだ。まるで本当に彼女らがそこにいて、自分に言葉をかけてくれたかのような、そんな気がする。そんなことはあるはずがないのに。
「行こう」
赤月燕は覚悟を決め、狂気渦巻く地獄の中へと飛び込んでいった。
目を覚ませ。
目を覚ませ。
燕ちゃん。
目を覚ませ。
何としても彼女を死守しろ。これ以上は誰も死なせない。
耳から入ってくる喧騒が、痛いほどに荒々しい。私はどこにいるのだろう。私はどうなってしまったのだろう。
「燕ちゃんっ、つばめちゃんっ……。お願い、だよ……。私を、一人に、しないで。私の前から、いなく、ならないで」
重い瞼を何とかして開けると、飛び込んできたのは彼女の、柳の悲痛な表情だった。目を泣き腫らし、顔を蒼白にして私の身体を掴み、揺すっている。その度に全身が酷く痛む。
声がうまく出せない。その僅かばかりの判断力で、今自分が置かれている状況を何とか把握しようと努める。辺りを見渡すと。
そこは地獄、そのものだった。
暗闇に僅かばかりの灯りがあり、それが幾つもの人影をあぶり出している。そのどれもが一瞬たりとも留まることなく、乱舞の如く動き続けている。どうやら何かと闘っているようだ。
白夜の狩人だった。
視認できる限り数十人はいる。第一吸血鬼討滅隊。それはあの死地でほとんどが失われたはずの者達だった。しかし傷つき倒れている者ががあれど、皆、生きているようだ。燕はその目を疑った。
私は、また夢でも見ているのだろうか。
「つばめちゃんっっっ!」
そこでようやく葉隠柳はそのことに気が付き、私の身体を激しく抱き寄せて口付けせんばかりに覗き込んでくる。痛いですよ、柳先輩。
「私、イギリスで、飛行機、に乗ってて……それで」
「燕ちゃんっ、落ち着いて……。貴女はずっと”そこ”にいたのよ。ここで、倒れていたのよ。プシュケーを犯されていたの。貴方はどこにも行ってなんかいない。やっと戻ってきてくれた、のね。良かった………………」
わっと崩れだす彼女を見て、その涙が額に落ちて、その涙の温度を感じて、それが夢や幻であるはずがないと感じた。頭が酷く痛かったが、その生生しい苦痛は明らかに現実のものだ。つまり燕はようやく理解した。自分が戻ってきたことを。我を取り戻したことを。
身体中から流れ込んでくる情報量の多さに、圧倒される。それもそうだろう。今まで自分は悪夢に意識を呑みこまれていたようなものなのだから。生物が、いかに周囲の大量の情報を感受しているかがわかる。徐々に悪夢と現実の区別がついてくる。悪い夢から覚めた時のような、あの感覚である。皮膚という皮膚から汗が吹き出し、十字架をモチーフとした団服が肌に張り付いてかなり不快だった。
「はは、私、なにやってん、だろ」
まだ誰も死んでいない。
まだ何も終わっていない。
まだ、奴は在る。
そうだ。あの人は。
「ベルモンド、さんは?」
その名前が口をついて出た。
「……ベルモンド氏なら、一人で奴を止めてるわ。ずっと闘っていたのよ。見たこともない無数の神器を操って、今あの十戒を圧倒してる。信じられないわ」
何て人だ。
いや、あの人ならしかねない。
でも、だからこそ。
「行かないと。私も」
強制的に全身を従わせ、無理やり立ち上がろうとする。まず彼女に止められる。
「そんな体で、……今は闘える状況じゃないわ」
「でも、行かないといけないんです。私は。先輩だって、言ってくれたでしょう。闘ってくれって」
「……私そんなこと言ってないけど」
「言ったんですよ」
どうやらまだ体力は残っているようだ。苦痛に悲鳴を上げる全身を引きずるように立ち上がり、何とかそれを支える。手は動く。足は動く。息を吸って吐く。大丈夫。私は大丈夫。
彼を助けに行く。
「死なないで」
葉隠柳は言った。
「もう誰かが死んだり、噛まれたりするのは嫌、なの。もう嫌なの。辛いの。苦しいの。だから、だから……貴女には死なないで欲しいの」
「死にませんよ。全てを終わらせに行くんです」
金属と金属が、荒々しく弾き合う音が響く。それは鉄製の彼の背丈程もある十字架と斧が交わされたせいだ。際限なく生み出される奴のしもべは、かつてここに住んでいた村人達である。しかし今はその瞳に光を失い、意思のない傀儡と化している。
