帰る場所を自分で選ぶ
帰る場所っていうのは、最初からそこにあるものじゃない。
戻ってもいいと自分で決めて、ようやく帰る場所になる。
北山を下りる頃には、空がもう藍色に沈みかけていた。
崩落の音は途中で完全に止んだ。振り返っても、もう坑道の灯りはひとつも見えない。ただ雪をかぶった山肌が、いつも通りの冷たい顔で黙っているだけだった。
北山第四搬送坑は閉じた。
その事実だけが、遅れて身体の奥へ落ちてくる。
「歩けるか」
先頭を歩いていたシグルドが、振り返らずに言った。
「なんとか」
「なんとか、ね」
ぶっきらぼうな返事だったが、歩調は少しだけこっちに合わせて遅くなる。
その横ではフェリスが腕を組み、袖を失った肩をしかめながらも文句は言わなかった。ミリアは疲れ切った顔で、それでも縛られたリゼットの後ろを離れない。エマは帳面と路札の束を抱えたまま、時々こちらの顔色を見ていた。
俺の収納には、北山から持ち出した証拠がいくつも入っている。
現行権限簿。
閉鎖手順。
継承個体処置手順。
路札。
差異記録。
それから、隔離箱に収めた権限核片。
重い。
物理的な重さじゃない。
意味の重さだ。
俺ひとりが追放されて終わる話じゃなかった。
辺境のひとつの村だけで済む話でもなかった。
ローウェン伯爵家。
旧兵站局の路。
封止庫七。
その全部が、ここから先へまだつながっている。
「見えてきた!」
前を歩いていたミリアが、小さく声を上げた。
雪原の向こう、フロスト村の灯りが揺れている。
集会所の窓。家々の小さな明かり。見慣れたはずのそれが、今日は妙に胸へ沁みた。
村の見張りがこちらに気づいたのだろう。ほどなくして柵の向こうがざわめき始め、人影が次々に出てくる。
一番最初に飛び出してきたのは、やっぱりニーナだった。
「お兄ちゃ――」
叫びかけて、彼女は俺たちの後ろの縛られたリゼットと灰外套たちを見て、目を丸くする。
「……すごい人数」
「そこなのか」
思わず言うと、ニーナははっとして、今度こそ俺へ飛びついてきた。
「帰ってきた!」
「ああ」
「ほんとに帰ってきた!」
「約束しただろ」
その小さな頭を撫でると、ようやく、自分がちゃんと戻ってきたのだと実感が湧いた。
後ろから村長が杖をつきながら歩み寄ってくる。
その目はまず俺を見て、次にエマを見て、それからシグルドたちと捕縛された連中を順番に見た。
「終わったか」
短い問いだった。
「北山第四搬送坑は閉鎖した」
俺は答える。
「少なくとも、あそこからはもう何も届かない」
村長が深く、深く息を吐く。
それだけで、昨夜から村全体がどれだけ張りつめていたか分かった。
「そうか」
それだけ言って、老人は小さく頷いた。
「……なら、まずは飯だ。話はそのあとでいい」
その判断がありがたかった。
捕らえた灰外套たちは、使われていない皮なめし小屋へ移された。リゼットは村長の家の裏の物置へ、シグルドとダンが交代で見張りを立てることになった。勇者パーティが一緒にいるのを見て、避難民たちは一瞬ほっとした顔をしたが、そのすぐあとで彼らが縛られた連中を連れていると知って、また別の意味でざわめいた。
無理もない。
勇者が、辺境の村で、伯爵家の契約監督官を捕らえて戻ってくるなんて、誰が想像する。
集会所では、温かい汁が大鍋で煮えていた。
避難民も村人も入り混じって、少し狭いくらいの空間に人の気配が戻っている。
昨日まで焼け跡と泣き声ばかりだった場所に、今は湯気と話し声がある。
それだけで、十分すぎるほどだった。
「レインさん、手を」
席に着くより先にエマに呼ばれ、俺は渋々左手を差し出した。
彼女は手首の札の跡を見て、薄く眉を寄せる。
「やっぱり少し焼けていますね」
「路指定を移した反動だろ」
「でしょうね。しかも無茶な移し方でした」
「助かっただろ」
「助かりました。だから治療します」
そう言って、彼女は手早く薬を塗り込んでいく。
痛みはあるが、嫌な痛みじゃない。
その様子を見ていたフェリスが、少しだけ気まずそうに口を開いた。
「……ねえ、それ、あんたのせいじゃないわよね」
「何がだ」
「袖」
彼女は自分の失った外套の片袖を思い出したらしく、顔をしかめる。
「さっきの青糸、もう残ってないんでしょ」
「残ってない。エマが見ただろ」
「そう。ならいい」
言い方は相変わらずだ。
でも、前ならこんな確認すらしなかっただろう。
ミリアは椀を抱えたまま、俺の正面へ座った。
