仮路を逆走する板と、届く前の点検札
急ぐ荷ほど、近道を使うな。
本当に早いのは、最短の道じゃない。
途中で止まらず、受け取りを間違えず、ちゃんと届く道だ。
だから危ない荷を追う時は、足の速さより先に、どの札でどの道へ乗るかを決めた方がいい。
「北山へ行く」
地下から戻るなり、俺は祖父の家の土間でそう言った。
村長もダンも、もう止める顔はしていなかった。
代わりに、どこまでを自分たちが引き受けるか考える顔をしている。
「日暮れまで、だな」
村長が重く言う。
「ああ。三層で棚卸し中にして、搬送路は止めた。でも暮れればまた動く」
「戻れなかった場合は」
「北は捨ててでも集会所を守ってくれ。採石場には近づくな。青いのも紫のも、勝手に拾うな」
ダンが眉を寄せる。
「お前ひとりで行く気か」
「ふたりだ」
そう言って横を見ると、エマはもう銀墨の瓶と札束を袋に詰め直していた。
返事をする前から行く顔だ。
「止めても来るだろ」
「ええ」
「なら、聞くだけ無駄ですね」と村長がため息をつく。
そこへ、裏の薪小屋から古びた長板を抱えたニーナが現れた。
俺の胸くらいまでの長さがあり、幅は大人ひとりがなんとか座れる程度。裏に鉄輪が二つ打たれ、先端には古い鈎が付いている。
「これ、村長さんが出してって!」
村長が顎で板を示す。
「ガルドの小屋にあった。昔、山へ何か運ぶ時に使っておった板だ。お前に必要な顔をしておる」
「……必要そうだな」
受け取ってひっくり返すと、裏に祖父の字で一文だけ刻まれていた。
人が荷になるな。板を荷にして、その上にしがみつけ。
「本当に性格が悪い」
「でも役に立ちます」とエマが即答する。
彼女は土間にしゃがみ込み、その板の表へ札を三枚並べた。
銀墨の筆先が、迷いなく走る。
封止庫七 現地点検板一式
北山第四搬送坑 返送照合中
記録手同行 開封権限外
「最後の一枚、嫌な言い方だな」
「権限者として認識されると、道ごとあなたに繋がります」
「もう半分繋がってる気もするが」
「半分と全部では、ひどさが違います」
もっともだった。
ダンが板を見下ろして唸る。
「そんなもんで本当に山まで行けるのか」
「行けるかじゃない。行かないと向こうが来る」
「身も蓋もねえな」
「本当のことだ」
言いながら、俺は必要なものを片端から収納した。
縄。
釘。
板材。
導杭の残り。
隔離箱。
温石を十。
保存食と水。
それから、昨夜までに溜めた熱と衝撃。
北山へ行くなら、持っていけるものは全部持っていく。
兵站の基本は、行ってから足りないと気づかないことだ。
出る直前、ニーナが俺の袖を掴んだ。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「帰ってくるって言ったよね」
「言った」
「じゃあ、これ」
彼女が差し出したのは、小さな真鍮の鈴だった。
色はくすんでいるが、紐の結び方が見覚えある。祖父の家の棚で、昔、荷札の束の横に置いてあったやつだ。
「道で寝るな、っておじいちゃんが言ってた時に鳴らしてた」
思わず笑った。
「あの人、そんなことまでしてたのか」
「してた」
鈴を受け取って懐へ入れる。
「借りるぞ」
「返してね」
「ああ」
土間を出る時、村長が背中へ声を投げた。
「帳面を先に見ろ。ガルドは、そう言っておった」
「見たよ」
「なら、次は現地だな」
「ああ」
祖父の地下三層へ戻ると、石机の黄色い線はまだ止まったままだった。
北山へ伸びる未完成の搬送路が、地図の上で細く脈打っている。
三層の奥の抽斗を開けると、祖父はそこまで見越していたらしい。
点検具一式、と書かれた札の下に、古い銀具と黒い路墨、それから細い紙片が一枚入っていた。
受領を聞かれても返事するな。
返事は荷になる。
「……嫌な注意書きだな」
「つまり、道中で何かが“受け取るか”と聞いてきても無視しろ、ということです」
「自動照合か」
「でしょうね」
俺たちは板の鉄輪へ縄を通し、腰を軽く固定した。
立ったままでは吹き飛ぶし、がっちり縛ればいざという時に動けない。