彼が凌ぎを削っているその場所は、村中央に位置する教会らしき建物の中だった。ところが教会の象徴すべき十字架は一本残らず折られていた。天井は高く、建物の窓には色鮮やかなステンドグラスがはめられている。しかし血で血を洗う惨状からは、かつての姿を想像するのは難しかった。白夜の狩人は皆力尽き倒れ、立っているのは彼だけである。
どうやら誘い込まれたようだ。
彼は見事なブロンドをかき上げ、奴を見据える。彼のかけている銀縁の眼鏡は神器だ。吸血鬼の網膜から錬成されたそれは、吸血鬼の感染に対抗し、プシュケーの炎を見分けることができる。
その眼鏡に映ったのは、吸血鬼クロノス・ビネランディの禍々しい姿だった。
見た目は若い北欧系の男性の姿だった。足まで届こうかという銀髪を垂らし、瞳は赤く、口からは鋭利な八重歯が覗いている。成りは漆黒のスーツに金の腕輪やネックレスを身につけていて、その醸し出す違和感が悪意にさえ思える。存在そのものが悪い冗談のようだ。
「その程度の神器でこの僕を殺せると、本気でそう思っていたのかい」
奴は姿そのままの、若々しい甲高い声で言った。
「僕をここまで追い詰めたと思っているところを悪いけれど、何、君が一体いくつの神器を持っているのか気になってね。ここまで集めたのは君が恐らく初めてだろう。噂は聞いているよ、錬金術師ベルモンド」
ベルモンドの背負う棺桶は神器であり、その中は彼独自の錬金術によって異空間へと結合していて、中に無数の神器が収められていた。しかしその半分、数にして百の神器は既に奴によって無効化されてしまっている。それでもヴァリアビリス・ベルモンドは、冷静にこの状況を打開する術を模索する。
「生家から逃げ出し、何にも属さずに、ただ神器を打ち続ける。君の行動原理はいったい何なんだろうね。その中を見てみたいな」
傀儡と化した村人が襲い来る。それを棺桶で何とか払い、後方へ飛ぶ。ここまで追い詰められたのはいつ以来だったか。彼は同じ十戒を相手にした時のことを思い出していた。
「そんな低級吸血鬼の神器など、通用する訳がない。僕を誰だと思っている?そこらのドラキュラか何かと一瞬にしないで貰いたいね。この僕を」
倒れた村人は、奴の手によってプシュケーを吹き込まれ、再び物言わぬ兵隊となる。奴が昔、北欧の一国を堕とした時、その国の民は一人残らず奴の眷属にされていたと言う。悍ましきはその感染力。人間の尊厳を犯すべく生まれてきたとでも言うような、最早天災である。絶望は確かにこの場所に蔓延している。
ここで止めなければ、この小さな島国に未来はない。
仕方があるまい。影道様の命だ。この私が命に変えてでも。それに、この国には彼女がいる。どうしても生きていて欲しい人が、いる。覚悟は決まった。
「覚悟しろ吸血鬼。お前は今から俺のコレクションに加えてやる」
「……やれるもの、ならね」
その時がきた。重々しい棺桶を降ろし、その身を包むトレンチコートを脱ぎ捨てる。そして棺桶から銀の鍵を取り出し、シャツのボタンを一つ一つ外して行く。
現れたのは奇妙なものだった。そこには普通ではないものがあった。人間の、生物ならば当然であるはずの、生々しさが感じられない。生きているという、鼓動を、生命を感じない。それはまさしく無機物。
「……お前は正気か。そんなことを、して、なぜ、どうしてお前は生きていられる」
彼の胴体があるべき場所には、違うものがあった。それは絡繰というべきか、機械仕掛けというべきか、とにかく違和感の塊のようなものが、彼の胴体部分には埋め込まれていた。いくつもの金属の部品が組み込まれ、螺子や歯車がはめられている。そしてその全体を拘束するように鎖が巻き付けられ、丁度心臓の辺りの銀の錠前に繋がっている。
その封を解くのは、十戒との闘い以来だった。それはどういった因果か、因縁か。運命というのは厄介なものである。奴らはいつだって手の届かないところから、こちらを弄んで嘲笑うのだ。
「運命というのなら、そうだな。最初から今まで、ずっとそうだった」
そして、これが最後かもしれない。
