其の十一
家の風呂が壊れて修理もしないまま十一日が経った。一週間以上前から通っている不思議な銭湯。昨日は嫌な思いをしたが、風呂の修理はまだ頼んでいないので、今日も同じように行くことにする。どうせ、家から歩いて五分程だし。もう、風呂の修理を頼むのも面倒臭いし。でも風呂がそのままという訳にもいかないのであろうが。
利用料大人(中学生以上)四百円。小人(未修園児を除く)百五十円より。バスタオル・洗面器・入浴用玩具・石鹸・ボディソープ・シャンプー・リンス・コンディショナー・洗顔石鹸・フェイスソープ・脱色剤・脱毛剤・育毛剤・洗体タオル・頭髪用ブラシ・ドライヤー・くし・飲食物・銛や槍等の持ち込み禁止。また、水着を着用しての入浴は禁止しています。
『ちぇっ! 昨日の最安値はテレビ用かよ……。 まあいいか。てか、子供の百五十円よりの、《より》って……。あの作品展のことか? 気持ちも愛も関係ないじゃないか……。というよりも、銛って……。魚でも捕るのか? 潜るのか? 槍も同じだろ……。ないない、いくら何でもないだろう……。水着着用入浴って、昨日の人、水着脱いでたじゃん』と思いつつ中へと入る。
身体に入れ墨のある方・頭髪を過剰に染めている方・浴槽内で排泄される方・背広、タキシード、スーツ、ドレス・セレブ衣装を着用された方々・お風呂が楽しくない方・お風呂の目的を身体清潔だけと思われている方等のお客様には、当店のご利用を御控えさせていただく場合がございます。
『さてと……だ。日課のまとめを始めようか。マトモじゃないのは当然だ。昨日は……寒かった。わかっていたことだが寒かった。それにしても、あんな放送してしまって、この銭湯潰れないのか? 《お風呂が楽しくない方》って……。お風呂を楽しんで入れってのは、オッサンの勝手な理屈だろ!? 《お風呂の目的を身体清潔だけと思われている方》って、普通だろ? 身体清潔以外の目的があるなら教えてくれ。てか、セレブ衣装って何だ? 未だによくわからないな……。まあ、僕には関係ないけど……』
入口の自動ドアを開くと、目の前にもう一枚の自動ドアがある。
《ドアを開く前に、右横にあるボタンを押してください》
ここは、いつものように書かれている通りにボタンを押す。降ってきたのは白い霧だった。
『また水蒸気ですか?』
何も違和感を感じないので、そのまま次のドアを開く。
《ただいまのは水蒸気でございます》
『わかっています。てか、ネタが尽きてきたかな?』
前を見ると、また自動ドアがあり、《お風呂には楽しく楽しく楽しくです》と書かれてある。
『言葉になってない……。誰に呼び掛けているんだ?』
少し戸惑いながらも、僕は目の前の真っ白な自動ドアを開けた。
「いらっしゃいませ〜!」
『…………』
「いらっしゃいませ〜!」
レインコートマンが珍しく当たり前の応対をしていた為、声が出なかった。
「お客様、更衣室はあちらでゴザイマス」
『…………』
「更衣室わかりますか?」
『不気味だ。当たり前過ぎるレインコートマンは不気味すぎる』
一先ず《お風呂で楽園》のカードを取り出しレインコートマンに差し出す。
「何が必要でゴザイマスか?」
「《もうアタシばかりカマわないで》と《巻き巻きタオル》出してください」
番頭台に肘を掛け、ぶっきらぼうに言い放つ。
「《もう! アタシばかりカマわないで!!》と《巻き巻きタオル》でゴザイマスね」
「はい。『気持ちを込めるなよ……。気色悪い……』お願いします」
「それでは、暗証番号を確認するのでゴザイマス」
「19760824」
「名前の確認でゴザイマス」
「馬場 坂」
不気味なくらい素直なレインコートマンが余りにも気持ち悪くて、商品を手渡されカードを差し出されると奪うようにして脱衣所に急いだ。
今日は無駄遣い無しで風呂に入ろうという魂胆。でも脱衣所に入ると、多くの自動販売機から目を反らす事はできない。最安値の商品を探して、少し見て回る事にした。石鹸・ボディソープ・フェイスソープ・シャンプー・コンデショナー・育毛剤・脱毛剤・洗身グッズ・フェイスタオル・バスタオル等、他にも浴用玩具や見たこともないアイテムまでがいつもと変わらず販売されている。
ふと違和感を感じ《性転換タオル》の前で立ち止まった。
『こ、これって……』
《商品名【これでも俺を見ないのか!!】》
販売価格は二百四十円。
『これって確か……』
初めて《もうアタシばかりカマわないで》と《あら〜まソープ》を併用した日のことを思い出した。
『あの娘が使っていたタオル……。《もうアタシばかりカマわないで》と併用したらどうなるんだ?』
ふとした興味、その興味のせいで商品を購入している自分がいた。
《商品名【これでも俺を見ないのか!!】効能【異性の気持ちがわかるようになります】注意点【しばらくは知人を避けて通りましょう】》
商品名が違うだけで書かれている内容は変わらない。まじまじと眺めて見るも、違っているのは色だけだった。
『これは男の気持ちがわかるってことか?』
