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避難民の列と、毒をしまう手

足りない時に一番まずいのは、足りないことそのものじゃない。


何が、どれだけ、いつまでもつのか分からないことだ。


翌朝、まだ空が白み始めたばかりの時間から、俺は村長の家の卓を占領していた。卓の上には帳面が三冊、炭筆が二本、それからエマが持ってきた村の備蓄表が広げられている。


「村人は五十一人。昨夜の怪我人が九人、そのうち重傷が二人」


俺が読み上げると、向かいに座ったエマがすぐ書き込んだ。


「避難民は?」


「見張りの話だと二十から三十。荷馬車付きなら、おそらく家財も抱えてる。人数だけじゃなく場所も食うな」


村長が腕を組む。


「食料はどうだ」


俺は焼け残った穀物と塩漬け肉、それから村人の各家に残る私蔵分までざっくり足してから答えた。


「村人だけなら十一日。避難民が二十五人来たら六日。三十人なら五日ちょっと」


村長の眉間に皺が寄る。


「そんなに厳しいか」


「かなり温存してこの数字だ。しかも怪我人が多いから、普段より温かい食事が必要になる。薪も減る」


エマが静かに言った。


「毛布は十四枚足りません。寝床も、まともなものは足りない」


俺は卓の端に置いた祖父の台帳へ目をやった。


「足りないものは分かった。なら、埋めればいい」


村長が苦笑する。


「簡単に言う」


「簡単じゃないけど、やることは単純だ。使える建物を増やす。運ぶ手間を減らす。必要な物を必要な場所へ先に置く。それだけでだいぶ違う」


エマが炭筆を止めて俺を見る。


「慣れてますね」


「こういうのは、前の仕事で嫌ってほどやった」


勇者パーティにいた三年間で、派手な戦い方は覚えなかったが、混乱の片付け方だけは身に染みている。


誰が何を持っているか。

どこに何を置いたか。

足りないなら、どこから回すか。


そういうことを軽く見る連中ほど、いざという時に動けない。


俺たちは朝のうちに村を一周した。


集会所、使われていない皮なめし小屋、空き家になっていた二軒の家。屋根の無事な場所を順に見て回り、床の抜けた板を打ち直し、埃だらけの長椅子を運び出す。


俺は倉庫から毛布、縄、木箱、折り畳み式の簡易寝台を次々に出した。


「こんなのまで入ってたのか」と村長が呆れた顔をする。


「野営用だ。たまに傭兵がまとめて買いに来るから、安い時に買い込んでた」


「勇者パーティとは思えん買い物だな」


「前衛は誰も喜ばなかったけどな」


答えると、エマが横で「でしょうね」と小さく言った。


その一言が妙に的確で、少し笑ってしまう。


集会所の隅では、ニーナが村の子どもたちを集めて床掃除をしていた。小さな腕で箒を振り回しながら、誰よりも元気に働いている。


「お兄ちゃん、これどこ置くの?」


「その木箱は壁際。通路は真ん中を空けてくれ」


「わかった!」


返事だけは兵士みたいに立派だ。


昼前には、寝かせるだけなら三十人分の場所はなんとか確保できた。だが寒さだけはどうにもならない。焚き火を増やせば薪が減るし、狭い屋内では危ない。


そこで俺は、昨日から考えていたことを試した。


集会所の外で、掌に河原の石を一つ乗せる。拳より少し大きい程度の丸い石だ。そこへ、昨夜しまった火事の熱をほんの少しだけ、慎重に戻していく。


じわりと石が温まった。


熱すぎない。だが冷たくもない。毛布の中に入れれば、しばらくは十分使える温度だ。


「……いけるな」


エマが俺の手元をのぞき込む。


「どれくらいもちます?」


「分からない。でもこの大きさなら、三十分から一時間は保つはずだ」


「はず、ですか」


「こういうのは実測が要るだろ」


「正論ですね」


彼女は真顔でうなずいたあと、その石を受け取って布で包んだ。


「火傷の危険は?」


「今の温度なら大丈夫。ただ、一気に戻しすぎると危ない」


「なら、怪我人用に優先します。熱源を小分けにできるなら、夜間の見回りも楽になる」