銀の鍵をその錠前に差し込み、回す。すると幾重もの厳重な封が解かれ、内なる力が解放されてゆく。こうなってしまたったら、もう誰にも自分にも止めることはできない。自らの制御の範疇を超え、強大なる力にただ身を任せる。その鉄の塊は次第に形を変え、その媒体であるベルモンドの骨格までをも劇的に変えていく。
そう――彼はその自身の体の一部を神器へと置き換えていた。彼の心臓は吸血鬼の物であり、胴体のほとんどは吸血鬼の内臓、骨、筋肉をもとに鋳造された神器に置き換えられている。彼の生命を支えているのは、他ならぬ吸血鬼の体だった。
禍々しい力が流れ込んでくるのがわかる。その力を、暴れ狂う力を力づくで従え、目の前の倒すべき敵を見据える。そう、今や彼も吸血鬼だ。それは彼が何の組織にも集団にも属さない理由だった。半吸血鬼でさえ忌み嫌う者たちがいる。神器の力に犯され、それに支配されてしまう者もいる。彼の得体のしれない力を、誰もが恐れ遠ざけた。
”神器人間”――錬金術と錬成術の融合により生まれた、この世にあってはならない禁忌の術。彼はその血に宿る才と強靭な精神力により、不可能を可能としている。自らの錬金術により、自らを生かす。それはもはや神に近い存在であると言えるかもしれない。彼こそが錬金術師の悲願、不老不死に最も近い男。
「ぐぅ、があああぁぁぁ。うううぅああああああああああああああああああああああああっっっ」
この、体、貴様にくれてやる。
その代償だ。力を、よこせ。鬼共。
右足で踏み切り、一瞬で距離を詰める。筋肉で隆起した右腕を振りかぶり、奴の首元を狙う。
それを見てクロノスはやはり一瞬で殺気を感じ、建物内の影に身を紛らせる。影は吸血鬼にとって自在に出入りできる住処だ。闇は吸血鬼に味方し、拠り所を与える。
「恐ろしい人間もいたものだ。しかし所詮は紛い物。偽物に過ぎない。私はここからやらせてもらおう。――”奴隷共、奴を捕えよ”」
それまで鳴りを潜めていた村人達が、一斉に彼目掛けて飛び掛かってくる。亡者の如く、彼の命を掴み取ろうと迫ってくる。
しかし。
「影を操れるのが、自分だけと思っているのか」
「な、あぁっっっっっ」
亡者たちは突如として消えた彼の姿を見失っていた。
「ここはいつも暗いな……俺はこの状態のとき、吸血鬼の異能を使うことができる。もっとも習得に数年かかったがな。影の中に逃げ込めば、誰も追ってはこない等と、思わないことだな。貴様の命運もここまでだ」
影の世界――それは吸血鬼のみが出入りでき、自在に泳ぎ回ることのできる現実世界とは物理法則の全く異なる世界。光のない世界。闇で満たされた世界。そこに逃げ込んだクロノスは、己の目を疑うこととなった。そこへいける人間など、見たことがない。いや、人間ではない。
「散々楽しんだろう。そろそろ、死ね」
次の瞬間彼は吸血鬼クロノスの胸に右腕を突き入れた。冷たい血が影の世界に飛び散り、そして脈打つ黒い塊を掴み取った。吸血鬼の心臓だ。
「く、がああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁっっ、ああああああああああああああ…………あああ、く、くくぅ。う、く、く、しかし、その力、完全に支配している、というわけでもなさ、そうだな。お前の中の、その鬼は、私がいなくなってもそいつが、代わりにこの村を、亡ぼすだろう」
クロノスは置き土産に、破滅の未来を口にする。
「どちらにしても、私には同じことだ。さあ、どうする錬金術師?」
しかし英国の錬金術師は、臆することなく迷いなく言った、。
「そんなことは俺がさせない」
その右手で心臓を握りつぶした。心臓は音を立てて潰れ、辺りに黒い血を撒き散らした。吸血鬼クロノス・ビネランディは死んだ。諸悪の根源は絶えた。これで赤月燕も我を取り戻すだろう。これでいい。
瞳を閉じ、開ける。そこは現実の世界だった。支配されていた村人は皆倒れている。プシュケーは正常に戻っているようだ。汚染も見られない。
「ぐ、あああぁぁっ」