一つわかるとすれば、女性の気持ちのわかるタオルと男性の気持ちがわかるタオルってことだ。交互に見比べているうちに、『これ、同時に使うとどうなるんだ?』そんな思いが芽生えた。男女の気持ちが同時にわかるタオル、不安感と不信感でいっぱいの中、僕は二つのタオルを持って浴室へ入って行った。
誰に迷惑がかかる訳でもないので、普通に座って頭そして体の順に洗う。効果の程はというと、……特にない。普段通り下をタオルで隠す程度。
『なんだよ! 期待して損をした……』
そんな思いの中顔を上げると、《巻き巻きタオル》を効果的に使用している女性を発見した。よく見ると、細身の体に長い黒髪、そこに埋まった小さな顔。確認というよりも確信。あの風呂場結婚式の時の彼女だ。
《巻き巻きタオル》の効果はタオル周囲の水分を大量に吸うこと。身体にピッタリと張り付くのは、身体中から水分を吸い上げる為なのだろうが、彼女のように浴室内で使われたら身体から水分を吸い上げる前に、浴室内の湿気、すなわち水分を吸い上げることで許容範囲の限界に達してしまうようだ。『さすが!!』と思いつつ、《巻き巻きタオル》から水を滴らせている彼女に声を掛けるべきか迷う。
「あ、あの……」
勇気を振り絞って出た言葉はそれだけ。でも、彼女は僕に気が付くと、屈託のない笑みで微笑んだ。
「もしかして、この前の?」
言いたいことはよくわかる。彼女にとって、僕はまだ、見知らぬ他人なのだから。
「はい。この顔で会うのは初めてですね」
「やっぱり! そっかぁ。よかったぁ。凄くおじさんだったら、どうしようかと思ってたから……」
「まあ、半分オッサンですけどね」
僕の言葉を聞いてクスッと笑ったが、「まだ全然じゃないですか」と続けてくれた。
「こんな所で立ち話もどうかと思うので、外に出てからお話しませんか?」
僕の言葉で自分がバスタオル一枚であることに気付いたのだろう、突然顔を赤らめると、俯き加減で軽く頷いた後、彼女は銭湯に来たばかりらしく、浴室の方へと歩いて行った。僕は少し長い目に湯舟に浸かると脱衣所へと向かった。
あまり早く着替えても、外で待ち合わせだと思えばその必要はない。だからと言って、あまりにもゆっくりと着替えて、相手を待たせるのも本意ではないので、《巻き巻きタオル》の使用には注意しながら、普通に着替えを行い普通にレインコートマンの所へ向かい百円玉を四枚手渡す。
「丁度お預かりしたのでゴザイマス。それでは、わかっている通り商品は預けていくのでゴザイマス」
やけに大人しいレインコートマンに《お風呂で楽園》のカードを手渡す。
「確かにCardを預かったのでゴザイマス。それでは暗証番号を確認するのでゴザイマス」
「19760824」
「名前を確認するのでゴザイマス」
「馬場 坂」
「はい、確かに《巻き巻きタオル》と《これでも俺を見ないのか!!》と《もう! アタシばかりカマわないで!!》お預かりしたのでゴザイマス。本日もご利用ありがとうゴザイマシタ」
『だから気持ちを込めるなよ……。気色悪いから……』
外に出てしばらく待つと彼女が出てきた。満面の星空の下、彼女にどう声をかければ良いのか迷う。
「どうしましたか? のぼせました? 顔、赤いですよ」
「そ、そうですか?」
突然声を掛けられ、咄嗟に頬に手を当てる。
「それ、可愛いですね」
可愛いと言われて頬に当てた手を咄嗟に引っ込めると、彼女はそんな僕を見てクスクスと笑っている。
「笑わないでくださいよ」
「だって、とても可愛いらしいんですもの」
「何がですか?」
「貴方の態度?」
可愛いらしいと言われても喜べる筈がない。だからと言って悪い気がするわけでもない。
「そんなに可愛いらしいですか?」
「ええ、とっても」
「そんなこと言われてもなぁ……」
そう言って頭を掻く僕を見て彼女は、クスクスと笑い続けている。
『話題を変えなければ……』と思い、「あの、名前、教えてもらえませんか?」と尋ねてみる。
「あら? そう言えば知りませんでしたね」
そう言いながらも、彼女は笑い続けている。
「ぼ、僕は、馬場坂。馬場、坂です」
「知ってますよ」
「え?」
「だって、私の前で何度かあの番頭さんに言ってたじゃありませんか」
「そ、そうだったかな?」
「ふふ。おかしな人」
そう言ってまたクスクス笑っている。
「私は、天戸 雫って言うのよ」
「天戸? 変わった苗字ですね。でも、雫さんて名前、可愛いです」
可愛いと言われて少し照れたのか、「そう?」と下を向いて顔を赤らめている。
『か、可愛いすぎる!!』
「あ、明日もまた来ますか?」
「ええ。そのつもりだけど、どうして?」
「じゃ、じゃあ、あ、明日もまた、は、話をしませんか?」
「お風呂後? お風呂中?」
そう言って意地悪そうに見上げてくる。
お風呂中なんてとんでもない。たぶん僕なんて、すぐ退場になってしまうだろう。
「お、お風呂後でいいです」
「本当に?」
「ええ。お風呂後でいいです」
「ふ〜ん。わかった。じゃあ、また明日ここでね」
そう言って手を振って帰っていった。
『僕も帰ろうっと』
お風呂と会話でほてった身体のまま、家路についた。