さすが薬師だ。発想が早い。


その後、俺は石を二十個ほど温めた。熱の棚、とでもいうべき場所を頭の中で意識してから出し入れすると、昨日よりずっと扱いやすい。


食料は食料。

薬は薬。

熱は熱。

衝撃は衝撃。


エマの言う通り、区画を分けて考えた方がいいらしい。


頭の奥の倉庫が、少しずつ整理されていく感覚があった。


「レイン!」


見張りの若者が坂を駆け下りてきたのは、その時だった。


「来た! 避難民の荷馬車だ! でも、川縁で一台の車輪が割れて止まってる!」


俺と村長は同時に顔を上げた。


「人数は」


「二十七! 子どもが八人! 怪我人もいる!」


「行くぞ」


そう言ってから、俺はすぐに荷台用の板材、予備の車輪、縄、毛布、水樽をまとめて収納した。


村長が息を呑む。


「今から積むのか?」


「いや、積まない。持っていく」


説明している暇はない。


俺と村の猟師三人、それにエマで急いで川縁へ向かった。


村から少し離れた川沿いの道は、昨夜の冷え込みで半分凍っていた。そこに、二台の荷馬車と、それを囲む疲れ切った人影が見える。


子どもを抱いた女、老人を支える若者、顔色の悪い男。誰もが雪と泥にまみれていた。


「フロスト村の者だ!」と村長が声を張る。

「迎えに来た!」


その言葉だけで、何人かがその場にへたり込んだ。


切羽詰まった顔でこちらへ走ってきたのは、二十代半ばくらいの女だった。胸に小さな男の子を抱いている。子どもの唇は紫がかり、息が浅い。


「お願いです、助けてください!」


エマがすぐに前へ出た。


「症状は」


「森を抜ける途中で、蜘蛛に噛まれて……最初は泣いてたのに、今は起きなくて……!」


子どもの足首には布が巻かれていた。エマがそれをほどくと、噛み跡の周囲が青黒く変色している。細い筋が膝の方へ伸びていて、見ただけで嫌な感じがした。


「青殻蜘蛛……」


エマの声が低くなる。


「まずいのか」


「まずいです。神経毒です。大人でも厄介なのに、この年齢だと回りが早い」


「解毒薬は」


「材料の赤月草が焼けました。今ある薬で遅らせることはできても、抜けきりません」


母親の顔から血の気が引く。


「そんな……」


その時、ギャッ、と甲高い鳴き声が林の方から響いた。


猟師の一人が舌打ちする。


「臭いを追ってきたか。雪狐だ」


林の陰から、白い獣が三頭、低く身を沈めてこちらをうかがっていた。痩せているが目つきが鋭い。飢えている。


最悪だ。

荷馬車は動かない。怪我人がいて、子どもが毒に侵されていて、その上で獣まで来た。


だが、混乱する理由にはならない。


やることを順に片付けるだけだ。


「村長、避難民を車から離して円を作ってくれ。猟師は正面。エマ、その子を診ながら俺のそばに」


「分かりました」


返事が早い。助かる。


まず荷物だ。俺は最前列の荷馬車へ駆け寄り、積まれた袋や箱へ次々に触れた。


乾いた衣類、食器、保存食、鍋、毛皮、農具。

持てるものは全部しまう。


荷台がみるみる軽くなる。


周囲がどよめいた。


「な、荷が消えた……!」

「スキル持ちか……!」


説明は後だ。


割れた車輪を外し、収納から予備を出す。軸に当て、縄で仮固定。完璧ではないが、村まで保てばいい。


そこへ雪狐が飛び出してきた。


一頭目は猟師の矢で止まった。だが二頭目と三頭目が左右へ分かれる。


俺は踏み込み、地面へ手を向けた。


昨日牙猪から奪った突進の衝撃。そのほんの一部だけを、狐の手前の雪面へ叩き返す。


空気が鈍く爆ぜた。


雪が跳ね上がり、白い壁みたいに狐の前へ立ちはだかる。驚いた二頭が飛び退いた隙に、猟師たちの矢が追いついた。


「今のは……!」


「驚いてる場合じゃない、動かすぞ!」


我ながら口調が荒い。でも、そうでもしないと全員の足が止まる。


荷馬車がなんとか転がり始めたところで、エマが厳しい顔で言った。


「レイン。この子、村までもたないかもしれません」


母親が、はっとこちらを見る。


俺は一瞬だけ目を閉じた。