そして身体の一部の吸血鬼の体が、痺れを切らしたように彼の意思に逆らって暴れだす。鬼頭景道にも禁じられていた封印の解除。十戒をも上回る力の代償は、更に恐ろしい驚異の解放だった。もうすぐ彼の意思は、彼の体に届かなくなる。
「そのまえ、に。俺が俺でなくなる、前に」
神器”鉄の棺桶”。漆黒の棺桶のその前に彼は近づき、膝をついて手をかざした。
「――――Open a door to the scheol」
これは錬金術ではなく、結界術。神器の格納されていた異空間とは別の、冥府への扉を開いた。棺桶の底があるはずの場所には、視認することも叶わない影より深き闇だけがあった。この神器はあらゆる場所、異空間への結界通路を開く起点となる。錬成士ヴァリアビリス・ベルモンドの最高傑作七つ道具の一つ。
「あああ、ぐ、ぐあああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
心を犯される。体を奪われる。全身が凶悪な意思に支配されていく。底のない闇に沈んでゆくような錯覚を覚える。いや、それは決して錯覚ではないのだろう。
「――――A chain」
最後の力を振り絞り、それを口にする。すると鉄の棺桶の中から無数の鎖が飛び出す。それは彼の体を捕え、幾重にも巻き付く。鎖が意思を持つかのようだ。そして鎖は棺桶の入り口へと引きずられてゆき、彼自身をそこに誘ってゆく。
冥府へと一旦渡れば最後、もう現世に戻れるかどうかはわからない。しかしこの世を無下に荒らすくらいならば、それでいい。それで全てが収まるのだ。
これでいい…………。
「ベルモンド、さん」
どこからともなく発せられた声は、若い女性のものに聞こえた。見れば教会の入り口に、白夜の団服を着た赤月燕が立っていた。全身がぼろぼろで酷い有様であった。
「どこへ、行ってしまうんですか。もう吸血鬼は倒したのでしょう?」
「俺も、似たようなものだ。……始末は自分で、つけなければ、ならない」
既に話すのが、やっとだった。
「戻って、くるんですよね」
それはわからない。
「待って、いますよ。ずっと」
俺のことなどは忘れろ。
「待ってる。それまで、強くなって、誰ももうそんな目に遭わせないように、強く……なって。待っています」
馬鹿な女だ。
既に全てを諦めていた彼の心が、最後にもう一度覚醒した。諦めるわけには、いかなくなった。例えどこへいこうと、そこが冥府だろうと、地獄だろうと。必ず戻ってくる。
彼女はそれを止めることはしなかった。もうどうしようもないことだということが、わかっているのだろう。しかし最後まで、目を離すことはしなかった。最後まで彼を見届けた。鉄の棺桶が彼を呑みこむその瞬間まで。そして冥府への結界が消滅するまで。
一人の少女を残して。村を、この国を人知れず救った一人の男を、遠い場所へと送って。事件はこうして終焉を迎えた。
月詠村での一件は、世間の知るところとはならなかった。白夜が手を回したのだろう。私たちが世界を救ったという事実は、いつも誰も知らない。しかしそれが、私達なのだ。それでいい。
吸血鬼に囚われていた村人たちは、そのほとんどが白夜に保護された。今は専門の者がしかるべき治療を行っている。彼らがもとの生活を取り戻す日も近い。白夜の狩人は結局のところ、軽い汚染を受けた者以外は誰も死人を出すことはなかった。未だに燕はこれが信じられなかった。理由はよくわからない。
「まだ言ってるの? 私たちは誰も死んでなんかいないわよ。まああの状況で奇跡といってもいいけれどね」
葉隠柳は言う。
「なんか、私、夢、を見ていたのかもしれないんです。吸血鬼に皆やられてしまう夢。それで、私は…………」
その先を口に出そうとすると、胸が苦しくなって、息が詰まってその先が出てこなくなる。
「……恐らくそれは悪夢ね。吸血鬼の感染をまともに受けて、意識が悪夢の迷宮を彷徨うのよ。それを経験して生きているのは珍しいケースだけれど。狩人の試験でもその抵抗を試すものがあるでしょう?」
「……あんまり思い出したくないですね」
燕はその後二日ほど寝込んだのである。神器を使って強制的にプシュケーを乱され、それに対抗できるかを試す試験。それは狩人となるための最後から二番目の試験だった。
