最終章 世界が少しだけ、優しくなる
春が来ていた。
あの三日間が、
嘘だったみたいに。
駅前の桜並木。
花びらが、
何気ない日常の上を
静かに流れていく。
「……ねえ、ユウ」
隣を歩くミオが、
小さく声をかける。
「なに?」
「私たち、
本当に……
ここにいるんだね」
彼女は、
自分の手を見つめていた。
確かめるように。
「いるよ」
そう言って、
そっと手を握る。
温かい。
はっきりと。
それだけで、
十分だった。
世界は、
大きくは変わっていない。
電車は遅れるし、
雨は突然降る。
理不尽も、
悲しみも、
ちゃんと残っている。
でも。
「神谷ユウ」
名前を呼ばれるたびに、
胸の奥で
何かが灯る。
それは、
“存在していい”
という許可みたいだった。
ミオも同じだ。
彼女の名前は、
もう消えない。
学校の名簿にも、
病院の記録にも、
友人の記憶にも。
少し前までは
なかったはずの場所に、
当たり前のように
彼女はいる。
時々、
夢を見る。
白い世界。
名前のない人たちが、
遠くで立っている。
彼らは、
もう戻れない。
でも。
「……忘れないよ」
夢の中で、
そう呟く。
名前を呼ぶ。
届かなくても、
それでも。
それが、
自分にできる
唯一の弔いだから。
ある午後。
公園のベンチ。
ミオが、
少しだけ真面目な顔で
言った。
「ねえ、ユウ」
「うん?」
「もしさ……
また世界が、
私を消そうとしたら」
少しだけ、
間があく。
「その時も、
名前……呼んでくれる?」
答えは、
最初から決まっていた。
「何度でも」
即答だった。
「世界中が
忘れても」
彼女は、
小さく笑う。
「……ありがとう」
その笑顔が、
世界のどんな理屈よりも
正しかった。
夕暮れ。
二人で歩く帰り道。
街灯が、
一つずつ灯る。
闇を、
完全には消さない。
でも。
足元だけは、
ちゃんと照らす。
「ねえ、ユウ」
「なに?」
「私、
この世界が好き」
「うん」
「完璧じゃないけど」
「うん」
「……呼んでくれる人が
いるから」
立ち止まる。
彼女を見る。
「朝霧ミオ」
名前を、
呼ぶ。
「はい」
その一言で、
世界は今日も
壊れなかった。
忘却は、
きっとこれからも
続いていく。
誰かは、
また消える。
それでも。
名前を呼ぶ限り、
人は、存在できる。
それが、
僕たちが選んだ
生き方だ。
手を繋いで、
前を向く。
世界は、
ほんの少しだけ――
優しくなっていた。
完




