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備えは夜のうちに終わらせる

夜に襲う側が強いのは、暗いからじゃない。


人は、見えないと数を見誤る。

寒いと動きが鈍る。

眠いと判断を間違える。


だから夜襲で勝つ方法は一つしかない。

相手が来る前に、夜の不利を潰しておくことだ。


「光る向きは北か?」


祖父の家の土間で、俺はエマの手にある小瓶をのぞき込んだ。

昼間、子どもの足から抜いた青黒い毒が、瓶の底でかすかに発光している。その光が、確かに山の方角へ寄っていた。


「はい。さっきより少し強いです」

「近づいてるってことか」

「少なくとも、同系統の魔力が動いています」


村長が低くうめく。


「普通の群れじゃないな」

「たぶん」


俺は瓶を受け取り、無意識に祖父の台帳へ視線を落とした。

前にも思ったが、この台帳は妙だ。必要な時だけ、必要なことが出てくる気がする。


ページをぱらぱらとめくると、案の定、一枚の紙が間から落ちた。


そこには祖父の癖のある字で、ぶっきらぼうにこう書いてあった。


厄災は呼び合う。抜いた毒をむき出しで置くな、阿呆。

作業机の右下、二重底。隔離箱を使え。


「……便利すぎるだろ、この台帳」


エマが肩越しに紙を読む。


「隔離箱?」

「たぶん、毒専用の保管だな」


作業机の引き出しを外し、底板を叩くと、確かに一枚だけ音が違った。爪をかけて持ち上げると、その下から黒漆の小さな箱が出てくる。手のひら二つ分くらいの大きさで、銀色の金具と見慣れない文様が打たれていた。


「開けますよ」


蓋を持ち上げた瞬間、ひやりとした空気が漏れた。

中は黒い布張りで、瓶が一本ぴたりと収まる窪みがある。


そこへ青い毒の瓶を入れ、蓋を閉じる。


すると、さっきまで北へ傾いていた光が、ぴたりと消えた。


村長が目を見開いた。

エマも、珍しく言葉を失っていた。


「……反応が止まりました」

「完全に?」

「少なくとも、この箱の外には漏れていません」


俺は蓋に触れたまま息を吐く。


「なら、こっちが呼んでた分は消せる」

「でも、もう動き始めた群れは止まりませんね」

「だろうな」


村長が杖を握り直す。


「時間はどれくらいある」

「見張りの話じゃ、最短で一刻半。遅くても二刻」


二時間あるかないか、というところだ。

足りない。だがゼロじゃない。


「十分だ」


そう言って俺は立ち上がった。

エマがすぐにこちらを見る。


「何をします?」

「村の中で受けない。外で削る」

「勝算は?」

「備えが間に合えば、ある」


村に戻ると、すぐに人を起こした。


昨夜の避難民も含めれば、今の村には動ける大人が二十人近くいる。武器を持てる者はその半分ほど。決して多くはないが、混乱して各自が勝手に動くよりは、役目を決めておいた方が何倍も強い。


