1話
夜の静けさが街を包み込むころ、
裏通りの一角にあるバー《Janus》の扉が、ひそやかに音を立てた。
カラン――。
鈴の音が揺れ、空気が少しだけ動く。
シズクはカウンターでグラスを拭いていた手を止め、そっと顔を上げた。
そして、いつも通りの穏やかな声で客を迎える。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
重たい足取りで入ってきたのは、ややくたびれた様子の中年の男だった。
外套の裾は土で汚れ、目の下には疲労の影。
酒を楽しみに来たというより、何かに追い詰められているような空気をまとっている。
男は無言のまま、カウンターの端に腰を下ろした。
深く息を吐き、背を丸めたまま、低く口を開く。
「……マスター。相談があってな」
「はい。お話、伺いますよ」
シズクは、まだグラスを手に持ったまま、構えるでもなく自然に答えた。
声は穏やかで、少しだけ落としたトーン。
客の心の重さを、無理に持ち上げようとはしない。
男は、少しずつ言葉を紡ぎ始めた。
「……娘が、病にかかってる。もう長くはもたんって、医者には言われた」
「……そうでしたか。それは、つらいですね」
「“エリュシオンの泉”の水を使えば助かるかもしれんと……でも、あそこは森の奥で、魔獣が出る。もう何人も戻ってきてない。代わりの薬草を金貨千枚で頼んだが……届く前に間に合うかどうか……」
男の拳が震えていた。
怒りでもなく、悲しみでもなく――ただ、どうしようもない無力さに打ちひしがれるように。
しばらくの沈黙の後、男はカウンター越しに、うつむいたまま声を漏らした。
「……マスター。あんた、何か手は知らんか?」
シズクは手を止め、しばし男の目を見つめた。
その目は、どこまでも切羽詰まっていた。
「……可能性なら、いくつかあります。
ただ、それを試すには……事情をもう少し詳しく知る必要がありますね」
「どういうことだ?」
「娘さんの容態を、実際に見せていただければ、多少なりとも判断できます。
何ができて、何ができないか――具体的な話は、その後です」
男は戸惑ったように視線を揺らした。
「……それって、見に来てくれるってことか?」
シズクは軽く首を横に振る。
「いえ、私から動くつもりはありません。
こちらから出向く場合、それは“依頼”を受けたということになりますので」
その言葉に、男の表情が引き締まった。
しばらく唇を噛み、何かを押し殺すように黙っていたが――
やがて、力のこもった声で言った。
「……頼む。正式に依頼させてくれ。娘を助けてやってほしい」
その言葉に、シズクは静かに頷く。
「承知しました。では、明日の昼に伺います。場所を教えていただけますか?」
「南門の近くだ。門番には話を通しておく。屋敷の者に“バー《Janus》のマスタ
ー”と伝えてくれれば通してもらえるはずだ」
「わかりました」
男の声には、ほんの少しの光が戻っていた。
それを受け止めるように、シズクは穏やかな笑みを浮かべる。
「……その前に、一杯、いかがですか?」
「ああ。おすすめで頼むよ」
シズクは軽く頷き、シェイカーに手を伸ばした。
選んだのは、《ダイキリ》。
ライムの酸味とラムの切れが際立つ、鋭さの中に明るさを感じる一杯。
男の前に置かれたグラスから、かすかに柑橘の香りが立ちのぼる。
「こちらを。ダイキリです」
男はゆっくりとグラスを口に運び、一口飲む。
「……キリッとしてるな。なんというか……気が引き締まる感じだ」
「そう言ってもらえると、うれしいですね。……ちなみに、このカクテルには“希望”って意味があるんですよ」
男はグラスの縁を見つめながら、小さく笑った。
「希望、か……。今の俺には、ちょうどいい言葉かもな」
「夜は長くても、いつか明けますからね。飲み干して、少しでも肩の荷を下ろしていってください」
男は静かにうなずき、グラスを傾けた。
その背中には、わずかだが力が戻っていたように見えた。
やがて、彼は席を立ち、ドアの方へ向かう。
「……じゃあ、明日。希望を持って待ってるよ」
「はい。お気をつけて。おやすみなさい」
カラン――
再び鈴が鳴り、扉が閉まる。
《Janus》の中に、静寂が戻った。
シズクは椅子に腰を下ろし、長く息を吐く。
「……ふぅ。明日は……ちょっと早起きかな」
天井を見上げ、肩を回しながらぽつりと呟く。
誰の目もない店内で、ようやく見せる気の抜けた顔。
そのギャップこそが、彼――シズクのもうひとつの“顔”なのかもしれない。