其の九
家の風呂が壊れて修理もしないまま九日が経った。九日前から通っている不思議な銭湯。昨日は嫌な思いをしたが、風呂の修理はまだ頼んでいないので、今日も同じように行くことにする。どうせ、家から歩いて五分程だし。もう、風呂の修理を頼むのも面倒臭いし。
利用料大人(中学生以上)四百円。小人(未修園児を除く)百五十円より。バスタオル・洗面器・入浴用玩具・石鹸・ボディソープ・シャンプー・リンス・コンディショナー・洗顔石鹸・フェイスソープ・脱色剤・脱毛剤・育毛剤・洗体タオル・頭髪用ブラシ・ドライヤー・くし・飲食物・特殊な能力が身につく果実等の持ち込み禁止。また、水着を着用しての入浴は禁止しています。
『やっぱりここが最安値か……。 まあいいか。てか、子供の百五十円よりの、《より》って本当に何なんだ? 何か特別料金でも徴収されるのか? 昨日の企画……関係ないか……。レインコートマン何を企んでいるんだ? というよりも、《特殊な能力が身につく果実》って何だ? それって、あの今話題沸騰中のアレか? ないない、ないわぁ……。水着着用入浴って、水着の中は洗わないのか?』と思いつつ中へと入る。
身体に入れ墨のある方・頭髪を過剰に染めている方・浴槽内で排泄される方・背広、タキシード、スーツ、ドレス・セレブ衣装を着用された方々・体を炎や光や氷などに変えられる方・忍者の分際で体術しか使えない方等のお客様には、当店のご利用を御控えさせていただく場合がございます。
『さてと……だ。ここは何故か、脅迫的に日課として行っておかないといけない気がするので、ここまでのことを適当に整理しておく。マトモじゃないのは当然だ。昨日は……やめておこう。考えるだけで寒気がする。体が変わる? アニメの見過ぎだ。忍者の分際でって、忍者見たことありますか? スーツ類、パワーアップしたままだな。てか、セレブ衣装って何だ? まあ、僕には関係ないけど……』
入口の自動ドアを開くと、目の前にもう一枚の自動ドアがある。
《ドアを開く前に、右横にあるボタンを押してください》
ここは、いつものように書かれている通りにボタンを押す。降ってきたのは白い霧だった。
『あれ? また水蒸気に戻った?』
何も違和感を感じないので、そのまま次のドアを開く。
《ただいまのは大変有毒な毒ガスにみせかけたように造ったつもりの水蒸気のような物でございます》
『また毒ガス!? ……てかどっちだ? 違うのか? 曖昧すぎないか……?』
前を見ると、また自動ドアがあり、《お風呂は楽しく入ろうじゃありませんか》と書かれてある。
『確かに楽しそうだな。言葉に勢いを感じる』
少し感心しながら、僕は目の前の真っ白な自動ドアを開けた。
『…………』
絶句。それ以上も以下もない。ただただ絶句。
レインコートマンが大きなボードを持ち、その両面には、沢山の子供の名前と年齢、そして入浴料金がランク分けされていた。
『お風呂で楽園 児童絵画発表会結果発表』
レインコートマンの持つボードの上に、そう書かれた文字が印字されている。
「絵は心でゴザイマス。上手や下手ではゴザイマセン。絵心と申すのでゴザイマス。当施設に愛を感じた絵に賞賛を!!」
ポカンと眺める僕を見つけると、小さくお辞儀して去って行った。
『何だ? 今の一礼は……。って百五十円作品、上手な薔薇の絵じゃないか!? 絵心はどうしたんだよ!? 愛はどこにあるんだよ!?』
そんな事を知らないレインコートマンは、フードの中で汗をダラダラ流しながら僕を手で脱衣所へと追い払ってくる。
レインコートマンをいくら眺めていても仕方がないので、脱衣所へ入る。絵画コンクールのことばかり考えていても仕方ない。僕は気を取り直して、自動販売機を眺めてみることにした。石鹸・ボディソープ・フェイスソープ・シャンプー・コンデショナー・育毛剤・脱毛剤・洗身グッズ・フェイスタオル・バスタオル等、他にも浴用玩具や見たこともないアイテムまでがいつもと変わらず販売されている。
今日は、浴槽用入浴剤販売機の前で目が止まる。
『刺激的ソープ? また、石鹸販売機じゃないところにソープ?』
《モコモコだメ〜》に引き続き、石鹸販売機ではない販売機にソープが売られている。販売価格は二百四十円。最近の僕の悪い癖は、気になった商品を迷うことなく購入してしまうことだ。
《商品名【鮮血の身体へ】:効能【湯舟に入ると……。恐い、恐いです社長! これ以上は私、恐くて書けません】注意点【私は使わない事を祈っています】》