集会所に灯りを入れ、子どもと老人をそちらへ集める。

ニーナたち年長の子どもには、温石を配る役と水運びを任せた。

怪我人の寝所は一番内側。エマはそこを治療場にする。

働ける避難民は二手に分け、一方は柵の補修、もう一方は雪かきと物資運び。


「どうして雪かきなんだ?」


避難民の一人、日に焼けた大柄な男が怪訝そうに言った。

たしか名前はダンだったか。自分の村を失ったばかりで、警戒が抜けていないのだろう。


「足場を見せるためだ」

「は?」

「こっちが通ってほしい道だけを踏み固める。獣は走りやすい場所へ来る。逆に踏み抜く場所はそのまま残す」


男はまだ半信半疑の顔だったが、村長が杖で地面を打った。


「レインの指示に従え。昨夜、あやつがいなければこの村は燃えていた」


それで空気が決まった。

ありがたい。こういう時、声の通る後ろ盾は大事だ。


俺は猟師たちを連れて村外れの用水路へ向かった。

冬の間は半分凍っているが、深さは腰ほどある。昨夜の火災のあとで周辺の雪がまだ固まりきっていない。ここを使わない手はなかった。


道は三つ。

正面の広い道。

右の林道。

左の川沿い。


全部は守れない。

なら、守る場所を減らせばいい。


俺は正面の道に荷車を二台移し、柵と丸太で狭い通路を作った。右の林道には縄鈴を張り、左の川沿いは橋板を外して通れなくする。


「そんなに運んで大丈夫か?」


猟師の一人が、俺が丸太を次々収納と取り出しで動かすのを見て顔を引きつらせる。


「重さより、回数の方がきついな」

「普通はそこまでやる前に人手を呼ぶんだが……」

「人手が足りないから、こうしてる」


言いながら、俺は橋板に手を当てた。

今はまだ置いておく。正面に寄せるための餌だ。群れが乗った瞬間に消せば、半分は落ちる。


その横で、エマが治療用の台を広げていた。

湯気の立つ鍋、布、包帯、小瓶、短剣。手際に迷いがない。


「噛まれた者はすぐここへ。毒の色が青なら私、紫なら先に切って洗う。判断がつかないなら両方呼んでください」

「両方呼ぶなって言われそうだな」

「今日は諦めます」


真顔で言うな。


それでも、その落ち着いた声のおかげか、村人たちの顔色は少しずつ戻っていった。

誰が何をするのか決まるだけで、人はかなり動けるようになる。


準備が一通り終わる頃には、空はすっかり黒かった。

雪を踏む音が遠くまで響く。

息を吐けば白く、手袋の内側まで冷える。


俺は正面の通路脇に立ち、頭の中の棚を確かめた。

食料、道具、薬。

熱。

衝撃。

そして、さっき隔離箱へ閉じた毒。


区画が増えるほど、倉庫の奥は静かに整っていく。

だが、そのさらに下。見ないようにしていた暗い階段の先から、今夜はかすかな気配が上がっていた。


厄災保管庫。


あまり考えたくない名前だ。

今は使わない。そう決める。


「来ます」


見張り台の上から声が飛んだ。


次の瞬間、縄鈴が右側で一斉に鳴る。

続けて、正面の雪原にいくつもの影が浮かんだ。


狼だった。

ただし普通じゃない。


毛の隙間から青い筋が脈打ち、口元から泡ではなく粘ついた青黒い糸を垂らしている。十頭。いや、後ろにさらに五頭。


「止まってくれりゃ数えやすいんだがな」


俺が呟くと、隣の猟師が乾いた笑いを漏らした。

緊張が極限まで行くと、変なところで笑えてくるらしい。


狼たちは迷いなく、雪を踏み固めた正面の道へ殺到した。


よし、乗った。


先頭が橋板に前脚をかけた瞬間、俺は板の端へ手を触れた。


「収納」


橋板が消える。


踏み抜いた狼が悲鳴を上げて用水路へ落ち、後続が次々につまずく。雪と泥が跳ね、群れが縦に詰まった。


「今だ!」


猟師たちの矢が一斉に飛んだ。

狭い場所に押し込められた狼たちは身をかわしきれず、三頭、四頭と倒れる。


だが青い筋の入った個体は痛みに鈍い。

肩を射抜かれても止まらず、残った数頭が飛び越えてきた。


一頭が丸太柵へ噛みつき、もう一頭が猟師に飛びかかる。


俺は踏み込み、掌を前へ突き出した。

牙猪の突進から削り取った衝撃。その小さい塊を、狼の横腹へ叩き返す。


見えない槌で殴られたみたいに、狼の身体が横へ弾けた。

雪の上を転がり、用水路へ落ちる。


「うおっ……」

「まだ来るぞ!」


右の林からも二頭が抜けてきた。