それから何か言いかけて、何度も躊躇し、最後には真っ直ぐ頭を下げた。
「レインさん」
「ん」
「改めて、ごめんなさい」
集会所のざわめきの中で、その声だけが妙にはっきり聞こえた。
「北山で一緒に戦ってくれたから、それで全部なくなるとは思ってません。でも、ちゃんと言いたかったんです。あの時、止めなかったことも、見てなかったことも」
俺は少しだけ考えた。
それから、湯気の立つ椀を見ながら答える。
「なくならないよ」
ミリアの肩が、わずかに固まる。
「でも、今ちゃんと言ったのは大事だと思う」
顔を上げた彼女が、少しだけ泣きそうに笑った。
その横でフェリスが深くため息をつく。
「私も似たようなもん」
彼女は匙を弄びながら、目を逸らしたまま言う。
「誰でもできるって思ってた。あんたの仕事も、あんたのスキルも。……できなかったけど」
「それは知ってる」
「うっさいわね」
即座に睨まれたが、その睨み方に前ほどの棘はない。
「でも」
フェリスは言葉を選ぶみたいに少し黙る。
「戻る気があるなら、今度はちゃんと回すわよ。雑用扱いもしない」
そこへ、遅れてシグルドが腰を下ろした。
椀の中身を半分ほど一気に飲み、それから短く言う。
「戻れ」
あまりにも真っ直ぐだった。
「隊に、か」
「ああ」
シグルドは余計な飾りをつけない。
「今なら分かる。お前がいなかったら、隊は回らん。前みたいな扱いはしない。補給も撤退も在庫も、全部お前に任せる。対等にだ」
集会所の空気が、少しだけ静まった。
避難民も村人も、会話の意味までは分からなくても、ただならない話をしていることだけは察したのだろう。
俺はすぐには答えなかった。
汁の湯気が、静かに顔へ当たる。
王都へ戻る。
勇者パーティに復帰する。
少し前の俺なら、喉から手が出るほど欲しかったかもしれない話だ。
見返したい気持ちがなかったとは言わない。
認めさせたい気持ちだって、あった。
でも、今は。
「戻らない」
はっきり言うと、シグルドは一度だけ目を閉じた。
覚悟していた顔だった。
「……まだ怒ってるか」
「怒ってるよ」
素直に答える。
「でも、それだけじゃない」
俺は集会所の中を見回した。
怪我人の寝台。
避難民の毛布。
子どもたちの温石。
焼け残った食料。
今夜の鍋。
それから、村の外れにある祖父の倉庫と、その地下の封止庫七。
「今の俺が守る場所は、こっちだ」
そう言うと、自分でも驚くくらい言葉がすとんと落ちた。
「お前らには前に進む役目がある。俺には、届かせて、止める役目がある。封止庫七も、この村も、俺が見ないと駄目だ」
シグルドは何も言わない。
だが否定もしない。
フェリスが少しだけ肩をすくめる。
「だと思った」
「分かってたなら言うなよ」
「けじめよ、けじめ」
ミリアは寂しそうに、それでも頷いた。
「分かりました」
シグルドは最後に、短く息を吐く。
「じゃあ次は、戻れとは言わん」
「おう」
「必要になったら、依頼する」
「それなら受けるかもしれない」
そこでようやく、シグルドの口元がほんの少しだけ緩んだ。
「前より高くつきそうだな」
「在庫管理は有料だ」
そのやり取りで、集会所の空気が少しだけ和らぐ。
誰かが小さく笑い、それが周りへ伝わった。
その後、証拠の帳面と路札、リゼットたちの扱いについて話し合いが行われた。
最寄りの砦まで連れていく役目は、勇者パーティが引き受けることになった。伯爵家の名が絡む以上、ただの村人に背負わせるには重すぎる。シグルドたちが動く方が、話は通りやすい。
「村の名はなるべく伏せる」とシグルドは言った。
「証拠はこっちで預かる。ただし、必要になったら封止庫七の証言も要る」
「分かってる」
「その時は呼ぶ」
「帳面持って来いよ」
「お前は本当にそれだな」
そう言って、シグルドは小さく笑った。
話が一段落すると、村長がゆっくり立ち上がった。
集会所の中が自然と静まる。
「みんな聞け」
老人の声は、大きくはない。
だが、この村では誰よりよく通る。
「北山は閉じた。今夜から、少なくともあの山から魔物も毒も届かん。これは、レインとエマ、それに助力してくれた勇者殿たちのおかげだ」
ざわめきが広がる。
拍手の代わりに、椀や匙が軽く鳴る音がした。
辺境らしい、不器用な祝い方だった。
村長はそれを待ってから、続けた。
「それと、もうひとつ。ガルドの孫、レイン・クラウスを、わしはこの村の封止庫七代行として迎えたい」
