匿名の星屑
匿名の星屑
1. 序章:匿名の影
アカリは、薄暗い自室でキーボードを叩いていた。画面に映るのは、彼女が心血を注ぐWeb小説サイトの執筆画面。タイトルは『パラダイム・シフト』。AIに管理された近未来で、人間の感情が「最適化」されていく物語だ。フォロワーはじわじわと増え、コメント欄には熱心な読者の声が並ぶ。けれど、爆発的なヒットには至らず、アカリの胸には常に焦燥感がまとわりついていた。
そんな中、決まって現れるアカウントがあった。名前は「無言の批評家」。最新話を投稿するたび、決まって低評価をつけ、辛辣なコメントを残していくのだ。「甘い」「都合がいい」「才能の限界か、慢心か」。最初は怒り、次に悲しみに暮れた。けれど、そのコメントの的確さに、アカリは無意識のうちに作品を見直してしまう自分がいた。しかし、その正体不明の「意地悪さ」には、どうしても反発を覚えていた。
2. 新人作家発掘・育成担当の初期動機
大手出版社の新人作家発掘・育成担当、ハルトは今日も深夜のWeb小説サイトを巡回していた。紙媒体の売り上げが低迷し、新たな才能をWebから見つけ出すのが彼の密かなミッションだった。膨大な数の作品の中から、ハルトはアカリの『パラダイム・シフト』に目を留めた。荒削りだが、その世界観と心理描写には間違いなく「原石」としての輝きがあった。当初は、自分の出版社のため、将来のヒット作をものにしたいという、ビジネス上の合理的な動機で、彼女の動向を追い始めた。
だが、アカリの作品を深く読み込むうち、彼女の批判を受け止めて改善しようとする向上心に気づく。彼女にはまだ甘さや、プロとしては見過ごせない「綻び」がある。その「綻び」を匿名で指摘することで、ハルトの心に、ある強い衝動が芽生え始めた。ビジネス上の打算を超えた、ある種の義務感に近い衝動だった。彼の「意地悪」なコメントは、この時点ではまだ試行錯誤の段階だった。コメントを投稿した後、彼は時間をおいて自ら消去する。これは、自身の匿名性を守り、アカリに「誰が見ているか」という過度なプレッシャーを与えないためであり、またアカリに直接的な「やらせ」の認識を持たせないためでもあった。
3. 感情の爆発と担当の変化
ある日の深夜。アカリは渾身の力を込めて書いた、特に思い入れの深いエピソードを投稿した。AIによる管理が極限に達し、感情を失っていく人類の姿を描いた、彼女にとっての渾身作だった。しかし、そこに、例の「無言の批評家」から、これまでで最も容赦なく、核心を突く「低評価」とコメントがついた。
「今回の主人公の行動原理、甘すぎますね。これでは物語の骨子が揺らぐ。単なる都合の良い展開に堕ちた。才能の限界か、慢心か。」
その瞬間、アカリの頭の中で何かがプツンと切れる音がした。これまで抑え込んできた怒りと、自分を理解してくれない匿名への絶望が、ごちゃ混ぜになって噴き出した。
「甘い? 都合が良い? あなたに何が分かるっていうの!?」
キーボードを叩く指が、怒りに任せて踊り出す。思考するより早く、言葉が溢れ出た。
「あなたが誰だか知らないけど、そんな匿名の場所から人の作品を上から目線で評価するなんて、一体何様!? 私がどれだけ悩み、どれだけ時間をかけてこの一文を紡いだか、あなたに想像できますか!? 自分の手で何も生み出せないくせに、人の作品を貶すことだけは得意なのね! これが才能の限界? ふざけないで! あなたみたいな陰口しか叩けない人間には、絶対に到達できない場所に私は行く! だから、二度と私の作品にコメントしないで! 目障りよ!!」
送信ボタンを押す指が、震えでブレた。けれど、一度放たれた言葉はもう取り消せない。激しい心臓の鼓動と、熱くなった顔。胸の奥から湧き上がるのは、怒りか、それとも後悔か。コメントは、翌朝には消えていた。まるで、最初から何もなかったかのように。