縄鈴はやはり正しかった。気づけるだけで対応が間に合う。


猟師が片方を仕留める。

もう一頭は低く身をかがめて、治療場の方へ走った。


エマがいた方向だ。


「させるか!」


俺は横から飛びつくようにして狼の背へ手を置いた。

毛皮の下で、青い熱のようなものが脈打っている。


これだ。


肉じゃない。

骨じゃない。

こいつを狂わせている異物だけ。


収納。


狼の毛並みを走っていた青い筋が、ふっと消えた。

同時に、狼の動きが一瞬だけ鈍る。


「今!」


エマの短い声とともに、近くにいた避難民の槍が狼の喉を貫いた。


息が上がる。

今のは人間の子どもの時よりずっと乱暴だった。けれど効いた。毒そのものを引けば、動きも鈍る。


「あなた、そんなことまで……」

「後で考える。今は数だ」


第一波はそこで終わった。

雪の上に青黒い血が点々と散る。

だが静けさは戻らない。


森の奥で、枝が何本もまとめて折れる音がしたからだ。


ぴしっ、と何かが張る音。

次いで、頭上の木々の間を青い線が走る。


「上!」


叫ぶより先に、何かが屋根ほどの高さから降ってきた。


馬ほどの大きさ。

青黒い殻。

八本の脚の先が氷を削り、腹の下で青い毒嚢が脈打つ。


蜘蛛だ。


「青殻の巣主……いえ、まだ若い個体です!」


エマが叫ぶ。

若い個体でこれかよ、と心の中で毒づく。


蜘蛛は用水路も柵も意に介さず、木から木へ糸を渡して進んでくる。正面の罠が効かない。しかも厄介なことに、口元の青が小瓶の光と同じ色をしていた。


「糸に触るな! 毒だ!」


エマの声と同時に、蜘蛛が白い糸を吐いた。

矢のように飛んだそれが荷車へ突き刺さり、板をじゅっと音を立てて溶かしていく。


ただの糸じゃない。

毒を含んだ粘液だ。


二発目が治療場へ向いた。


俺は反射的に前へ出る。

両手を広げ、飛んでくる糸へ意識を合わせた。


糸じゃない。

中の毒だけ。


収納。


白い線から青い光だけが抜け、糸がどさりと雪へ落ちた。

溶ける気配はない。

ただの太い蜘蛛糸だ。


「毒を抜いたのか……!」

「レイン、左です!」


声に振り向くと、蜘蛛が横から降りてきていた。

脚の一本が荷車を叩き、板が砕ける。重い。速い。正面から受けたら終わる。


俺は横へ転がり、すれ違いざまに脚へ手を伸ばした。

硬い殻の下で、青い何かが奔流みたいに巡っている。


昼間の子どもよりずっと粗く、冷たく、獣じみた流れ。

だが本質は同じだ。


「お前を硬くしてるのは、それか」


蜘蛛が牙を鳴らし、もう一方の脚を振り下ろす。


時間がない。

欲張るな。

表層だけでいい。


収納。


青い筋が一本、殻の表面から抜けた。

次の瞬間、触れていた脚の色が鈍り、ひびが走る。


「殻が割れた!」


猟師の声とともに矢が飛ぶ。

ひびへ突き立った矢が、今度はちゃんと通った。


蜘蛛が甲高く鳴き、後ろへ跳ぶ。

だがその着地先は、俺がわざと残しておいた橋板の端だった。


「落ちろ」


橋板を収納する。


蜘蛛の後脚が空を切り、巨体が用水路へずり落ちた。完全には沈まないが、姿勢が崩れる。その隙に、エマが何かを投げた。


小さな陶器の壺だ。


壺が蜘蛛の顔の前で割れ、白い粉が広がる。

鼻を突く刺激臭。


「薬か?」

「石灰と乾燥薬草です! 目と呼吸器を焼きます!」


えげつない。

でも今は頼もしい。


蜘蛛が暴れ、糸を乱射する。

その何本かが上空の枝へ張り付いたのを見て、俺は思いついた。


毒を抜いた糸は、ただの強靭な糸になる。

なら。


俺は足元に落ちた無毒化した糸束を掴み、収納していた丸太へ結び直した。もう一端は上の枝に残っている。簡易の滑車みたいなものだ。


「引け!」


避難民の男たちが丸太に取りつき、一斉に引く。

張った糸が蜘蛛の身体を横から締め上げた。


「ぐっ……!」

「もう少し!」


蜘蛛が脚をばたつかせる。

その一本がまた俺へ向く。


今度は逃げない。

俺は前へ出て、真っ正面からその脚に触れた。


青い毒の流れ。

狂わせる芯。

殻を満たす異物。


それだけをまとめて、深い方へ落とす。


頭の奥で、暗い階段の先の扉がかすかに鳴った。

ちゃり、と鎖が震える音。


嫌な感覚だった。