やるなら今だ。


昨日読んだ台帳の文が頭に浮かぶ。


物をしまうのではない。状態を含めてしまっている。


そして、もう一つ。朝のうちにめくったページの端に、祖父はこんな走り書きを残していた。


生き物から抜く時は、欲張るな。肉と毒を見分けろ。見誤れば、相手を壊す。


背筋に冷たいものが走る。


失敗したら、この子を傷つける。

でも、何もしなければ間に合わない。


「エマ」


「はい」


「空き瓶、あるか」


彼女は俺の意図を察したのか、一瞬だけ目を見開いた。だが、すぐに腰の袋から小瓶を一本取り出す。


「あります。ですが」


「分かってる。保証はない」


母親が震える声で言った。


「お願い……お願いです……!」


その声に、迷いは消えた。


俺は子どもの足首にそっと触れた。小さすぎる。熱が高い。脈が速い。身体そのものが必死に毒と戦っているのが、触れただけで伝わってくる。


ここで熱まで奪えばまずい。

血まで触れば危ない。

欲しいのは、混ざったその中の、異物だけ。


青黒いもの。

刺すようなぬめり。

冷たいくせに、身体の奥へ這い込むもの。


それだけを思い描く。


しまえ。


ぞわり、と頭の奥が揺れた。


普段の収納より、ずっと生々しい感覚だった。何かを箱に入れるというより、他人の身体から棘を一本ずつ引き抜くみたいな、いやな集中が必要になる。


子どもが苦しそうに息を詰めた。

母親が悲鳴を飲み込む。


俺は歯を食いしばる。


違う。

それは肉じゃない。

血でもない。

お前が入る場所はそこじゃない。


小瓶を左手に持ち、行き場を作る。

そこへ押し込める。


次の瞬間、子どもの足首を走っていた青黒い筋が、すうっと薄くなった。


同時に、小瓶の底へ、黒青色の粘ついた液がじわりと現れる。


「……入った」


エマが息を呑んだ。


「まだだ」


噛み跡の周囲に残る分を、さらに慎重に引く。


一気にやるな。

欲張るな。


祖父の文字が、今さらみたいに頭の中で響く。


三度目の収納で、青黒い変色がようやく止まった。子どもの息が、さっきより少し深くなる。


エマがすぐに瞼をめくり、脈を確かめ、薬湯をほんの少し口に含ませた。


「……峠は越えました」


母親が崩れ落ちるように泣いた。


「ありがとう……ありがとう……!」


俺はその場で膝をつきそうになったが、まだ終わっていない。毒を抜いた反動なのか、頭の奥が嫌に重い。しかも妙な感覚が残っていた。


さっき瓶へ移したはずの毒の一部が、瓶に収まらず、もっと深いどこかへ沈んでいったような感覚だ。


嫌な感じだった。

棚ではない。

引き出しでもない。

もっと下。暗くて、重い場所。


「レイン?」


エマの声で我に返る。


「……ああ。平気だ。今は運ぶのが先だ」


俺たちは避難民を連れて村へ戻った。


道中、俺は荷物の大半を収納したまま歩き、子どもと老人を優先して荷馬車へ乗せた。集会所へ着くと、ニーナたちが用意していた寝床へ次々に人を案内する。


温めた石を布に包んで渡すと、避難民たちは驚いた顔をした。


「火がないのに温かい……」

「すごい……」


いや、すごいのは昨夜の火事だ。あれを無駄にせず済んだだけだ。


それでも、震えていた子どもが石を抱いて眠りに落ちたのを見た時は、少しだけ肩の力が抜けた。


夕方までかかってようやく全員の配置が終わる。


避難民は二十七人。

うち子ども八人、老人四人。

怪我人五人。

働ける大人は十二人。


食料はますます厳しくなったが、働ける人数が増えたのは救いだ。明日から雪下の芋を掘り、川の氷下漁も再開できる。俺の倉庫にある保存食を足せば、数日は伸ばせる。


集会所の外へ出ると、空はもう群青色だった。


エマが小瓶を持ってやってくる。中には、さっき抜き取った青黒い毒がわずかに残っている。


「普通の青殻蜘蛛の毒より、色が濃いです」


「変異種か?」


「かもしれません。あるいは、別の魔力を食って変質したか」


彼女はそこで言葉を切り、俺の顔を見た。