『まて。ちょっと待て。これ、使うとどうなるんだ? なんだかセリフ入ってますけど……。恐くて……って、どうなるの?』
この説明書き通りに解釈するならば……って、解釈できる訳がない。意味不明な物を、どう解釈すれば良いと言うんだ。
『効果のわからない物ほどワクワクするな』と思ってから、ハッと我に帰る。『ダメだダメだ! どんどんレインコートマンの影響受けまくってんじゃん。僕』
浴室に出て出入口の方を眺めると、レインコートマンが入ってくる客一人一人に「投票結果でゴザイマス。別に見ても特にはならないのでゴザイマス」と言いながら客の前に立ちはだかっている。
『何をやっているんだ、あのオッサン……』
ふと気が付いて脱衣所に戻り、ズボンのボケットの中から《お風呂で楽園》のカードを取り出そうかと思ったが、今日はやめにしておいた。
『商品の取り出し、レインコートマン嫌がるからな……。でも、預けた商品なんだから、嫌がる理由ないじゃないか!?』
脱衣所でズボンのポケットの中に《お風呂で楽園》のカードを入れ直してから再度浴室へ向かう。
効果の不明な商品を使うので、人気の少ない場所に移動しようかとも思ったが、きっと自分以外の人達は知っていると思い直しバスチェアーに腰を下ろす。
《鮮血の身体へ》を取り出すも普通の石鹸とたいして何も変わらない。
『これ、使うと社長に報告しないといけないくらい恐いんだよな……。何が恐いんだ?』
《鮮血の身体へ》をタオルに擦り込み、身体を洗う。泡立ちもよく良い石鹸だ。シャンプーをするのが面倒だったので、細かく泡立った泡で頭と顔を一緒に洗った。
『ふぅ。すっきりした〜。くそ! 脅かしやがって!!』
何も起こらない事に安堵しながら、少し期待外れ感を感じながら湯舟に身を沈める。
「痛!」
思わず声をあげて立ち上がり、体を見るも何の異変もない。
『どこか怪我でもしてたっけ?』
もう一度体を見ようと下を見た時だった。
『なんじゃぁこりゃぁ!!』
僕の周りのお湯が真っ赤に染まっている。しかも、僕を中心に真っ赤なお湯は徐々に広がり続けている。
『痛い!! 熱いっていうより痛い!』
慌てて湯舟から出ると、一瞬にしてお湯の赤みが消えた。消えたというよりも、僕に引きずられるようにして湯舟から引っ張り出されたという感じだった。
『【湯舟に入ると……。恐い、恐いです社長! これ以上は私、恐くて書けません】じゃねぇよ! 書けよ! 恐いの前に、かなりの注意事項じゃねぇか!!』
「商品名【鮮血の身体へ】別名【ハバネロソープ】石鹸としての機能は申し分ないのでゴザイマスが、湯舟に入ると代謝能力が格段に上昇し、ぬるま湯でも熱湯に感じる地獄Itemでゴザイマス」
肩で息を切らしながら、自分から離れていく赤いお湯を眺めていると、いつの間にやらやってきていたレインコートマンが、ニヤニヤした表情で解説している。
『オッサン……。知ってて放ったらかしにしてただろ……。痛ぇ。てか熱ぃ。しかも、アイテムだけ流暢に話やがって!』
言いたいことは山ほどある。でも体が熱い。しかも何かに触れると痛い。仕方がないので、流れていく赤い湯をしばらく眺めてから脱衣所へと向かった。
かなりの時間を脱衣所のベンチで過ごしてから、体に残った水滴をバスタオルで押さえ拭きする。痛さはかなりマシになったものの、体のほてりは治まることはなかった。とりあえず、なんとか服を着用してから料金を払いにいく。レインコートマンに五百円玉を手渡すと百円の釣銭を受け取った。
「今日は最悪でゴザイマシタね、お客様。楽しんでいただけたでゴザイマスか? 熱かったでゴザイマスか? 痛かったでゴザイマスか? 今日ご使用になられた《鮮血の身体へ》の持ち出しは禁止でゴザイマスので、Cardをさっさと出すのでゴザイマス」
いつもながら、レインコートマンの言い方に腹がたったが、直ぐにでも夜風に当たりたかったので、素直に《お風呂で楽園》のカードを差し出す。
「暗証番号を確認するのでゴザイマス」
「19760824」
「名前を確認するのでゴザイマス」
「馬場 坂」
「はい、確かに《鮮血の身体へ》お預かりしたのでゴザイマス。本日もご利用ありがとうゴザイマシタ」
外に出ると爽やかな風が吹いている。
『風がこんなに心地良いなんて……』
夜風に晒され、心地良さを堪能してからゆっくりと家路に着く。
『そういえばあの娘、今日は会わなかったな……。と、いうよりも、これだけ混雑した中で出会うなんて、偶然の重なりすぎか……』
ぼ〜っと空を眺めたまま、まだほてりの残る体と一緒に家へと向かうのだった。