だが、止めない。


収納。


蜘蛛の全身を走っていた青い光が、一気に半分ほど消えた。

殻の艶が鈍り、節々にひびが広がる。


「今です!」


エマの声と、猟師たちの矢が重なった。

目、口、脚の継ぎ目。

柔らかい場所へ矢が突き刺さる。


それでも蜘蛛はまだ死なない。

最後の悪あがきみたいに腹を持ち上げ、青い毒液の塊を吐き出そうとした。


まずい。

あれを村側へ撃たせるわけにはいかない。


俺は右手を突き出した。

左手には、祖父の隔離箱。


吐き出された青い塊へ、箱の口を向ける。


「入れ!」


青い毒が、まるで吸い寄せられるみたいに軌道を変えた。

全部じゃない。だが大半が、黒漆の箱へ飲み込まれる。


残った分は俺の肩口をかすめ、服を焼いた。

熱い。だが浅い。


蜘蛛が一瞬ひるむ。


それで十分だった。


俺は最後に残していた衝撃を、ひびだらけの頭部へ叩き込んだ。


鈍い破裂音。

見えない槌で殴りつけたみたいに、蜘蛛の頭が横へ弾け、巨体が用水路の石壁へ叩きつけられる。


そのまま、動かなくなった。


しばらく誰も声を出せなかった。


白い息。

血の匂い。

砕けた殻。

用水路へ半分落ちたままの巨大な蜘蛛。


やがて、誰かがかすれた声で言う。


「……勝ったのか?」


村長が杖を突き、重くうなずいた。


「勝った」


その一言で、張りつめていたものが一気にほどけた。

へたり込む者、泣き出す子ども、肩で息をする猟師。俺も、その場に膝をつきそうになるのをなんとかこらえる。


エマがすぐに近づき、俺の肩の服を裂いた。

かすめた場所が赤く腫れている。


「毒は浅いです。でも焼けています」

「痛いわけだ」

「動けますか?」

「たぶん」

「たぶんは禁止です」


そう言いながらも、彼女の手は驚くほど丁寧だった。

薬を塗られ、布を巻かれる。ひんやりして、少しだけ息が楽になる。


「助かった」

「今さら礼を言うんですか」

「薬師なので、って返すかと思った」

「その元気があるなら大丈夫ですね」


少しだけ笑ったあと、エマは真顔に戻った。


「でも、終わっていません。中を見ます」


蜘蛛の死骸を調べる、という意味だろう。

俺と村長もついていく。


腹の下側を割ると、強い薬臭と一緒に青い結晶みたいな塊が転がり出た。毒嚢とは別だ。石とも肉ともつかない、不気味な核。


エマが顔をしかめる。


「こんなの、青殻蜘蛛にはありません」

「変異か?」

「もっと悪いです。外から何かを押し込まれた感じがします」


俺が核へ手を伸ばした瞬間、頭の奥の倉庫が震えた。


棚じゃない。

区画でもない。

もっと深い、あの暗い階段の下から。


ちゃり。

ちゃり。


鎖の音が、今度ははっきり鳴る。


同時に、祖父の台帳が勝手に開いた。

風もないのに、ぱらりとページがめくれ、見たことのない一文が浮かび上がる。


青殻の核か。

なら巣主が近い。

一層だけでは足りん。

必ず二人で来い。


「……おい」


思わず漏れた声に、エマが振り向く。


「何がありました?」

「祖父の置き手紙が、また増えた」

「内容は」

「いい話じゃない」


俺がそう答えた、その時だった。


見張り台の上から、引きつった声が飛んできた。


「山が……!」


全員が反射的に振り向く。


北の山肌。

夜の闇の中に、小さな青い光がいくつも灯っていた。


一つや二つじゃない。

十でも足りない。

まるで誰かが山に青い星をばらまいたみたいに、無数の点がゆっくりこちらへ動いている。


そしてそのさらに上。

頂に近い暗がりで、他とは比べ物にならない大きな青が、一度だけ脈打った。


エマが息を呑む。


「……巣主」


村長の顔が強張る。


俺は手の中の核を握りしめた。

頭の奥で、厄災保管庫の扉が重く軋む。


一人で開けるな。

必ず二人で来い。


なら、今度は迷わない。


「エマ」

「はい」

「次は倉庫の地下だ」


彼女は一瞬だけ黙り、それから静かにうなずいた。


「行きましょう」


村へ向かう青い光の群れを見上げながら、俺は確信した。


今までのは前座だ。

本番は、祖父が隠した地下と一緒に来る。


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