【 第8話 】揺れる希望と静かな波紋
雪子はLINEの画面を見つめながら、秋男にメッセージを送った。
装太が驚いたあと、まっすぐに「すごい話だね……ありがとう」と言っていたこと。
その言葉に、文乃も雪子も少しだけ肩の力が抜けたのだった。
•
数日後、雪子は改めて秋男にメールを送った。
件名は「教育費贈与についてのご提案」。
先日、姉の家で行われた話し合いの内容をまとめた表を添付し、
本文にはこう書き添えた。
「秋男さんが仰っていたように、進学時の支援を非課税枠で数年に分けて贈与されるご意向、よくわかりました。
ただ、贈与税は受け取る側が負担することもあり、毎年の手続きを秋男さんにおかけするのも、心苦しく思っています。
もし可能であれば、一括、あるいは4年間での分割もご検討いただければありがたく思います。」
添付した表には、年額と贈与回数、税金の有無などを比較した簡単な案を記載した。
姉たちとの会話の中で、「ちゃんと形にして提案してみよう」とまとまったものだった。
けれど――雪子の心には、もう一つの不安があった。
(この話、途中で終わったらどうなるんだろう……)
秋男も、雪子自身も、そして橋渡し役になっている兄・三郎や姉も、
みな、若くはない。
暦年贈与というスタイルは理想的に見えて、実はとても不安定だ。
誰かが病気になる、あるいは亡くなる――そんな現実がいつ訪れるかわからない。
「継続されるだろう」という信頼のうえで進む仕組み。
でも、それは裏返せば、何も保証がないということ。
雪子の胸に浮かんだのは、
以前、秋男からのメールに**さらっと書かれていた「贈与契約書案」**という一文だった。
(あれを、ちゃんと交わした方がいいのかもしれない……)
契約書があれば、贈与の意志と金額が形として残る。
秋男の意思も尊重しつつ、次の世代に誤解なく引き継ぐこともできる。
ただ――
(そう言って、秋男さんの機嫌を損ねたらどうしよう)
「信じていないのか」「信用されていないのか」と、そう受け取られたら。
秋男の立場もプライドも理解しているつもりだからこそ、
雪子は提案の言葉一つにも、慎重にならざるを得なかった。
•
その夜、秋男から返信が届いた。
「お申し越しのご要望につきましては、正直なところ原資がありません。
総論でかっこいいことを言って、実は期待外れ、となって申し訳ありません。」
その書き出しに、雪子は少しだけ眉をひそめた。
続く文面には、こう綴られていた。
「非課税枠である110万円を上限として、毎年10名に贈与していく方向で考えています。
ただし、すべての方に均等にというわけではありません。
大学院への進学や、留学など、実質的な費用が多くかかる場合は、その方に多く配分することも想定しています。」
文面は丁寧だった。
でも、言葉の端々に、どこかで「それが現実です」という線引きが感じられた。
(……ああ、やっぱり、そうなるのね)
姉たちと話したとき、「秋男さんなら柔軟に考えてくれるわよ」と誰かが言った。
でも雪子は、心のどこかで分かっていた。
理想と現実は、たいていの場合、真っ直ぐには並ばない。
雪子はLINEのグループを開き、秋男からの要点をまとめて共有した。
「基本的には非課税枠の範囲で進めていくそうです。
必要があれば、大学院や留学の子には多めに、とも書かれてました」
すぐに反応が届いた。
「そうなのね、ありがたい話だね」
「ちゃんと考えてくださってるのが伝わってくる」
「感謝しかないよね」
スタンプがいくつも飛び交い、画面はにぎやかになった。
•
雪子はLINEの画面をホームに戻し、スマホを握ったまま、
しばらく何もせずに考えこんでいた。
本当にありがたい話だ。
そう思う気持ちに嘘はない。
でもその一方で、
どこか心の奥に、冷たいものが沈んでいくのを止められなかった。
“契約書”という言葉が、また静かに胸の奥で浮かび上がっていた。
【あとがき】
支援の話が具体化する一方で、
家族たちの間には、少しずつ“続くかどうか”という不安も芽生えはじめています。
次回、雪子は姉と向き合い、より現実的な「話し合いの場」へと進みます。