「でも、この間のに比べればましだったような、きがします。それはそうなのでしょうけど」
あれから数週間が経ち、徐々に心の傷も時間によって癒されていった。そしてあのとき実際は何があったのか、燕も少しづつ思い出していった。
十戒”クロノス・ビネランディ”の月詠村襲撃事件である。いや襲撃、というよりは占拠といった方が正しいのだろうか。とにかく強大な吸血鬼である彼は関東地方の山奥に位置する月詠村という集落に突如として出現し、村人を喰らい始めた。全国各地に情報網を張り巡らせている白夜はいち早くこの異変を察知し、三人の狩人を送った。しかしその三人が返ってこなかった。そして白夜はこの件を重く見た。
白夜は第一吸血鬼討滅隊を送り出し、そして応援に鬼頭の吸血鬼狩りを要請した。事の深刻さを悟った鬼頭はそれを受け、十数人の吸血鬼狩りと、一人の錬成士を送ってきた。それが英国のベルモンド・ヴァリアビリスである。彼は正式に鬼頭家に所属しているわけではなかったが、鬼頭家当主と何やら繋がりがあるらしく、鬼頭に神器を提供するなど協力関係にあった。それが丁度日本にいたこともあり、今回の応援に参加していたのである。
二人が話しているのは月詠村の中央部――あれから数週間が経ち、徐々に村人達も戻りつつあった。しかし何等かの影響が出ていないとも限らない。被害を受けた者達への配慮。口止め。諸々の事後処理は下っ端の役目である。しかし人の口に戸は立てられないのだ。こうした事件から新たな伝承が生まれていくのだろう。
「ベルモンド氏のことを、考えてる?」
「へ?」
「何かそんな気がして、図星だったね」
「え、ま、まあ」
柳は既にこの世界にいない、英雄のことに触れた。彼がいなければ、どうなっていたかわからない。私も含め、あの場にいた全員は殺されるか、人間でなくなるかのどちらかだっただろう。感謝してもしきれない。しかし、彼にはその感謝を直接伝えることはもうできない。
「でもどうしてなの? 彼はそれはこの界隈では名が通った錬成士、だけれど。貴方彼のことをまるで知っているような感じだったじゃない。まるで以前に会っていたみたいに」
「それは、よくわからないんです。会っていたような気がするのに、でもやっぱり会ったことはない……はずなんです。その人のことを、知らないはずなのに、でも彼に纏わる記憶が、ガラスの破片みたいに、頭の中に散らばっていて……」
それを思い出そうとすると、やはり胸が詰まって、息ができなくなる。なぜだろう。それなのに、どうしてか懐かしい。喉の奥が熱くなるような、懐かしさがその度に巻き起こるのだ。どうしてかわからない。
あの時、どうしてあのような言葉が自分の口から出てきたのかわからない。ただ、彼がどこか遠くに行ってしまうような気がした。変わり果てた姿をしていたが、それが彼だとはなぜだかわかった。しかしそれにしてもわからないことだらけである。あの事件の後から、何もかもがおかしくなってしまった。
燕が頭を抱えていると、その肩に優しく手が置かれた。
「ごめんね。あんなことがあったばかりだもんね。無理して思い出すことないよ。せっかく生き残ったんだし、私達にはまだ時間があるんだ。まだ、時間が。……ゆっくり、少しづつでいいんだよ」
「柳さん」
その言葉にどれだけ救われてきたか。その言葉に、どれだけ救われてきたか。私はこの人に一体どれ程のもので返せば良いのだろう。きっと、彼女は見返りなど、求めはしないだろうけれど。
「ほら、あそこ人手が足りないみたいだよ。手伝いに行こう」
彼女が指さすのは、崩れた集落の小屋。村人が必死に復旧活動を行っているところだった。しかし人が足りないせいか、あまり捗っていないようだ。あんな事があった後でも、彼らは生き続けなければならない。それは生き残った者に課せられた義務だ。世界はそんな彼らに休息など与えてはくれない。
世界とは何だろう。生きる意味とは何だろう。こんな私にも、生まれてきた意味があるのだろうか。今の私にはわからない。それはきっと、もっとずっと先に、遠い未来に、それこそ人生の最期かもしれない――時にようやく悟るようなことなのだろう。今はまだわからなくて良い。それでいい。