「さっき、全部を瓶に移せましたか?」


俺は少し黙った。


「……いや。たぶん、一部は別のところへ落ちた」


「やはり」


エマの表情が曇る。


「やはり、ってなんだ」


「推測ですが。あなたの収納には、単なる保管場所とは別に、危険物が沈む層があるんじゃないですか」


地下。


昨夜、かすかに震えたあの感覚が脳裏をよぎる。


「祖父の地下倉庫、か」


「可能性は高いです。普通の道具や食料は棚に置ける。でも、毒や熱や衝撃みたいな、形のない危険なものは、もっと深いところへ分けていたのかもしれません」


「ありがたくない話だな」


「とても」


エマはため息をついた。


「でも、今日のあなたは間違いなく一人助けました。それは事実です」


その言い方が、少しだけ優しかった。


俺は苦笑する。


「褒めてるのか?」


「半分だけです。残り半分は、次に同じことをする前に必ず私を呼べ、という意味です」


「厳しいな」


「薬師なので」


その返しも、もう二度目だ。


集会所からは、鍋の匂いと人の話し声が漏れてくる。昨日まで見知らぬ他人だったはずの連中が、今は同じ屋根の下で温かい汁を分け合っていた。


悪くない光景だと思った。


だがその夜、祖父の家に戻って一人になった時、俺はその感想を撤回しかけた。


寝台に腰を下ろし、意識を内側へ沈める。


整理したはずの倉庫が見える。

食料の棚。

薬の棚。

道具の棚。

熱の区画。

衝撃の区画。


そのさらに奥。


昨日まではただ暗いだけだった場所に、今夜ははっきりと変化があった。


床の一部が、沈んでいる。


いや、違う。


階段だ。


暗闇へ続く、石造りの下り階段。その先に、鉄で縁取られた分厚い扉が見えた。見えた、というより、ようやくそこにあると認識できた。


扉には文字が刻まれている。


厄災保管庫 一層


ぞくり、と鳥肌が立つ。


冗談みたいな名前だった。

だが祖父なら、本当にそのまま付けそうでもある。


しかも、扉の向こうから、かすかに音がした。


ちゃり、と。


鎖が擦れるような、小さな音。


俺は息を止めた。


その瞬間、昼間に抜き取った毒の気配が、扉の向こうへ落ちていくのが分かった。自分の意思ではない。勝手に引かれて、沈んでいく。


扉の隙間から、青黒い光が一瞬だけ漏れる。


まずい。


本能でそう分かった。


慌てて意識を引き戻した瞬間、現実の俺の手元に、ぱさりと紙が落ちた。


台帳だ。


いつの間にか開いていたページの端に、祖父の走り書きがあった。前に読んだ時にはなかったはずの一文だ。


厄災庫が見えたなら、もう後戻りはできん。だが扉は一人で開けるな。絶対にだ。


「……おいおい」


誰に言うでもなく呟く。


開けるな、ではない。

一人で開けるな、だ。


つまり、いつかは開ける前提らしい。


頭痛がしてきた。


追放されて辺境へ来たと思ったら、村の復旧、避難民の受け入れ、毒抜き、そして今度は厄災保管庫だ。


俺の【収納】、想像していたよりずっと面倒くさい。


そう思った次の瞬間、家の外で激しく戸が叩かれた。


「レイン! 起きてるか!」


村長の声だった。


ただ事じゃない。


俺は反射的に立ち上がり、扉を開ける。


外には村長とエマがいた。二人とも顔色が悪い。


「どうした」


村長が息を整える間もなく言う。


「見張りから報せだ。山の方で、昨夜とは別の群れが動いてる」


エマが続けた。


「しかも、その先頭にいるのは、普通の魔物じゃありません」


彼女の手には、昼間の小瓶が握られていた。


中の毒が、わずかに青く発光している。


「この毒に反応しています。たぶん、同じ系統の魔力を持つ個体です」


嫌な予感が、確信に変わる。


ただの避難民騒ぎじゃない。

もっと大きな厄介事が、こっちへ向かっている。


そして俺は、その厄介事をしまっておくための扉を、さっき見つけてしまったばかりだった。


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