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6/15

追ってくるなら、追わせる先を選べばいい

真っ向から来る相手に、一番やってはいけないのは慌てることだ。


強い相手ほど、焦った側が自分から崩れる。

足を止める。

判断を誤る。

守るつもりで、守るべき場所へ敵を連れていく。


だから、こういう時に考えることは一つしかない。


どこで受けるか。

どこへ逸らすか。

それだけだ。


「レイン、走って!」


エマの声が夜気を裂いた。


巨大な青殻の巣主は、見張り小屋を踏み潰す勢いで跳んでくる。青白い脚が月光を弾き、腹の下の毒嚢が不気味に脈打っていた。あれを村の中心で暴れさせたら終わる。


俺は反射的に村の外、用水路の向こう側へ走り出した。


「村から離れるぞ! 誰もついてくるな!」


叫びながら、左手首の黒札を掴む。


青殻蜘蛛毒 残滓


さっきまで静かだった文字が、今ははっきり青く光っている。巣主は間違いなくこれを見ている。いや、これだけじゃない。俺の中の、もっと深い何かごと追っている。


「レイン!」


エマが並走してくる。


「来るな!」

「記録手を置いていく方が危険です!」


もっともだった。


言い返す間もなく、背後で空気が爆ぜた。巣主が着地したのだ。振り向かなくても分かる。地面が揺れ、雪が背中に当たる。


俺は橋板のなくなった用水路を飛び越え、そのまま空き牛舎の方角へ走る。第五話で導杭の終点にした場所だ。隔離箱と核片もあっちへ投げてある。少しでも、少しでもあれと俺の印を重ねられればいい。


「レイン、手を見せて!」

「今か!」

「今です!」


走りながら左手を差し出すと、エマはそのまま俺の手首を掴んだ。冷たい指先が黒札を押さえ、もう片方の手で腰の筆を引き抜く。


「何をする」

「名前をずらします!」


筆先は銀色に光っていた。さっき地下で使った墨だ。


「今の札は“残滓”になってる。だから巣主から見れば、あなたの中にあるものが曖昧に繋がったままなんです。核片と同じ名前に寄せれば、追う先を誤認させられるかもしれない」


「かもしれない、か」

「今はそれで十分です!」


巣主が再び跳んだ気配。

まずい。近い。


エマは走りながら、俺の黒札へ上書きするように文字を足していく。


青殻蜘蛛毒 残滓

誘導核片 混同中


「読んで!」

「何をだ!」

「そのまま!」


俺は息を切らしながら叫ぶ。


「青殻蜘蛛毒残滓、誘導核片、混同中!」


その瞬間、頭の奥で何かがぐらりと揺れた。


札が上書きされた感覚。

俺の中で散っていた青い気配の一部が、隔離箱に入れた核片の方へ細く伸びる。完全じゃない。だが、さっきまで全部俺へ集中していた圧が、少しだけ割れた。


背後で、巣主の着地位置がぶれた。


「効いた!」

「半分だけです!」


半分で十分だ。

少なくとも、一撃目が村のど真ん中に入る最悪は避けられた。


空き牛舎が見えた。

崩れかけた屋根、低い石壁、その裏に導杭の最後の一本が打ってある。


「そこで止まらないで! もっと外へ!」

「分かってる!」


牛舎の脇を抜け、さらに北の斜面へ回る。ここなら村までまだ距離がある。地面は凍っているが、樹は少ない。動きは見やすい。


そこで初めて振り向いた。


でかい。


予想していたより、さらに一回り大きかった。頭部の前面に並んだ青い目玉の一つ一つが、湿った光を放っている。脚は八本というより、槍が八本生えているみたいだ。毒嚢の脈動に合わせて、全身の殻の継ぎ目が青く明滅する。


