プロローグ 世界が終わる前に、最後に消えるもの
人が消える瞬間を、僕は何度も見てきた。
それは突然でも、派手でもない。
街が崩れるわけでも、空が裂けるわけでもない。
ただ――
誰も、その人の名前を口にしなくなる。
最初は小さな違和感だ。
「あれ、最近あの人見ないね」
その言葉すら、すぐに忘れられる。
次に、記録が消える。
スマートフォンの連絡先。
集合写真の一角。
日記の中の一行。
理由は誰にも分からない。
いや、分からないのではない。
分からなくなる。
人の脳は、
「存在しないもの」を疑うようには作られていないからだ。
――そして最後に消えるのが、名前。
名前とは、
その人が「この世界にいた証」だ。
名前が呼ばれる限り、
人は誰かの記憶の中で、生き続けられる。
だからこの世界では、
忘れられることが死を意味する。
けれど、その死は誰にも悼まれない。
葬式も、涙も、後悔もない。
最初から、いなかったことになるからだ。
僕は、生まれつきその運命を背負っていた。
医師はそれを
《忘却耐性欠如症候群》と呼んだ。
簡単に言えば、
人よりも異常な速さで忘れられる体質。
友達はできない。
先生も、近所の人も、すぐに僕を見失う。
「君、転校生だっけ?」
何度も言われた。
昨日も話した相手が、
今日は僕を知らない顔で通り過ぎる。
僕はそれに慣れてしまった。
期待しないことで、心を守る術を覚えた。
それでも――
本当は、怖かった。
もし、
誰も僕の名前を呼ばなくなったら。
もし、
世界が僕を完全に忘れたら。
その時、僕は
「消えたこと」にすら気づいてもらえない。
だから、あの日のことは、
奇跡だった。
「……ユウ?」
自分の名前を呼ばれた気がして、
僕は振り向いた。
夕暮れの校舎。
逆光の中で、少女が立っていた。
「神谷ユウ、だよね」
間違いない。
はっきりと、迷いなく。
彼女は、
僕の名前を覚えていた。
胸の奥が、
ぎゅっと締め付けられた。
「忘れられてない……」
それだけで、
世界が少しだけ、色を取り戻した気がした。
彼女は朝霧ミオ。
明るくて、少し不器用で、
誰にでも優しい女の子だった。
ミオは毎日、僕の名前を呼んだ。
それは挨拶で、
それは確認で、
それは祈りだったのかもしれない。
「ユウ、今日もちゃんといるね」
その一言が、
どれほど僕を救っていたか、
彼女はきっと知らない。
でも、世界は残酷だ。
“覚えられやすい者”と
“忘れられやすい者”がいるのなら、
その逆もある。
――あまりにも、覚えられなさすぎる存在。
朝霧ミオは、
その境界線の向こう側に、立っていた。
それに気づいた時には、
もう遅かった。
名前が呼ばれなくなる瞬間は、
いつも静かにやってくる。
前触れも、警告もない。
そして――
彼女は、世界から消えた。
それでも。
僕だけは、覚えていた。
声も、仕草も、
僕の名前を呼ぶ、その響きを。
世界が忘れても、
記録が消えても、
理屈が否定しても。
「朝霧ミオは、ここにいた」
その確信だけが、
僕をこの世界に繋ぎ止めていた。
もし、名前を呼ぶことで
存在が繋ぎ止められるのなら。
もし、記憶が
この世界のルールを壊せるのなら。
――僕は、呼び続ける。
たとえ世界が敵になっても。
たとえ僕自身が、
消えてしまうとしても。
彼女の名前を。




