プロローグ
この街の片隅に、夜にしか開かない酒場がある。
名を《Janus》――
裏通りの奥、古びた石畳を抜けた先に、ひっそりと佇んでいる。
看板もない。
扉の上には、かすかに錆びた鈴がぶら下がっているだけ。
それでも、不思議なことに――人の気配は絶えない。
淡い光がぼんやりと漏れ、扉の向こうからは音楽すら聞こえない。
だが、ここを目指してやってくる者は、皆、決まってこう言う。
「なぜか足が向いた。気がつけば、ここにいた」
《Janus》は、二つの顔を持つ神の名。
始まりと終わり、光と影、過去と未来――
それらすべてを見つめる“境界の神”の名だ。
この店もまた、そんな名を冠するにふさわしい場所だった。
冒険者、貴族、職を失った男、逃げてきた女。
さまざまな事情を抱えた人々が、この扉をくぐる。
誰もがここでは、剣を置き、嘘を脱ぎ捨て、静かにグラスを傾ける。
――そう。
《Janus》では、誰もが“ただの客”になる。
そして、そんな彼らを迎えるのが、
カウンターの奥に立つ、黒衣の男――シズク。
肩まで伸びた黒髪に、年齢不詳の整った顔立ち。
けれどその容姿よりも印象的なのは、彼の“気配”だ。
やわらかくて、凪いだ湖のようで、どこか不自然なほど静か。
けれどその眼差しは、まるで客の心の奥底を映し出す鏡のようだった。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
口調は穏やかで、丁寧すぎず、どこか“余裕”を感じさせる。
彼が注ぐ酒は、香りだけで心が緩むようだと言われる。
彼の話す言葉は、胸の奥に残って離れないという客もいた。
だが、彼自身のことを知る者はいない。
どこから来たのか。なぜここにいるのか。なぜ酒を注ぐのか。
「マスターがいるから、また来た」
そう言って戻ってくる者は多いが、
その“マスター”が何者かを、誰も知らない。
本人も語らない。
問いかければ、ただ静かに微笑むだけだ。
けれど今夜もまた――
カラン、と鈴が鳴る。
「……いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
その言葉に導かれ、一つの物語が始まる。
たった一杯の酒から、人の心が揺れ、
世界のどこかが、ほんの少しだけ――動き出す。
初めての作品になりますので、誤字脱字や間違った情報等があるかもしれません。
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