導杭の青い線はたしかに巣主の進路に触れている。

だが、無視はしていないものの、従ってもいない。

母は別だ。毒だけでなく印を追う。


最悪の一文だった。


「レイン、上!」


巣主が白い糸を吐く。

だが若い個体と違う。糸そのものが青く発光していた。毒を含むどころじゃない。ほとんど液体の毒が糸の形をして飛んでくる。


俺は横へ飛びながら、右手を突き出した。


「収納!」


糸の表層から毒だけを抜く。

だが量が多すぎた。全部は取れない。青が薄まった糸束が肩と背後の樹に叩きつけられ、樹皮がじゅっと溶ける。


「くそっ」


若い個体より、段違いだ。

毒の量も、速度も、なにより芯の強さが違う。


エマが牛舎の陰へ滑り込み、何かを投げた。白い粉の袋が巣主の前脚へ炸裂し、刺激臭が広がる。


「目を狙えません! 顔の殻が厚い!」

「分かってる!」


なら脚だ。

だがただ毒を抜くだけじゃ浅い。さっき若い個体に効いたのは、殻を走る青い筋の一部を外して強度を落としたからだ。巣主にも同じ理屈が通るかは分からない。けれど試すしかない。


巣主が石壁を蹴って迫る。

速い。前より速い。


俺は地面に手をつき、まだ残していた衝撃を斜め前へ叩き返した。見えない槌が地面を打ち、凍土と雪が吹き上がる。巣主の視界が一瞬だけ遮られた。


その隙に潜り込む。


脚の一本。

節と節の間。

青い筋が最も濃い場所へ、左手を伸ばす。


冷たい。

硬い。

それなのに内側はどろどろと粘ついている。


これが毒脈か。


「しまえ!」


青い流れの表層を引き剥がす。

だが途端に、頭の奥の暗い階段の下が大きく鳴った。


ちゃり、ではない。

がん、と扉が内側から叩かれたみたいな重い音。


「っ……!」


巣主の脚から抜いた青い流れが、普通の棚へ入らない。黒札をつけた区画にも収まりきらない。もっと深い方、厄災保管庫のさらに奥へ滑り落ちようとする。


駄目だ。

今それは嫌だ。


俺は無理やり左手首の札を押さえた。

青殻蜘蛛毒 残滓

誘導核片 混同中


上書きした文字が強く光る。

そのおかげか、抜いた毒脈の一部が黒札の区画へ止まった。


「レイン!」


エマの声。

見れば、俺の触れた脚に細いひびが走っていた。


「通るぞ!」


猟師の矢ではない。

エマが牛舎から持ち出してきた、柄の長い屠畜槍だった。彼女はそれを避難民のダンへ投げ、ダンが全力で踏み込む。


ひびへ槍が突き刺さった。


巣主が絶叫する。

耳障りな高音に、頭蓋の内側まで震えた。


「効いた!」

「まだ浅い!」


巣主は痛みで暴れるが、むしろそれが好都合だった。青い血が飛び散り、地面に落ちた場所だけ雪が溶けて黒く焦げる。毒の濃度が高い。あれをそのまま村へ撒かせるわけにはいかない。


