プロローグ2
昼下がりの《Janus》。
街の喧騒から少し外れた石畳の路地に、ひっそりとその扉は佇んでいる。
カラン……。
ドアベルが小さく鳴り、木の扉が押し開けられた。
「……あれ、まだ準備中か」
入ってきたのは、革の旅装を身にまとった若い男だった。肩に小さな荷袋を背負い、腰には刃こぼれのある短剣。旅の帰りか、あるいは次の地へ向かう途中だろう。
「いえ、開いてますよ。ちょうど仕込みが終わったところでして」
カウンターの奥、グラスを磨いていたシズクが静かに顔を上げた。
白いシャツの袖をまくり、胸元には落ち着いた色味のベスト。派手さはないが、どこか品のある佇まいだ。
「昼間に開いてるとは思わなかった」
「夜営業が基本ですが、たまにこうして早めに来られる方もいらっしゃいますから。……旅の帰りですか?」
男は少し驚いたように眉を上げた。
「……どうしてわかった?」
「剣の位置が利き手と逆ですね。歩き慣れてはいますが、右足にやや疲れが出ている。それと……背中の荷袋、少し重心が傾いている。おそらく昨日あたりまで山道を歩かれていたんじゃないでしょうか」
「……観察力、すごいな」
「バーテンダーの仕事って、案外そういうものなんですよ」
シズクは微笑み、棚からブレンドハーブの瓶を一つ取り出した。
中には乾燥させた香草や、異国の実が幾種類も混ざっている。
「よければ一杯いかがです? 旅の疲れを少し癒せるものをお出しします」
「いや……金が――」
「大丈夫です。今は営業前ですし、こちらの気まぐれということで」
グラスに注がれた琥珀色の液体からは、蜂蜜と薬草が溶け合ったような、優しい香りが立ちのぼる。
それはどこか懐かしく、ほっと息をつける匂いだった。
「……うまいな、これ」
「少し魔力を込めてあります。飲んでも平気でしょうか?」
「えっ……魔力入り?」
「疲労の回復と、軽い解毒効果があります。副作用は……強いて言えば、二日酔いしにくくなる程度です」
冗談めかした口調に、男は思わず吹き出した。
「なんだよそれ……いや、助かるけどさ」
しばらくの間、男は黙ってグラスを傾けていた。最後の一滴を名残惜しそうに見つめながら、ぽつりと呟く。
「……なあ、マスター。ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
「ええ、どうぞ」
シズクは手元を片付けながら、自然な仕草で男の方へ目を向けた。
「旅の途中、小さな村で妙な病が流行っててさ。薬師もお手上げって話で、俺にはどうすることもできなかった。……でも、見過ごしたまま通り過ぎるのも、気持ちが悪くて」
「……村の名前、覚えてますか?」
「バルニアってところ。街道からちょっと外れた、谷あいの村だよ」
シズクは静かに頷くと、カウンターの下から一冊の古びた地図帳を取り出し、ページをめくる。
目的の地名を見つけると、その上を指先でなぞった。
「……なるほど。事情は理解しました」
「行ってくれるのか?」
「いえ、私が行くわけではありません」
「……?」
「うちにはですね、“ちょっとした仕事”を請け負ってくれる若者が何人かいるんです。まっすぐで、腕も立つ。信頼できる人間ですよ」
…カラン。
扉のベルが、もう一度鳴った。
また誰かが、“境界”に足を踏み入れる。
《Janus》は今日も静かに、物語の続きを待っている。