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【第2話】決意と保留

「これを、渡しておこうと思ってね」


そう言って秋男は、テーブルの上に封筒を置いた。厚みのあるA4の書類が数枚入っている。


「今日の話――冠木二郎さんの次世代、つまり曾孫にあたる子どもたちの学費支援に、山の売却益を活用したいという件です。」


雪子は小さくうなずいて封を切った。文字は読みやすく印刷されていたけれど、内容はすぐには頭に入ってこない。


「なるほど……でも、ちょっと今は……」


喫茶店のざわめきのせいか、それとも思いがけない提案にまだ気持ちがついていかないのか。結局、雪子は一通り目を通しただけで封筒を閉じ、バッグにしまった。


「帰ってから、ちゃんと読みますね」


「そうしてもらえるといい。税のことも絡んでくるから、疑問があればなんでも聞いて」


秋男の声には押しつけがましさがなく、それでいて一歩も引かない芯があった。


少し間があいて、雪子がぽつりと言った。

「……そういえば、装太が“マーチ”を記念受験したいって言ってたんですよ」


「マーチ、ですか?」秋男は少し眉を上げた。


「ええ。明治、青山学院、立教、中央、法政――その5つの大学の頭文字を取って“MARCH”って言うんです。受験生のあいだでは、よく使われているみたいです」


秋男は小さく頷いた。


「なるほど。それは、初めて聞きました。語呂がいいですね。印象にも残ります」


それ以来、秋男は“マーチ”という言葉を気に入って、よく使うようになった。


家に戻ると、雪子はコートも脱がずにリビングのテーブルに向かった。


喫茶店で受け取った封筒を開くと、中から数枚のA4用紙が出てきた。手書きではなく、整った体裁のビジネス文書。段落ごとにタイトルがあり、文字は読みやすく余白も計算されている。


(ああ、やっぱりWordで作ってある……)


秋男らしい、と雪子は思った。


彼はポロテ山の麓の小さな町で育ち、東京の難関私立大学を卒業後、大手ゼネコンに勤めていた。部長まで上り詰めたあと、定年退職。その後も系列の子会社で社長を務め、4年で退いた。今は一線を退いているが、その整理された書面には、彼のキャリアが滲み出ていた。


この度、私のもとに巡ってきた“ポロテ山”の売却益について、

学費支援など将来を見据えた形で、冠木二郎さんの曾孫にあたる子どもたちのために活かしたいと考えるに至りました。

経緯と概要を以下に記します。


雪子は文字を追いながら、胸の奥にふつふつと湧いてくる想いを抑えきれずにいた。


(……装太が“直近にいた”というのは、彼が最初ってこと?)


その可能性に気づくと、嬉しさと不安が入り混じったような感情が胸を突いた。


けれど、ふと、理性の声が降りてきた。


(ちょっと待って……装太に話す前に、私たち“大人”がちゃんと理解しておかないと)


これは装太だけの話ではない。姉の子たちも、自分の息子たちも、対象になるかもしれない。受け取るのは子どもたちだが、まず親である自分たちが責任を持って理解しなければならない。


雪子は深く息をついて、スマートフォンを手に取った。

家族のグループLINEを開き、慎重に言葉を選びながら、指先でメッセージを打ち始めた。


「今日、秋男さんから思いがけないお話をいただきました。

父が生前所有していた“ポロテ山”に関することで、少し驚いています。

詳しくは文書で預かっています。後日、お時間のあるときにお話できればと思います」


メッセージを送信すると、画面を伏せて、ふぅと息を吐いた。


春のやわらかな陽射しが、カーテン越しにテーブルの上を照らしていた。

雪子はその光を見つめながら、装太の帰りを静かに待つことにした。


けれど、それも束の間。玄関のドアがガチャリと開く音がして、装太の声が聞こえた。


「ただいまー」


「おかえり。お腹すいたでしょ?」


「うん、ちょっとね。着替えてくる」


装太は、肩から学生用のリュックを下ろしながら廊下を歩き、自分の部屋へと向かった。

その背中を見送りながら、雪子は胸の奥がふわりと熱くなるのを感じた。


(あの子の未来が、もしかしたら大きく動くかもしれない)

(でも、まだ話せない……)


秋男からの提案は、現実味を帯びながらも、どこか夢のようでもあった。

姉や子どもたちの母親たちからの返事もまだ届かない。

雪子の中で、まだ“決断”が固まっていなかった。


「ご飯、できてるわよ」


装太が部屋から戻ってくると、雪子はいつものように声をかけた。

普段どおりの夕食。普段どおりの会話。


けれど心の中には、今日という一日がくれた新しい選択肢の気配が、そっと灯っていた。


(もう少し、時間がほしい)


それは自分自身のためでもあり、装太のためでもある。


窓の外には、ゆっくりと夕暮れが訪れていた。

秋男からの話を受け取った雪子は、装太にすぐ伝えることを選びませんでした。

それは、ただ迷っていたからではなく――伝える前に、もう一つ“大切なこと”があると感じたからです。


この支援を受ける子どもたちの親たちへ。

雪子は、できれば「サプライズで」話したいと考えています。

その驚きの表情も含めて、ちゃんと見届けたい。


次回、第3話ではその親たちとのやりとりを描いていきます。

一歩ずつ、でも着実に動き出す未来の気配を、どうぞご一緒ください。

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