「エマ! 核片は!」

「隔離箱ごと牛舎の裏です!」

「持ってきてくれ!」

「何をするつもりです!」

「追う先を一本にする!」


全部は俺を追う。

でも半分は核片へ引かれている。

なら、もっと寄せる。


エマが走る。

その間にも巣主は次の糸を吐こうとしていた。毒嚢が脈打つ。腹の下で青い液が集まる。


まずい。

今度は村方向だ。


俺は咄嗟に左手の黒札を引きちぎった。


「レイン!?」


札を引きちぎった瞬間、頭の奥で抑えていた青い気配が一気に膨れた。巣主の目がぎらりと光る。完全に俺を捉えた。


それでいい。


俺はそのまま、ちぎった黒札を収納していた小石へ貼り付ける。そこへ右手で衝撃の残りをほんの少し込め、全力で北の斜面へ投げた。


「行け!」


黒札つきの小石は、青い線を引いて飛ぶ。

巣主の頭がそれを追う。


一瞬だけ迷った。

その一瞬が欲しかった。


「今です!」


戻ってきたエマが、隔離箱を俺へ投げる。俺は受け取ると同時に蓋を開け、内部の核片へ意識を合わせた。


核片。

青殻系統。

誘導用。


そして、さっき引きちぎった黒札の名をそこへ重ねる。


誘導核片。

混同中じゃない。

完全にそっちだと、言い張る。


「青殻蜘蛛毒、誘導核片!」


叫ぶと同時に、黒札の文字が隔離箱の中で強く光った。


巣主の青い目が、明確に俺から外れる。


「曲がれ!」


導杭の線が、一斉に脈打つ。

一本目。

二本目。

三本目。

四本目。


青い筋の道が、牛舎の裏からさらに北の斜面へ伸びる。


巣主はその線の上へ前脚をかけた。

完全ではない。だが確かに、進路がずれた。


「よし!」


俺とエマは同時に反対方向へ飛ぶ。

次の瞬間、巣主の糸がさっきまで俺たちのいた場所を貫き、牛舎の壁を溶かして吹き飛ばした。


危なかった。

一拍遅れていたら終わっていた。


「レイン、後ろ!」


振り向くと、導杭に引かれたのは巣主だけじゃなかった。山から下りてきた中型の青殻蜘蛛が何匹も、青い線へ沿って斜面を駆け下りてくる。


群れごと引いてるのか。

それはそうだろう。同系統の道なのだから。


「村長に伝えて! 正面の群れは導線通りに来る! 巣主はまだ外で回せる!」

「あなたは!」

「俺はこっちを切る!」


言い切ると、エマはほんの一瞬だけ迷い、それでも頷いた。


「死なないでください」

「善処する!」

「その答えは嫌いです!」


そう怒鳴り返しながらも、彼女は走った。伝令としてこれ以上ない速さだ。ありがたい。


俺は巣主と群れの中間へ回り込む。


一人で抱えるには数が多い。

でも、一匹ずつ倒す必要はない。

列になってくれるなら、まとめて落とせる。


北の斜面の先には、古い採石場の窪地がある。子どもの頃、祖父に「あそこは近づくな」と言われた場所だ。深くはないが、斜面が急で、冬は氷が張る。


あそこだ。


俺は導杭の最後の一本を収納し、さらに採石場の縁へ向けて取り出した。線の終点をずらす。巣主の進路もそれに引かれる。


「来い」


巣主が青い脚を鳴らしながら迫る。

中型の群れもその後ろ。


俺は走りながら、地面へ次々と手をつけた。

荷馬車の軸。

橋板。

牛舎の梁。

倉庫から持ってきた丸太。


使えるものは全部収納しては前方へ出し、簡易の足場と障害物を作る。人力なら何人も必要な作業だが、俺なら一人で繋げられる。


列を作れ。

曲がるな。

真っ直ぐ来い。


採石場の縁へ辿り着いた瞬間、俺は最後の導杭を氷の上へ叩き込んだ。青い光が窪地の中央で渦を巻く。


巣主は迷わず飛び込んできた。


「そこで止まれ!」


俺は採石場の縁に積んでおいた丸太の束を一斉に収納する。

支えを失った雪庇が崩れ、氷の縁が割れた。


巣主の前脚が沈む。

後続の中型が押し込み、足場がさらに砕ける。

青い殻が何匹ももつれ合いながら窪地へ滑り落ちた。


だが巣主だけは違う。

四本の脚で踏ん張り、壁面へ突き刺して持ちこたえる。


「だよな……!」


こいつだけは別格だ。