「今、行きます」
赤月燕は、顔を上げてそちらの方へ歩いて行った。
「よう。よく生きてたな我が娘よ」
「……死んでなくて悪かったわね」
「まあそういうな。ゆっくりしていけ」
赤月邸。自分の慣れ親しんだ家。高校までを過ごしたその場所に、燕は久しぶりに帰ってきていた。湘南の田舎に位置する赤月邸は、二階建ての洋館である。周囲は山に囲まれ、コンビニエンスストアの一つもない。目の前の男、唯一の肉親である赤月紅葉が世界中を旅して稼いだ金による無駄使いの産物である。今回の突然の訪問には、はっきりとした理由があった。
「今回は流石に大変だったな。命あって何よりだ。駆けつけられなくてすまなかった。昨日イギリスから帰ってきたばかりでな。なあに、お前なら大丈夫だと信じていたぞ」
「……別にいいけど、イギリス? そんなところに行っていたの」
その国名が、記憶のどこかに引っかかっているような気がする。
「ああ、少し野暮用でな」
「? まあいいけど。それより、あんたに聞きたいことがあるの」
階段で二階に上がると、真っ先に自分の部屋に向かった。中へ入ると馴染み深い光景が出迎えてくれた。家を出た時から物のレイアウトは変わっていないが、あの父は一々掃除などしていないのだろう。机には埃がたまっていた。窓のサッシを指でなぞると埃が付く。
「今日は泊まっていくのか?」
「いや、すぐに屋敷に戻る。白夜もまだあの一件の処理に追われているから、私だけ休んではいられない」
紅葉は私の部屋で図々しくも私の机の椅子を引き出し、そこに腰かけた。それでようやく私と目線が合うほど、彼は背が高かった。一生この男には追いつけないのだ、と思い知らされる。
「それで、何が聞きたい」
「今回の事よ。正直言って全部が全部、聞きたいことだらけなんだけれど。少し気になることが
一つあって……ヴァリアビリス・ベルモンドという男を、知っている?」
「ああ。知っている。会ったことがある」
赤月紅葉は意味深に頷いた。
「じゃあ……もしかして、私が彼に会ったことなんて、あったのかしら?」
ヴァリアビリス・ベルモンドと自分との繋がり。あるとすれば、それは父親でありフリーランスの吸血鬼狩りである、赤月紅葉を介してのものだろうと、燕は当りを付けた。燕自身には記憶はないが、もしかしたらずっと昔に。そして。
「会ったことがあるな。ずいぶん昔のことだが。あれはお前を連れてイギリスに行った時のことだ。鬼頭の当主も一緒でな。丁度イギリスの支部に行かなければならなかったんだ」
「ほん、とうに?」
会っていた。
彼と自分は会っていた。
「その時に、丁度爆弾テロ事件に遭遇してな。覚えていないか? まあお前がまだ4か5の時だったから無理もないか。ショッピングモールがまるごと爆破されてな。その生き残りがベルモンドだ。生き残りと言っても、俺が見た時は体の半分が吹っ飛んでいて虫の息だったがな」
「……それでっ?」
赤月紅葉は続ける。
「医者は諦めたが、そこで鬼頭の当主は驚くべき行為に打って出た。持ち合わせの神器を組み合わせて、体の代わりを作っちまったんだから、あのお人はいっちまってるぜ。それからは奴にとっては地獄の始まりだっただろうがな。錬金術師の当主跡取りが一転して、破門だ。体にわけの分からんものを埋め込まれたってだけでな。向こうの奴らは情けってものがないらしい。当時奴は中学生だった。それから鬼頭の当主が拾ったんだ。今では奴が認める錬成士となった。……そうだったというべきかもしれないが」
「そう、だったの」
父親が会っていた。あのクロノスを倒した異能の正体。彼は自分の体に吸血鬼を飼っていた。それを開放し、吸血鬼を打倒した後に自分自身を封じたのだ。そんなことが、一体どんな覚悟を持ってして可能だというのだろう。それは想像を絶する。
「だが奴を立ち直らせたのは燕、お前だ。幼い頃のお前が頑張ったんだぜ。それも覚えてないのか。お前なんも覚えてねえんだな」
「私が?」
「そうだ。その時だ、お前が奴に会ったのは」
