第二章 記憶管理局の影
その夜、
僕はほとんど眠れなかった。
目を閉じるたび、
朝霧ミオの声が聞こえる。
「ユウ、ちゃんといるね」
それが夢なのか、
記憶なのか、
もう区別がつかなかった。
――忘れるな。
――呼び続けろ。
胸の奥で、
何かがそう囁いていた。
翌朝。
教室は、
昨日と何一つ変わらない。
誰も、
誰一人として、
朝霧ミオの不在を気にしていなかった。
「……おはよう」
小さく挨拶をしても、
返事は返ってこない。
それが“正常”だ。
異常なのは、
彼女を覚えている僕の方。
そう思った瞬間、
教室の扉が開いた。
担任ではない。
生徒でもない。
黒いスーツの男女が二人、
無言で教室に入ってきた。
空気が、変わった。
ざわめきが止まり、
誰もが理由もなく背筋を伸ばす。
「神谷ユウ」
男が、
僕の名前を呼んだ。
一音も、
一文字も、
間違えずに。
胸が、強く脈打った。
「……はい」
立ち上がると、
男は頷いた。
「少し、話を聞かせてもらう」
担任が何か言いかけたが、
女が静かに一枚のカードを見せる。
《記憶管理局》
その文字を見た瞬間、
頭の奥が冷えた。
――来た。
廊下は、
異様なほど静かだった。
黒スーツの二人は、
一定の距離を保ったまま歩く。
逃げ道はない。
逃げても、意味がない。
「昨日の放課後」
不意に、女が言った。
「あなたは誰と会う約束をしていましたか」
「……朝霧ミオ」
即答だった。
男が、
ほんの一瞬だけ、目を細める。
「やはり」
その一言で、
全てを悟った。
彼らは、
最初から知っていた。
応接室のような部屋に通され、
ドアが閉まる。
女が、
タブレットを操作する。
画面には、
人名リストが並んでいた。
「これは“消失対象候補”の一覧です」
淡々とした声。
「完全忘却に至る前、
一定数の“異常記憶保持者”が観測される場合、
私たちは介入します」
「……異常、記憶保持者?」
「あなたのことです」
女は、
こちらをまっすぐ見た。
「本来、
朝霧ミオという人物は
昨日の17時32分をもって
世界から完全に忘却されました」
喉が、詰まる。
「でも、
あなたは今も彼女を認識している」
男が続ける。
「通常、
それは起こりえない」
「……じゃあ、
ミオはどこにいるんですか」
その質問に、
二人は沈黙した。
そして。
「“存在保留状態”です」
女が、そう答えた。
「完全消失でも、
生存でもない」
「世界のどこにも属さない、
中間領域」
頭が、追いつかない。
「助けられる……んですか」
その言葉に、
男はゆっくりと首を振った。
「原則として、
忘却は不可逆です」
心臓が、
音を立てて沈んだ。
「ただし」
女が、
静かに続ける。
「例外は存在します」
その一言に、
視線が集まる。
「“個人記憶固定型”」
タブレットに、
新しい文字が浮かぶ。
「特定の人物が、
強固に一人の存在を記憶し続けることで、
忘却の進行を阻害する現象」
――僕。
「あなたは、
生まれつき“忘れられやすい”」
女は言った。
「ですが同時に、
他者を“忘れにくい”」
「……そんなの、
初めて聞きました」
「当然です」
男が言う。
「それは、
あなた自身も知らされていない
“異常性”だから」
机の上に、
一枚の紙が置かれた。
《協力要請書》
「選択してください」
女の声は、
感情を含まない。
「我々に協力し、
朝霧ミオの記憶を
段階的に手放す」
「あるいは」
一拍、置いて。
「記憶を保持し続け、
あなた自身が
“消失対象”になる」
息が、止まる。
「……それでも」
声が、震えた。
「それでも、
僕は、覚えていたい」
男が、
静かに言った。
「彼女は、
あなたより先に消える」
「分かってます」
即答だった。
「それでも」
拳を、強く握る。
「誰かが覚えてないと、
本当に、最初から
いなかったことになる」
「……彼女は、
生きてた」
声が、
確かに震えていた。
「笑って、
名前を呼んで、
僕を、ここに繋ぎ止めてくれた」
顔を上げる。
「それを、
なかったことには、できない」
長い沈黙。
やがて、
女が小さく息を吐いた。
「……記録します」
「神谷ユウ」
彼女は言った。
「あなたを
“記憶固定観測対象”
レベルSに指定します」
男が続ける。
「これより、
あなたの行動は
常時監視対象となる」
「干渉も、
制限も、
排除もあり得る」
それでも。
「……構いません」
そう答えた瞬間、
胸の奥が、
不思議と静かになった。
恐怖よりも、
後悔よりも。
呼び続けると、
決めたからだ。
その夜。
帰り道の途中、
世界が一瞬だけ、
歪んだ。
街灯が、
ノイズのように揺れる。
そして。
「……ユウ」
背後から、
確かに聞こえた。
振り向く。
誰も、いない。
でも。
「……ミオ?」
空気が、
わずかに温度を持った。
――まだ、完全じゃない。
彼女は、
まだ、
この世界のどこかにいる。
そして僕は知ることになる。
“存在保留領域”へ入る方法が、
一つだけ存在することを。
それは、
《記憶管理局》が
絶対に公表しない
禁忌だった。