しかも最悪なことに、壁へ張りついた姿勢のまま、腹の下の毒嚢が大きく膨らみ始めた。今までで一番だ。吐く気だ。大量に。採石場ごと埋めるつもりかもしれない。


ここで撃たせたら、導杭も、窪地も、全部青い毒沼になる。

そうなればもう誘導どころじゃない。


やるしかない。


でもどうする。

毒の量が多すぎる。全部収納は無理だ。

衝撃もほとんど使った。

熱はあるが相性が悪い。


だったら。


俺は頭の奥の倉庫を見た。

食料。

薬。

道具。

熱。

衝撃。

黒札のついた毒区画。


そのさらに下。

暗い階段。

厄災保管庫一層。

そして、その奥。


さっきから扉を叩いている、もっと深い何か。


使うなと誰も言っていない。

一人で開けるなとは言われた。

でも今、ここにエマはいない。


駄目だ。

それは言い訳だ。


言い訳だと分かっているのに、巣主の毒嚢は膨らみ続ける。


「くそ……!」


祖父の台帳の文字が頭をよぎる。

記録手が止めろ。止まらんなら殴れ。


今なら殴られたい気分だった。


その時だった。


背後から声が飛ぶ。


「レイン! それ以上下は開けないでください!」


振り向くと、斜面の上にエマが立っていた。息を切らし、手には新しい黒札を何枚も握っている。戻ってきたのか。伝令だけじゃなく、準備までして。


「なんで戻った!」

「あなたが嫌な顔をした時は、大体ろくでもないことを考えてます!」


言いながら、彼女は札を一枚こちらへ投げた。


札にはもう文字が書いてある。


青殻巣主 毒嚢圧


「それを左手に結んで! 吐き出す前の圧力ごと名前をつけるんです! 中身全部を取るんじゃなくて、今そこに溜めてる“押し出す勢い”を抜いてください!」


一瞬、意味が分からなかった。


だが次の瞬間、理解する。


中身全部をしまえないなら、出すための圧をしまえばいい。


液体そのものじゃない。

吐き出す直前の、圧力。

勢い。

それなら俺の得意分野だ。


「……天才か、お前」

「今さらです!」


俺は札を左手首へ巻きつけ、叫ぶ。


「青殻巣主毒嚢圧!」


文字が青く光る。

頭の奥で、熱や衝撃と近い棚がひとつ開く。


あった。

毒液そのものとは別の、内側から押し出す重い脈動。

膨張。

圧。

破裂寸前の勢い。


俺はそれへ手を伸ばした。


「収納!」


巣主の腹が、目に見えてしぼんだ。


吐き出されるはずだった青い毒液が口元までせり上がったまま止まり、行き場を失って内部で震える。


巣主の動きが止まった。

青い目が初めて、はっきりと狼狽える。


「もう一回!」


エマの声。

俺は息を吸い、今度は毒嚢全体ではなく、まだ残っている押し出す勢いの芯だけを狙った。


「しまえ!」


二度目の収納で、巣主の腹がさらに縮む。

毒液は吐けず、内部で逆流したらしい。殻の継ぎ目から青い液が噴き出し、巣主が苦悶の音を上げた。


「今です! 足元!」


エマが次の札を投げる。


氷盤亀裂 拡大


何枚書いてきたんだ、お前。


俺は笑いそうになるのをこらえながら、その札を氷の縁に叩きつけた。


「氷盤亀裂拡大!」


衝撃区画に残っていたわずかな勢いを、亀裂へ返す。

ぱきん、ではない。

ばぎ、と大きな音を立てて、採石場の氷盤が一気に割れた。


巣主の四本の脚が支えを失う。

もつれた中型ごと、巨体が窪地の底へ落ちる。


今だ。


俺は最後の導杭を収納し、その代わりに祖父の隔離箱を窪地の中央へ放り投げた。中には核片。青殻系統の印そのものだ。


落下した巣主の青い目が、最後にそちらを向く。


「そっちを追ってろ!」


次の瞬間、割れた氷と崩れた雪塊がまとめて窪地へ流れ込み、巣主の巨体を半ば埋めた。


完全には終わっていない。

だが、少なくともすぐには上がってこられない。


静寂が落ちる。


白い息だけが、やけに大きく見えた。


俺はその場に膝をついた。

全身が重い。頭の奥がぎんぎんする。使い慣れないことを連続でやりすぎた。


エマが駆け寄ってくる。


「生きてますか」

「かろうじて」

