2話
――翌日、昼過ぎ。
重厚な鉄の門の前に、黒のロングコートを羽織った男が立っていた。
その男、シズクは眠たげな目で広がる庭園を見渡し、ため息をつく。
「……公爵家、でしたか。そりゃ金貨千枚も出せるわけだ。……はぁ、胃が痛い」
ぼそりと漏らした言葉に、門番たちの視線が警戒に染まる。
だがすぐに、その奥から現れた男が声をかけた。
「来てくれたか、礼を言う。娘は――こちらだ」
昨夜、《Janus》に現れた男――ルクレール公爵、ルークである。
静かな庭園を抜け、屋敷の奥へ。
重厚な扉の先に案内されたのは、陽を遮った寝室だった。
重々しいカーテンの隙間から漏れるわずかな光が、室内の静けさをより深く染めている。
広々としたベッド。その上には、青白い顔で少女が横たわっていた。
息は浅く、まるで今にも途切れてしまいそうな呼吸。
彼女の傍らで、医師らしき者が肩を落としている。
シズクは、無言のまま少女に近づいた。
しゃがみ込み、そっと右手をかざす。
指先から、淡く青白い光が滲み出る。
その光はふわりと揺らめき、空気に溶けるように広がりながら、少女の身体を包み込んでいく。
《視る》。
それは、彼の魔法の第一段階。
魔力の流れ、呼吸のリズム、体内に溜まった“淀み”――
目に見えないものを、光で“感知”する技。
しばしの沈黙。
やがて、彼は静かに呟いた。
「……これは、急がないと間に合いませんね」
その言葉と同時に、空気が変わった。
肌がひりつくような緊張感が走り、光が強く、濃くなる。
シズクの目が静かに細められ、口が動いた。
「――再織結」
その瞬間、光が少女の胸元へ吸い込まれた。
まるで彼女の心臓を包み込むように、ふわりと溶ける光。
一瞬の静寂ののち、
少女の呼吸が、ふ、と深くなる。
浅かった吐息が安らぎ、頬にほんのりと赤みが戻る。
「……ふぅ。間に合いましたね」
シズクはゆっくりと立ち上がり、軽く肩を回す。
「体力は数日で戻ると思います。今は、よく寝かせてやってください。消化の良い食事を少しずつ。……薬もいりません」
その言葉に、背後で見守っていたルークが、床に膝をついた。
娘の手を握りしめながら、押し殺していた感情がこぼれる。
「……良かった。本当に……良かった……」
シズクに向き直ると、感情の波を抑えきれず、深く頭を下げた。
「マスター……ありがとう。礼などという言葉では到底足りぬ。娘からも、改めて礼を言わせる」
「……自分にできることをしただけです」
そっけないが、どこか柔らかい口調だった。
「お代は――そうですね。《Janus》のほうに届けていただけますか」
「……承知した。後日必ず」
「それでは。家族の時間を、どうぞごゆっくり」
そう言って、シズクは背を向ける。
扉へと向かうその背に、少女の安らかな寝息が重なった。
静かに閉まる扉の音。
残された寝室に、しばし安堵の空気が満ちていく。
ルークは娘の額をそっと撫でながら、ふと呟いた。
「……やはり、ただ者ではないな。あの男……」
ベッド脇の椅子に腰を下ろし、静かに娘の寝顔を見つめる。
その背に、じわじわと湧き上がるのは、畏怖にも似た感情だった。
「……あれほどの魔法を、酒場の男が使うとは。命を救われた身でありながら……背筋が震えた」
ルークは立ち上がる。
向かう先は、奥の書斎。
重厚な扉を閉め、灯りをつけると、執務机に座り、羊皮紙と羽ペンを取り出す。
手元で筆が走る。
《報告:特殊な魔法行使者に関する記録》
氏名:不明。通称「シズク」
店名:《Janus》
確認された魔法:おそらく治癒系高位魔法《再織結》
状況:私的依頼に応じ、民間の立場で治癒を施した。報酬は常識的。行動に政治的意図は見受けられず。
所感:国家の保護対象として考慮すべき潜在力あり。
封蝋された手紙が置かれたのは、重厚な装飾が施された執務机の上だった。
その部屋――王城最上階に位置する、静寂と威厳に満ちた執務室。
窓からは、王都全体を一望できる。
机の前に座るのは、金髪の壮年の男。
品のある服装と柔らかな微笑み――だが、その眼差しはどこまでも鋭かった。
手元の報告書に目を通しながら、彼は静かに言葉を漏らす。
「“夜しか開かない酒場”……なるほど」
報告の主は、ルクレール公爵。
信頼厚い家臣からの簡潔な報告を、彼――現王《レオン=オルディナス三世》は、丁寧に読み込んでいた。
「面白い。民の中に異なる力が芽吹くのは、歴史の必然というものか」
彼の傍らに控えるのは、灰髪の側近。
その声が、静寂を破るように囁かれる。
「陛下、動かしましょうか? 調査班を?」
王はペンを置き、微かに首を振った。
「いや。しばらく様子を見るとしよう」
そして、ふと視線を窓の外へ向けた。
「……その男が、どんな“顔”を持つのか。それを見極めてからで良い」
報告書をそっと机に戻しながら、穏やかに笑う。
「それにしても、“Janus”とは良い名だ。
裏と表、始まりと終わり――すべてを映す双面の神か」
そのつぶやきは、誰に聞かせるでもなく、ただ静かに執務室の空気へと溶けていった。
王都を照らす陽光が、ゆっくりと傾いていく。
《Janus》の扉が、再び開かれる時間が近づいていた。