今度は、ざわめきが別の意味に変わった。
「ふうじこ……?」
「だいこう……?」
「なんかすごそうだけど長いね」とニーナ。
思わず、俺も苦笑する。
「いや、待て。そんな大げさなのは」
「大げさではない」と村長。
「お前が今日止めたのは、ただの魔物ではない。村の外の災厄だ。なら名も役もいる」
すると、集会所の奥で、最初に俺を恩人と呼んだおばあさんがけらけら笑った。
「長いよ。村じゃ倉庫番でいいじゃないか」
「お、いいね」
「そうだそうだ、倉庫番だ」
一気に賛同が広がる。
避難民の男まで笑って頷いた。
「助かったのは本当だしな」
「うちの村にこんな倉庫番いなかったぞ」
「火も毒もしまう倉庫番かい。豪勢だねえ」
「やめろ、なんか変な方向へ盛るな」
俺が抗議しても、もう遅い。
ニーナが立ち上がり、満面の笑みで宣言する。
「じゃあ、お兄ちゃんは村の倉庫番!」
集会所が笑いに包まれる。
村長まで苦笑しながら杖を鳴らした。
「帳面の上では封止庫七代行。村では倉庫番じゃ」
「両方ですね」とエマが横で真顔で言う。
「便利です」
「便利で片づけるな」
だが、その言い方が妙にしっくり来て、俺はそれ以上強く否定できなかった。
封止庫七代行。
村の倉庫番。
派手な称号じゃない。
むしろ地味だ。
でも、その地味さを恥ずかしいとは、もう思わなかった。
食事が終わり、人が少しずつ散っていく頃には、外は完全な夜になっていた。
雪明かりの中、勇者パーティは明朝には村を出る準備を始めている。リゼットと灰外套を連れて、砦へ向かうためだ。
「明日の朝、発つ」とシグルドが言った。
「証拠は全部持っていく。こっちで抱え込める話じゃない」
「分かってる」
「お前は?」
「村に残る。封止庫七の整理もあるし、避難民の受け入れもまだ終わってない」
シグルドは短く頷いた。
それでも、去り際に一度だけ立ち止まる。
「レイン」
「ん」
「今度は、ちゃんと見る」
その一言に、返せたのはほんの短い言葉だけだった。
「おう」
それで十分だった。
フェリスは最後まで気まずそうにしながらも、去り際に小さな布袋をよこした。
「魔力回復剤。残ってた分」
「珍しいな」
「借りを作るの嫌なのよ」
「素直じゃない」
「知ってるでしょ」
ミリアは深く頭を下げた。
「また会う時は、今度こそちゃんと話します」
「その時は、逃げるなよ」
「はい」
三人が去っていく背を見送りながら、俺はようやくひと息ついた。
完全に元通りになったわけじゃない。
たぶんそんな日は来ない。
でも、切れたままでもない。
そのくらいの距離が、今はちょうどよかった。
集会所の灯りが落ち、村が静かになっていく。
俺は祖父の家へ戻る途中、胸元の真鍮の鈴へ触れた。
まだニーナに返していない。
明日返そう。
そう思ったところで、後ろから足音がした。
「帰るんですか」
エマだった。
帳面の束を抱え直しながら、こちらへ並ぶ。
「帰るっていうか……家までだな」
「そういう意味じゃありません」
少しだけ笑って、彼女は雪道の先、祖父の家の方を見る。
「ここに残るって、自分で言いましたね」
「ああ」
「ちゃんと選びましたね」
その言い方に、妙な熱が胸へ残る。
「まあな」
「よかったです」
「何が」
「一人でどこかへ行くって言い出さなくて」
俺は少し考えてから答えた。
「行く時は、お前にも帳面を持たせるよ」
「当然です」
即答だった。
その迷いのなさに、少しだけ笑ってしまう。
祖父の家の前に着くと、焼け残った穀物庫の鍵を、村長が戸口へ引っかけていったのが見えた。古びた鉄の鍵だ。煤で黒くなっているのに、ちゃんと磨かれている。
「……いつの間に」
「村長さんですね」
「だろうな」
鍵を手に取る。
冷たい。重い。
でも嫌じゃない。
追放された荷物持ちだった。
役立たずと呼ばれた。
外れスキルだと笑われた。
それでも今、俺の手の中には、帰る場所の鍵がある。
最初から与えられていたわけじゃない。
誰かに許されたからでもない。
ここに残ると、自分で決めたからだ。
戸を開ける前、遠くの集会所の方から、子どもたちの笑い声が小さく聞こえた。
その中に、確かにニーナの声が混ざっている。
「うちの倉庫番、すごいんだから!」
思わず吹き出した。
大層な肩書きより、その呼び方の方がずっといい。
俺は鍵を差し込み、祖父の家の戸を開ける。
追放されたと思っていた。
けれど違う。
俺はようやく、自分で帰る場所を選んだのだ。




