第一章 名前を呼んでくれる人がいる限り
朝は、嫌いじゃなかった。
一日の始まりというより、
「まだ消えていないか」を確認できる時間だからだ。
教室のドアを開ける。
ざわめき。
笑い声。
椅子を引く音。
誰も、僕を見ない。
それが、いつもの朝だった。
僕――神谷ユウは、
教室の一番後ろ、窓際の席に座る。
誰かと席が隣になることは、ほとんどない。
自然と空白ができる。
理由は分からないが、
人は無意識に、忘れやすい存在から距離を取る。
それでも、点呼だけは平等だ。
「神谷……ユウ?」
担任が名簿を確認しながら、
少し首を傾げる。
「……はい」
返事をすると、
「ああ、いたか」という顔をされる。
それで終わりだ。
昨日も会っている。
話した記憶も、きっとあるはずなのに。
それでも、
僕は“確認される存在”でしかない。
――そのはずだった。
「ユウ、おはよう」
声がした。
柔らかくて、
少しだけ朝の眠気を含んだ声。
胸が、きゅっと鳴った。
振り向くと、
朝霧ミオが立っていた。
「今日も一番後ろなんだね」
そう言って、
彼女は何でもないことのように笑う。
「……おはよう」
それだけ答えるのに、
少しだけ勇気が必要だった。
ミオは、特別なことは言わない。
僕を持ち上げることも、
同情することもない。
ただ、
“当たり前に僕の名前を呼ぶ”。
それが、どれほど異常なことか、
この教室で分かっているのは、
たぶん僕だけだ。
「ユウ、今日の小テストやばくない?」
「……勉強してない」
「だよね。私も」
そんな、どうでもいい会話。
でもその一言一言が、
僕の存在を、
今日一日、世界に固定してくれる。
昼休み。
僕はいつも一人で弁当を食べる。
誰かと一緒に食べても、
次の日には忘れられるからだ。
期待しない。
それが、長年身につけた生き方だった。
「ユウ、隣いい?」
ミオは、当然のように座る。
「……どうぞ」
周囲の視線が、一瞬だけ集まる。
そして、すぐに逸れる。
誰も何も言わない。
でも、
“違和感”だけが残る。
――なぜ、彼女は彼と話しているんだ?
そんな空気。
ミオは気づいていないのか、
気づいていて無視しているのか。
「ねえユウ」
箸を止めて、彼女は言った。
「もしさ」
その声が、少しだけ真剣になる。
「もし、ある日私がいなくなったら……
ユウは、どうする?」
胸が、嫌な音を立てた。
「……どういう意味?」
「なんとなく」
彼女は笑う。
でも、その笑顔は、
どこか遠くを見るようだった。
「最近さ、
私のこと、覚えてない人が増えてる気がして」
その言葉で、
世界が一瞬、凍った。
「……それは、気のせいだよ」
そう言いながら、
僕の指先は震えていた。
知っている。
その感覚を、僕はずっと抱えてきた。
「そっか」
ミオはそれ以上、何も言わなかった。
けれど、
彼女が自分の名前を呼ばれる回数を、
無意識に数えていることに、
僕は気づいてしまった。
放課後。
夕焼けが校舎を染める時間。
「ユウ、ちょっと話せる?」
ミオが言った。
「うん」
それが、
彼女の“最後の約束”になるなんて、
思いもしなかった。
靴箱の前で別れ、
「屋上で待ってるね」と言われた。
――でも。
屋上に、
ミオはいなかった。
風が吹き抜けるだけの、
静かな空間。
「……朝霧?」
返事はない。
スマホを見る。
連絡先に、
彼女の名前がない。
胸が、強く締め付けられる。
教室に戻る。
ミオの席は、空いている。
カバンはある。
机もある。
なのに、
“彼女がいた痕跡”だけが、欠けている。
「ねえ、朝霧って――」
声をかけると、
クラスメイトは不思議そうに言った。
「誰?」
その瞬間、
世界の音が遠ざかった。
分かってしまった。
これは、
“よくあること”じゃない。
これは、
忘却の始まりだ。
でも。
「……違う」
僕は、確かに覚えている。
名前も、声も、
今日の会話も。
「朝霧ミオは、いた」
そう呟いた瞬間、
胸の奥で、何かが確かに動いた。
それは恐怖じゃない。
絶望でもない。
――決意だった。
世界が否定しても。
記録が消えても。
「僕が覚えてる」
それだけで、
彼女はまだ、
完全には消えていない。
そして僕は、
まだ知らなかった。
この瞬間から、
《記憶管理局》が
僕を“異常個体”として
監視し始めたことを。