「善処よりはましですね」


言いながらも、彼女はすぐに俺の肩と手首を確認し、脈を取った。指先は冷たいのに、その動きは妙に落ち着く。


「厄災保管庫の下、開けかけましたね」

「……分かったか」

「顔に書いてあります」

「便利な顔だな、俺」

「全然嬉しくない意味で便利です」


そこで彼女は、珍しく少し強い口調になった。


「次は、私が止める前に開けないでください」

「分かってる」

「本当に?」

「本当にだ」


たぶん。


その言葉は飲み込んだ。


窪地の底では、まだ青い光がわずかに揺れている。埋まった巣主は生きている。殺し切れていない。


そして、それは向こうも同じように分かっているはずだ。


「……終わってないな」

「ええ」


エマは窪地を見下ろしたまま、小さく頷く。


「でも、今夜の村は守れました」


その一言で、ようやく実感が湧いた。


見上げると、村の方では明かりがまだ生きている。

悲鳴は聞こえない。

燃えてもいない。


守れた。

少なくとも今夜は。


その時、俺の左手首で、新しく結んだ札がかすかに震えた。


青殻巣主 毒嚢圧


文字の端が、じわりと黒ずんでいる。


「……エマ」

「はい」

「これ、見てくれ」


彼女が札をのぞき込み、表情を変えた。


「圧を抜いたはずなのに、札の下に別の反応がある」

「別の?」

「ええ。これは毒でも衝撃でもありません」


彼女は息を呑んだ。


「印です」


母は別だ。毒だけでなく印を追う。


嫌な一文が、また頭をよぎる。


「レイン。巣主があなたを追ったのは、毒の残滓だけじゃない」

「じゃあ何だ」

「たぶん、もっと前。あなたが最初に若い個体から青い筋を抜いた時に、向こう側へ“こちらを認識するための痕跡”まで取り込んでしまったんです」


「そんなの、取れるのか」

「あなたの収納なら、ありえます」


ありえてほしくない。


エマは札の裏へ、素早く新しい文字を書き足した。


青殻印 仮固定


「応急処置です。これで少しは静かになるはず。でも、消えたわけじゃない」

「つまり?」

「元を断つには、巣主そのものを仕留めるか、印の正体を地下で調べるしかない」


俺は窪地の底の青を見下ろした。


埋まった巣主。

まだ脈打つ核。

追跡の印。


そして、頭の奥で重く閉じたままの、厄災保管庫のさらに下。


「……地下だな」

「ええ」


エマも同じ方を見ていた。


「ただし、今度は一層では足りません」

「二層か」

「おそらく」


祖父の台帳には、たしかこう書いてあった。


二層以下はまだ早い。死にたくなければ一層で我慢しろ。


まったく、ろくでもない遺言だ。


でも、やるしかない。


村を守るなら。

この印を剥がすなら。

そして埋めた巣主が、明日の夜にまた這い上がってくる前に終わらせるなら。


「戻ろう」


立ち上がると、足はまだ少し震えた。

けれど頭は、さっきよりずっと冷えている。


「今夜のうちに休めるだけ休む。夜明けたら、地下二層の準備だ」

「休めるだけ、ですか」

「どうせ寝ても夢で倉庫が鳴る」

「でしょうね」


エマは呆れたように言ってから、少しだけ柔らかく続けた。


「その時は、起こしてください」

「なんでだ」

「一人で降りないためです」


それには、素直に頷くしかなかった。


夜の村へ戻る道で、北の山の青い光はだいぶ減っていた。

導杭に引かれた群れも、村の正面で村長たちが押さえ込んだらしい。遠くで人の声がするが、さっきまでのような切迫はない。


けれど、安心はできない。


左手首の札の裏で、仮固定された青殻印が、かすかに脈を打っていた。

まるで、こちらの居場所を忘れまいとするみたいに。


そしてそのたびに、頭の奥のさらに深い場所で、聞いたことのない音がする。


ちゃり、ではない。

もっと低く、もっと古い音。


まるで、二層の向こうで、別の扉まで目を覚まし始めているみたいだった。


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