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【 第10話 】 聞けない言葉、動き出す夏

「……送るだけなんだけどね」


スマホを握りしめたまま、雪子はつぶやいた。

画面には、秋男宛のメッセージの下書きが表示されている。

たった数行の文。感謝を述べて、その上で、ひとつだけ確認をしたいという内容。


(でも、この一言で、また何かを壊してしまうかもしれない)


それが怖かった。

秋男は、言葉を選んでくれる人だ。怒鳴ったり、強い調子で返してきたことはない。

それなのに、雪子の中には「次は怒らせてしまうかも」という不安がこびりついていた。


一度だけ、「皆に同じ金額で」という希望を出したことがある。

そのとき秋男は短く、「そのつもりはない」と返してきた。

丁寧なやりとりの中で、それはあまりにもはっきりした拒絶だった。


(たった一度で、すっかり言えなくなってしまった)


その後、メールの文面に「どう思いますか?」と書かれていたこともあった。

でも、それは本当に意見を求めているというより、

「意見があれば聞くだけは聞きますよ」という枠をつくっているだけのように思えた。


結局、雪子は何も書き加えず、下書きを消した。

また時間だけが過ぎていった。


 


そして気がつけば、季節は夏休みに入っていた。


昼間のセミの声が濃くなるにつれて、

「装太の受験」も目の前の現実として輪郭をはっきりさせてきた。


文乃と装太、それに弟が、私立大学のオープンキャンパスに行くことになった。

東京の大学だ。飛行機での移動になる。


雪子はその知らせを受けたとき、胸の奥がざわつくのを感じた。

何かが確実に動き出している。それなのに、自分だけが足踏みをしているような気がした。


 


出発の朝。空港に向かう3人から、雪子のスマホに写真が届いた。


「行ってきます!」という文乃の明るいメッセージと、搭乗ゲート前で撮った記念写真。

装太は少し緊張した顔をしているが、それでもしっかり前を向いていた。

弟は相変わらず、緊張を笑いに変えるようにピースサインを決めていた。


「頼もしいね、あの子たち」


雪子はスマホを伏せて、ひとりごとのように言った。


彼らは、自分の足で“次の世界”を見に行こうとしている。

進学先という“未来”に触れるために、空を飛んで東京へ向かっている。


(いよいよだ)


その言葉が、雪子の胸に静かに落ちてきた。


今までは、話し合いの段階。準備の段階。

でも、今日からはもう「本番」なのだ。

見学した大学を受けるかどうかは別として、

もう“選ぶ”という行為は始まっている。


 


(それなのに、私は……)


秋男には、結局何も聞けていない。

「高校以降の進学支援については、その時に相談」と言われたまま、

具体的な取り決めも、契約も、話し合いも、何もない。


(秋男さんが、何を考えてるのか……本当は聞きたい)


でも、聞けない。


「そのつもりはない」——あの一言が怖すぎた。


ほんの短い言葉だったのに、

それまで雪子が内心で信じていた「丁寧な関係」が、

一瞬で、境界線の向こう側に押しやられたような感覚だった。


 


窓の外では、真夏の太陽がぎらついていた。


装太がこの空を飛び越え、東京の街を歩いている姿を想像する。

大学のキャンパスで配布されるパンフレットを手に取り、

どんな顔をしているだろう。


(きっと、何も言わないけど、いろんなことを感じるんだろうな)


雪子は、自分の背中にじっと圧しかかるものを感じていた。


この夏が終わるころ、装太は進学先をほぼ決めているかもしれない。

秋には出願準備。冬には願書提出。

そして春には、どこかの大学に合格しているかもしれない。


そのとき、秋男との関係はどうなっているのか。

話は進んでいるのか。

支援はあるのか。

契約はあるのか。

自分は、家族として、どうふるまえるのか。


 


「いよいよだ」


もう一度、雪子は小さくつぶやいた。

これは、子どもたちの未来の話だ。

でも、そこに自分も巻き込まれている。

どうしても他人事にはできない、身の内側にあるものだった。


まだ何も始まっていないようでいて、

実はもうすべてが始まってしまっている。


秋男に「聞きたい」と思った言葉が、今も雪子の胸の中に残っている。


けれどそれは、もうしばらく沈んだままのようだった。

【あとがき】


今回は、雪子が「問いかけたいのに問いかけられない」もどかしさと、

季節の進行とともに現実が静かに迫ってくる様子を描きました。


秋男への不安や疑問はあっても、

“機嫌を損ねたくない”という思いが、言葉を止めてしまう――

その感情は、経験がある方も多いのではないでしょうか。


そして、飛行機で東京へ向かう文乃・装太・弟の3人。

現実が動き出したことを、雪子は「いよいよだ」と実感します。

それは、ただの季節の変わり目ではなく、家族の転機を静かに告げる合図でもあります。

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