そのあたりの加減が、妙に現実的で嫌になる。
エマは最後に、俺と自分の共鳴輪へ小さな札を巻いた。
収納手 点検同行
記録手 点検同行
「それも必要か」
「保険です。あなたが勝手に道へ荷認識されるのを少しでも遅らせます」
「便利だな」
「ええ。今のところは」
三層の石机の端に、板をぴたりと合わせる。
北山へ向かう黄色い線へ、先端の鈎を触れさせた。
「行きます」
「おう」
エマが板の札を読み上げる。
「封止庫七、現地点検板一式。北山第四搬送坑、返送照合中。記録手同行、開封権限外」
石机の線が、一段だけ強く光った。
次の瞬間、板が前へ引かれた。
思ったより静かだった。
どん、と押し出されるのではなく、床の下から見えない流れが板を掬い上げ、そのまま滑らせるように進ませる。
石机の縁が開き、細い路が現れる。
壁も天井も石だが、その内側に金線が走り、荷の通る溝だけが淡く光っていた。
俺たちは板ごと、その細い光の川へ乗った。
速い。
風はないのに景色だけが後ろへ飛ぶ。
石の梁、古びた棚、崩れた札差し、封じられた横穴。
時々、脇の路から青白い何かの影がこちらを見ていたが、手を出してはこない。
「右の分岐、見えますか!」
エマの声が後ろから飛ぶ。
「見えてる!」
前方で、金の線が二つに割れていた。
片方はそのまま北山へ。もう片方は暗く、嫌な紫を含んでいる。
その分岐に差しかかった瞬間だった。
薄い声が、石の中から滲むみたいに響いた。
「封止庫七。継承反応個体。回収便照合」
反射的に返事しそうになって、すぐ口を閉じる。
祖父の紙片が頭をよぎった。
返事は荷になる。
板の鼻先が、紫の分岐へ引かれた。
やばい。向こうは俺の反応を拾っている。
「エマ!」
「分かってます!」
彼女は揺れる板の上で片膝を立て、赤札へ一気に書いた。
横引き照合 保留
点検板優先
「読みます!」
「横引き照合、保留。点検板優先!」
札が光る。
だが引きは消えない。向こうも回収便だ。優先順位で殴り合っている。
「レイン、横に引かれてる力、取れますか!」
「やる!」
分岐側へ引き込む、斜めの勢い。
それだけを狙う。
「収納!」
横へ持っていかれそうだった板が、すっと元の線へ戻る。
取り出したわけじゃない。向こうからこっちを奪う力だけを、途中で抜いた。
「通った!」
「まだ油断しないでください!」
板は本線へ戻り、そのままさらに加速した。
暗い搬送路の中を進みながら、俺は左右の横穴を見た。
崩れた荷車。
錆びた鉄箱。
乾いて殻だけになった青殻の小型。
過去の“荷”が、片づけられないまま取り残されている。
補給路というより、墓場だ。
「……便利だったんだろうな、最初は」
「でしょうね」
「でも、便利は大体こうなる」
「管理しきれなくなると、ですね」
その会話の直後、前方が途切れた。
「は?」
路が、切れていた。
石の搬送路が途中で崩れ、向こう側まで三間ほど空いている。金線だけが宙に細く残り、その下は真っ暗な縦穴だった。
「欠路……!」
エマが息を呑む。
「止まれないか?」
「止まると落ちます!」
確かに、板はすでに速度に乗っている。
ここで止まれば、慣性で前へ投げ出されるか、そのまま下へ吸われる。
板の裏の鉄鈎が目に入る。
祖父が付けたあれだ。
「エマ! 鈎!」
「分かりました!」
彼女が身を乗り出し、先端の鉄鈎を宙の金線へ引っかける。
ぎゃり、と耳障りな音。
板が大きく跳ねる。
「くっ……!」
足場は不安定。縄が腰に食い込む。
だが、まだ落ちていない。
「レイン! 足りない!」
「ああ!」
必要なのは前への勢いだ。
幸い、俺の中にはまだいくつか小さな衝撃が残っている。
牙猪ほどじゃない。
でも、この板ひとつを押し出すには十分だ。
「行け!」
収納していた突進の勢いを、板の後ろへ返す。
どん、と鈍い音とともに、板が前へ跳んだ。
切れた搬送路の上を、板ごと飛び越える。
一瞬だけ、本当に宙を飛んだ。
次の瞬間、向こう側の金線へ板の鈎が噛みつき、盛大に着地する。
衝撃で歯が鳴ったが、落ちなかった。
「……っ、通った」
