第五章 逃げる者、追う世界
夜の街は、
いつもより静かだった。
それは錯覚じゃない。
人の記憶が薄れている場所ほど、音が減る。
「……ここ、危険ね」
鷹宮が、足を止めた。
「忘却が進んでる」
街灯の光が、
ところどころ欠けている。
信号はあるのに、
車が通らない。
人影もない。
「ここは……」
胸が、嫌な予感で締め付けられる。
「“記憶空白地帯”」
鷹宮は言った。
「管理局が
意図的に放置している場所」
「消えかけた存在が、
最後に集まる」
――墓場だ。
「ミオが……
ここに?」
「可能性は高い」
喉が、乾いた。
境界が、
薄くなっている。
現実と、
存在保留領域が
溶け合っている。
歩くたび、
地面がわずかに揺れる。
「ユウ」
鷹宮が、
真剣な声で言った。
「覚えておきなさい」
「あなたの力は、
万能じゃない」
「呼名干渉は、
“代償”を伴う」
「代償……?」
答えの代わりに、
胸の奥が、
鋭く痛んだ。
視界が、一瞬暗転する。
「……っ」
膝をつく。
「今のが、
第一段階」
鷹宮の声が、
遠い。
「他者を強く記憶するほど、
あなた自身の“存在値”は
削られる」
「つまり……」
「あなたは、
“覚えることで、
忘れられていく”」
世界が、
音を立てて崩れた。
「……それでも」
息を整えながら、
立ち上がる。
「それでも、
止めない」
「彼女が、
一人で消えるより、
ずっといい」
鷹宮は、
何も言わなかった。
その沈黙が、
答えだった。
突然、
空気が凍る。
影が、
路地の奥から溢れ出す。
――忘却体。
以前見たものより、
数が多い。
形も、
人に近い。
「進化してる……」
鷹宮が呟く。
「管理局が
“餌”を与えたわね」
「餌?」
「消えかけの人間」
背筋が、
冷えた。
忘却体たちが、
一斉にこちらを見る。
その視線は、
空腹だった。
「ユウ、
名前を呼ぶ準備を」
「……分かってる」
でも。
胸が、
痛い。
頭が、
霞む。
「無理はするな!」
鷹宮の声。
「呼びすぎたら、
あなたが先に消える!」
忘却体が、
走り出す。
「朝霧ミオ!」
叫ぶ。
空間が、
震える。
境界が、
一気に開く。
忘却体の一部が、
弾き飛ばされる。
でも。
「……っ!」
視界の端が、
欠けた。
“自分の名前”が、
思い出せない。
「……ユ……?」
喉が、
凍る。
鷹宮が、
僕の肩を掴む。
「ユウ!」
その声で、
辛うじて戻る。
「……危ない」
彼女の顔が、
初めて歪んでいた。
その時。
境界の向こうに、
“彼女”が見えた。
「……ミオ」
朝霧ミオが、
こちらを見ていた。
でも。
彼女の身体は、
ほとんど透けている。
「来ちゃったんだね」
か細い声。
「……会いたかった」
一歩、
踏み出そうとする。
「ダメ!」
鷹宮が、
叫ぶ。
「今触れたら、
どっちかが消える!」
ミオが、
悲しそうに微笑んだ。
「ユウ……」
「私ね」
一拍、置いて。
「もう、
長くない」
胸が、
裂けそうになる。
「私を呼ぶたび、
ユウが薄くなってる」
「……気づいてたよ」
「でも」
声が、震える。
「それでも、
呼んでくれたんでしょ?」
答えられなかった。
ミオは、
そっと首を振る。
「ねえ」
「お願いがあるの」
嫌な予感が、
全身を支配する。
「次、
呼ぶ名前を」
彼女は言った。
「……私じゃなくて」
一瞬、
世界が止まった。
「――自分の名前にして」
「生きて」
「忘れないで」
涙が、
止まらなかった。
「嫌だ……」
「約束、
したでしょ」
彼女は、
あの日と同じ笑顔で言った。
「名前を呼び続けるって」
「だから――
今度は、
自分を呼んで」
忘却体が、
再び迫る。
境界が、
崩れ始める。
鷹宮が、
歯を食いしばる。
「……時間切れよ」
ミオが、
最後に囁いた。
「ユウ」
「ありがとう」
その瞬間。
彼女の姿が、
光に溶けた。
「――ミオ!!」
叫んでも、
もう届かない。
境界は、
閉じた。
街に、
音が戻る。
忘却体も、
消え去った。
静寂。
その場に、
崩れ落ちる。
胸が、
空っぽだった。
鷹宮が、
静かに言う。
「……完全消失じゃない」
「彼女は、
あなたの中に
“核”を残した」
「核……?」
「名前」
顔を上げる。
「あなたが
自分を呼び続ける限り」
「彼女は、
完全には死なない」
それは、
希望なのか。
それとも、
呪いなのか。
分からなかった。
ただ一つ、
確かなことがある。
僕はもう、
元の世界には戻れない。
そして――
ここからが、
本当の地獄だ。