小さな頃の記憶。砂漠から一粒の宝石を探し当てるように、瞳を閉じ慎重に記憶を探る。そうしてようやく心当たりのある光景に思い当たる。遠い昔の、既に色褪せた記憶である。
一人の白人の少年が立っていて、泣いているのだ。その手を自分は掴んでいた。どうして泣いていたのかその時はわからなかった。
その少年が寂しそうな顔をしていたのだ。今にも崩れてしまいそうな、悲しい顔。それを何とかしてあげたかった。何とかしたくて、必死で彼の手を取ったら、彼が泣くので戸惑ってしまったのだ。
「そうだ。思い出した。私……会ってたんだ」
全てが繋がった。
ヴァリアビリス・ベルモンド。その錬成士の起源に私は関わっていた。どうして今まで忘れていたのだろう。そんな大事なことを。
いや、完全に忘れていたわけではなかった。私の記憶の中に、その断片は散在していた。だからこそ、あの吸血鬼の悪夢の中に、彼は現れた。彼と出逢ったイギリスの地だった。はっきりとは思い出せないが、確かに彼は、ヴァリアビリス・ベルモンドは存在していた。中学生の頃の彼を基に、いくらか成長した分が補正された人物像だった。残っていた記憶の断片が、あのベルモンドを作り上げたのだ。
「そう、だったのね」
だとしたら、彼は。もしかして私の為に。
私の為に、自分の身を挺してまで。
それは希望的観測だろうか。あまりにも都合のよい解釈ではないか。
「奴は今この世界にいない。ずっと遠い場所へ行っちまった。帰ってくるかはわからない。あの棺桶は鬼頭が回収していったよ。厳重に保管されるそうだ。だが奴のことだ。きっと落とし前付けて、戻ってくるだろうさ。……そんな顔するんじゃねえ。我が娘よ。強くなって、待ってるんだろうが。そうだろう?」
父が私の手を取った。それが引き金になったのだろう。頬に温かい液体が伝った。そこでようやく、何もかもが報われた気がした。彼に触れられた途端、肩の荷が下り、そして緊張の糸が切れて抑え付けていたものが、崩れていった。他の誰にも柳にさえ見せなかった顔。恥はとうの昔にかき捨てている父親の前だからこそ、燕は本当の意味で気を抜くことができた。
もしかしたら、あの時の彼もこうだったのかもしれない。
その気持ちが、ようやく分かった気がした。
「そういえば、悪夢の中に……お父さんが、出てきた気がするの」
「……そうか」
「それで、それで、何となくだけれど、私を守ってくれた気がする。あの……その……ありがとう」
「そうか」
「…………今日、やっぱり泊まっていこうかな。久しぶり、だし。お酒も飲みたい気分……かも」
「いいさ。イギリスの酒をかってある。今日だけは、お前も昔に戻っていいんだ」
それは小さな頃、この屋敷にあった光景そのものだった。昔にもこんなことがあった気がする。私が何かとても嫌なことがあって、泣いてしまって、父親に慰めてもらったのだ。その時は彼が小さな私の下にしゃがみ込み、抱きしめてくれた。その時よりは、私も背が伸びたということだろう。心の方も少しは成長しているだろうか。していたらいいのだけれど。
この部屋だけが、時間が巻き戻されたかのようだった。二人を取り囲む机やベッドなどの家具も、懐かしいその光景を慈しんでいるかのようだった。
明日からはまた頑張らなければならない。同僚達もまだ気が抜けない状況だ。こんな時にもどこかで吸血鬼が跋扈しているかもわからない。しかし、今日だけは、今日くらいはいいだろう。罰は当たらないはずだ。明日から頑張るために。そして彼が戻ってくるまで頑張るために。もっと、強くならなければならない。
燕は吸血鬼狩りとして戦う意義を見失っていた。しかし、彼はそれを与えてくれた。彼が戻ってくるまで、私は生きていなければならない。彼が戻ってきたときに、笑って出迎えられるように。
その代り今日くらいは、思いっきり甘えてやろう。
その日だけは赤月燕は一人の娘に戻ろうと決めた。明日からは狩人として戦うために。今日だけは、赤月紅葉の娘に、戻ろうと決めた。涙が落ちた後は、彼女は久しぶりに心の底から笑うことができた。そう、どこにでもいる一人の娘と同じように。父親の胸に抱かれながら。
The end