「善処どころじゃありませんね、今のは」
「褒めてるのか?」
「半分だけです!」
息を整える間もなく、板はまた進み始める。
だが、その先はもう長くなかった。
路の石が少しずつ新しくなる。
古びた金線に、現代の魔導灯が混ざり始める。
鼻をつく匂いも変わった。
湿った石と薬草と、獣油と、わずかな焼鉄の匂い。
「人が使ってる」
俺がそう言うと、エマも短く頷いた。
「ええ。しかも最近まで」
やがて板が減速し、細い保守用の棚へ滑り込むように止まった。
正面には格子。錆びてはいるが、向こう側は明るい。
俺は慎重に格子へ近づき、隙間から下を覗いた。
北山第四搬送坑。
そこは、巣なんかじゃなかった。
山をくり抜いた巨大な縦坑の底に、円形の作業場がいくつも重なっている。
古い石の搬送路に、新しい鉄の足場が増築され、ところどころへ魔導灯が吊られていた。木箱、鉄箱、檻、薬液槽。人が歩き、書類を持ち、何かを運び、指示を飛ばしている。
壁際には、青殻の抜け殻が山のように積まれていた。
その横で、黒い運び手に似た六脚の個体が、何匹も鎖につながれている。
さらに中央。
紫黒い液の入った巨大な槽の中に、俺たちが紙片で見た名前のものが浮かんでいた。
青殻母核改。
人の背丈より大きい、脈打つ核だ。
濁った紫の中に、青い筋が何本も封じられている。
あれ一つで、村ひとつどころか、もっと広く撒ける。
「……ろくでもない」
その言葉が漏れた時だった。
作業場の上段を、人影が三つ横切った。
灰色の外套に、胸元の三つ箱の紋。
そのうち一人の女が、黒い箱型の搬送具の前で立ち止まる。
箱の側面には白い札が貼られていた。
回収便第四式
封止庫七 権限回収
女の声が、坑道全体によく通った。
「日暮れ前に再照合が来る。封止庫七が棚卸しを始めたなら、権限者は動いたと見ていい」
その声に、覚えがあった。
勇者パーティの補給契約を更新した時、何度も帳票を持ってきた女だ。
ローウェン伯爵家の契約監督官。
名前までは知らないが、あの冷たい声は忘れない。
別の男が問う。
「継承反応個体は本当に来ますか」
「来るわ。ガルドの封止庫が三層まで開いた以上、あの血筋は帳面を見に来る。倉庫番はそういう生き物よ」
倉庫番はそういう生き物。
腹の底が、ひやりと冷えた。
女はそこで、母核改の槽を一瞥して続けた。
「見つけたら左手は傷つけないで。収納が使えなくなる。記録手が同伴なら、そちらも生かして回収」
エマが横で、小さく息を呑む。
女はさらに、作業台の木箱へ札を貼った。
箱の側面に見えた文字で、俺は歯を食いしばる。
勇者隊随伴補給 第三便
伯爵家は、この坑道を勇者隊向けの補給便に偽装して使っている。
つまり、表向きの兵站の裏で、こいつらは青殻を運んでいる。
俺がずっと見ていた帳簿の向こうで、こんなものが動いていた。
その時、女が不意に顔を上げた。
まっすぐこちらを見たわけじゃない。
でも、上段の保守棚の暗がりへ、確かに視線を滑らせた。
「……っ」
反射的に身を引く。
だが遅かったかもしれない。
女が、薄く笑った気がした。
「保守棚の照合が揺れたわね」と、彼女は下にいる男へ言う。
「上を見て。封止庫七からの点検板が届いているかもしれない」
エマが俺の袖を掴む。
「見つかりました」
「ああ」
「どうします」
「決まってる」
下ではもう、灰外套の男たちが上段の梯子へ向かって走り始めていた。
回収便第四式の蓋が、ゆっくり開く。
中は空だ。
俺たちを入れるための箱みたいに、ぽっかりと。
俺は隔離箱と札束を確かめ、北山坑の構造をもう一度目に焼きつけた。
母核改の槽。
回収便第四式。
勇者隊補給に偽装した木箱。
そして、俺たちが今いる保守棚から下へ伸びる、細い補助路。
「先に取るのは帳面だ」
「ええ」
「その次に、搬送路を止める」
「賛成です」
下から駆け上がってくる靴音が、もう近い。
俺はエマを見た。
「走れるか」
「もちろんです」
「じゃあ、北山の帳面を奪う」
「その後は」
「全部、届かないようにする」
そう言って、俺たちは保守棚の奥へ走り出した。




