第六章 世界が僕を忘れ始める
最初に異変に気づいたのは、
朝だった。
目覚ましが鳴らない。
いや、正確には――
鳴っていないことを、
誰も設定していなかった。
スマホを手に取る。
ロック画面は、
初期設定のまま。
連絡先は、
空白。
履歴も、
メッセージも、
すべて消えている。
「……あれ」
喉が、
妙に乾く。
名前を、
確認しようとして。
――思い出せない。
「……ユ……」
音にならない。
胸の奥が、
ひどくざわついた。
外に出る。
通学路。
見慣れたはずの道。
なのに、
人の視線が、
僕を避けて通る。
「……あの」
声をかけても、
誰も反応しない。
まるで、
そこにいないかのように。
コンビニに入る。
「……」
店員は、
僕の前を素通りする。
後から来た客には、
普通に対応している。
レジの前に立っても、
存在を認識されない。
「……僕は、
ここにいる」
声が、
震えた。
誰にも、
届かない。
学校。
教室に入ると、
席が一つ、
消えていた。
僕の席だった。
机も、
椅子もない。
「……」
立ち尽くす。
担任が、
黒板の前で言う。
「えー、
今日は転校生が――」
言葉が、
止まる。
「……いや、
何でもない」
首を振って、
授業を続ける。
最初から、
数に入っていない。
それが、
何より怖かった。
屋上。
鷹宮が、
一人で立っていた。
「……鷹宮さん」
彼女は、
こちらを見て――
目を見開いた。
「……ユウ?」
その一言に、
崩れそうになる。
「……まだ、
見えてますか」
「ええ……でも」
彼女の視線が、
揺れる。
「輪郭が、
薄い」
苦笑する。
「……ですよね」
「……段階二よ」
鷹宮は、
静かに言った。
「世界が、
あなたを“誤差”として
処理し始めてる」
「名前は?」
「……思い出せません」
一瞬、
唇を噛む。
「最悪ね」
その夜。
部屋の鏡に、
自分が映らない。
正確には、
遅れて映る。
ワンテンポ遅れた、
ぼやけた影。
「……僕は、
誰だ」
問いかけても、
答えは返らない。
ただ、
胸の奥に、
温かいものがある。
――ミオ。
名前を、
呼ぼうとすると。
強烈な痛み。
頭が、
割れそうになる。
「……ダメ、
なんだな」
彼女は、
もう守れない。
だから。
「……自分を、
呼べ」
震える声で、
そう言った。
「……ユ……」
言えない。
翌日。
街から、
“僕の痕跡”が
完全に消えた。
住民票。
学生記録。
医療データ。
すべて、
存在しない。
「……完全消失まで、
残り三日」
鷹宮が、
冷静に告げる。
「三日……」
「それまでに」
彼女は、
僕を見つめる。
「“核”を起動させる」
「核……
ミオが残した」
「そう」
鷹宮は言った。
「彼女は、
自分の存在を
あなたに“委譲”した」
「あなたが
自分の名前を呼べた時」
「それは、
彼女を“もう一度
この世界に定義する”
ことになる」
胸が、
強く脈打つ。
「……でも」
「呼べなかったら?」
鷹宮は、
少しだけ、
目を伏せた。
「あなたが、
完全に消える」
「世界は、
何事もなかったように
続く」
静かだった。
怖いほど。
夜。
誰もいない部屋。
名前を、
探す。
写真も、
文字も、
残っていない。
けれど。
机の引き出しの奥に、
一枚のメモがあった。
『忘れるな』
字は、
僕のものだった。
「……ありがとう」
誰に向けてか、
分からない言葉。
そして、
確信した。
彼女は、
消えていない。
僕が、
自分を呼べる限り。
そして、
彼女の名前を
思い出した瞬間。
この世界は、
再定義される。
――残り、三日。




