5話
淡い光に照らされたカウンターの奥。
シズクは静かに、いつものようにグラスを拭いていた。
向かいでは、黒いエプロンを身につけた少女が、落ち着かない様子で店内を見回している。
緊張が肩に宿り、その指先にはわずかな震えがあった。
「さて……今日からは、接客にも入ってもらいますよ」
「えっ、もうですか!?」
思わず声を上げた少女に、シズクは穏やかな笑みを返した。
「はい。いつまでも“見て覚える”だけでは、進歩しませんからね。実戦形式でいきましょう」
「じ、実戦て……」
こわばった顔を見つめながら、シズクは棚の奥からボトルを取り出し、さらりと続ける。
「困ったときは、目で合図を。それで察せるくらいのフォローはできます。ただ……」
一呼吸置き、何気ない口調で告げた。
「今日、私は少し中座する予定です」
「えぇっ!? そんな日に限ってですか……!?」
「薬草の受け取りと配達を兼ねて。たいした時間はかかりませんよ」
あっけらかんとした口ぶりに、少女はひとつ深く息を吸い、気を取り直す。
「……はい。がんばります」
その言葉にかぶせるように――カラン。
扉の鈴が控えめに鳴り、夜の《Janus》が静かに幕を開けた。
入ってきたのは、常連の吟遊詩人・シル。
くたびれたマントに、背のリュート。軽口と酒をこよなく愛する、店の古株だ。
「よう、マスター。……っと、今日は見慣れない子がいるな?」
「えぇ、新人です。あまりからかわないようお願いしますよ」
シズクが目線で促すと、少女が一歩前へ出た。
「ご挨拶を」
少女は胸に手を当て、少しだけ震える声で言った。
「はじめまして。リゼと申します。……えっと、まだまだ不慣れですが、よろしくお願いします」
名前を告げたその瞬間から、少女は“リゼ”となった。
その表情には、真剣さと少しの覚悟が滲んでいた。
「おぉ、なんとも清楚なお出迎え。よろしい、では乾杯の練習相手になってやろうじゃないか」
からかい気味に笑うシルに、シズクがさっと水のグラスを差し出す。
「はい、“いつもの”です。水で乾杯してください」
「……ちぇっ」
やがて、他の常連たちが続々と現れ、店内にはグラスの音と笑い声が少しずつ満ちていく。
リゼは懸命に客の顔と注文を覚え、メモを片手にカウンター内を動き回る。
その頃合いを見計らって、シズクが言った。
「じゃあ、行ってきます。……くれぐれも無理はしないように」
「……いってらっしゃいませ」
少し不安げながらも、しっかりとした声。
扉がカランと鳴り、店内にはリゼと数人の常連だけが残された。
しばらくは順調だった。
赤の辛口をシルへ。
ハイランドのハイボールを、無骨な冒険者へ。
けれど、油断は一瞬だった。
棚からボトルを取ろうとしたとき、リゼの手元が滑る。
「あっ……!」
重厚な瓶が傾き、酒がこぼれかける――
その瞬間、がっしりとした手がボトルを支えた。
「焦らんでいいさ。ここは“急がない店”なんだろ?」
低く落ち着いた声。
支えてくれたのは、無骨な冒険者――ガルドだった。
リゼは思わず息を呑んで、その顔を見上げる。
「……ありがとうございます」
「礼なんていらんさ。誰だって最初はそうだ」
背後では、年嵩の魔法使い――ミルドが杖をひと振りする。
ふわりと宙に浮いた酒が、魔法に導かれて瓶へと戻っていく。
「ふん……器用さは後からついてくる。今は心を込めることだ」
その言葉に、リゼの瞳が潤んだ。
「……はいっ!」
彼女の声が、少しだけ空気を変える。
やがて扉がふたたび鳴り、シズクが戻ってきた。
「おかえりなさいませ!」
満面の笑みでリゼが迎える。
カウンターには、彼女が丁寧に磨いたグラスがいくつも並んでいた。
「……良い雰囲気ですね」
シズクが静かに呟く。
店内の空気は穏やかで、グラスの氷がやさしく音を立てていた。
「マスター、あの子、やるな」
シルがぽつりとつぶやく。
「……えぇ、悪くないです」
シズクの口元が、ごくわずかに綻んだ。
閉店後。
静かになった店内で、リゼは最後の片づけをしていた。
シズクは静かにグラスを整えながら、一杯のカクテルを作る。
差し出されたのは、澄んだ一杯――セレブレーション。
「……マスター、これは?」
「今日頑張ったご褒美です。カクテル言葉は“門出”。
今日でしっかり《Janus》の一員になったので、ぴったりのお酒です」
リゼは、目を見開いたまま、その一言を噛み締めるように頷いた。
「ありがとうございます……! ……おいしぃ……」
その笑顔に、ほんの少し大人びた光が宿る。
シズクは棚のグラスを整えながら、心の中でそっとつぶやく。
――《Janus》は、二つの顔を持つ。
そして今日、
この店に、ひとつ新しい“顔”が加わった。