ハルトは、アカリからの激しい反論に、思わず息を呑んだ。彼女がここまで感情を露わにするとは。確かに辛辣な言葉だったが、ここまで突き刺さるとは。自分のやり方が彼女を深く傷つけていることを知り、一瞬、戸惑いがよぎる。しかし同時に、その剥き出しの感情の中に、クリエイターとしての強い意志と、諦めない「本物」の輝きを見た。この出来事をきっかけに、**ハルトは単なる「評価者」から、アカリの人間的な側面にも深く関心を寄せるようになり、彼の「育成」へのアプローチが少しずつ変化していく。**コメントのニュアンスに、微かながらも「成長への期待」や「わずかな肯定」が混じり始めた。
4. 別のコンテストへの挑戦と「真価」の証明
アカリは、怒りを爆発させた後も、結局執筆をやめることはできなかった。そして、彼女は一つの決断をする。ハルトが所属する大手出版社とはまったく関係のない、とある電子書籍大賞に作品を応募するのだ。これは、匿名からの評価に翻弄される自分自身への決別であり、自身の純粋な実力を試したいという、アカリ自身の自立心の表れでもあった。
最終選考の通知が届いた日。アカリは最後の追い込みをかけていた。そんな彼女の元に、またしても例の「無言の批評家」からコメントが届く。それは、これまでのどんなコメントよりも核心を突き、アカリがずっと目を背けてきた「物語の最も深い弱点」を指摘するものだった。絶望と同時に、それが真実であると認めざるを得ないアカリ。彼女は、その厳しい指摘から逃げず、自身の作品を根本から見直し、最後の力を振り絞って修正に取り掛かる。それは、もはや「意地悪なアンチ」への反発ではなく、自身の作品を最高のものにしたいという、クリエイターとしての純粋な欲求からだった。
5. 一発逆転と、残された真実
ある日、アカリの元に、応募した電子書籍大賞の運営事務局から一通のメールが届いた。震える指で開いたメールのタイトルは「大賞受賞のご案内」。まさかの、そして信じられない出来事だった。
授賞式の日。華やかな会場で、アカリは眩しいほどのスポットライトを浴びた。壇上で、自分の作品が「大賞」を受賞したことを告げられた瞬間、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。やらせでも忖度でもない、純粋な**「実力」が認められた瞬間**だった。
その拍手の中、アカリの視線は会場の隅に立つ一人の男性に吸い寄せられた。その顔に見覚えはない。だが、その男性は、ただ一人、アカリの瞳から目を逸らさず、深く頷いた。その口元には、微かな笑みが浮かんでいた。まるで、**「あなたは、やった」**と語りかけるかのように。その表情は、彼女がこれまで見てきた、どんな「無言の批評家」のコメントよりも雄弁だった。
授賞式後、まだ興奮冷めやらぬアカリの元へ、その男性が歩み寄ってきた。 「受賞、おめでとうございます。アカリさん、ですよね?」 彼は、大手出版社の名刺を差し出した。ハルト。その名前を見た瞬間、アカリの脳裏に、これまで何度も現れては消えた「無言の批評家」のコメントがフラッシュバックした。
「あなたが、どこへ行っても輝ける才能を持っていると、ずっと信じていました」
ハルトの口から出るその言葉、そしてその独特の言い回し。アカリはハッとした。それは、まるで「無言の批評家」が書き残したコメントの、**核心を突くような文体そのものだった。**これまで彼女を苛み、しかし同時に成長させてきた、あの匿名の言葉たちと、目の前の男性の声が、鮮やかに重なり合った。
アカリの目から、今度は怒りではなく、熱い涙が溢れ落ちた。これまでの「意地悪」が、一体何だったのか。その男性の眼差しの中に、言葉を超えた真意を悟った時、彼女の胸にこみ上げたのは、深い感謝と、そして自分を信じ抜いてくれた者への報われた感情だった。
ハルトは、アカリの目に浮かんだ理解の色を見て取ると、静かに会釈し、そのまま会場を後にした。彼の使命は果たされた。アカリの作品がその後、電子書籍化、Webtoonコミカライズ、アニメ化と、大きな成功を収めたことは、誰もが知る事実となった。だが、「無言の批評家」のアカウントが二度と現れることはなかったこと、そして、その陰でアカリという才能を信じ続けた者がいたことを知る者は、ごくわずかだった。