領主としての責任
重厚な扉が閉まり、執務室に静寂が戻る。レイブンは緊張を隠さぬまま、机に文書の写しを差し出した。
「……三国同盟が密かに結ばれていた証拠です。アルゼノート、メルノリー、クベル独立領による、レグニア領の分割案まで記されています」
アルベルトは無言で文書を手に取り、じっと目を通す。数分の沈黙のあと、低く、重い声が室内に響いた。
「……この文書が本物であるという“証明”は?」
レイブンの背筋がぴんと伸びる。だが表情は崩さず、淡々と答えた。
「写しではありますが、出処は確かです。“マリク”という情報屋から。ジークの知り合いと同じくスラムの出身の」
アルベルトの目が細くなる。
「なるほどな。だが、裏通りの男の言葉だけで、国の運命を賭けるには軽すぎる。……お前は、レグニアを動かすということの重さを理解しているのか?」
レイブンは一瞬だけ目を伏せ、すぐに顔を上げた。
「理解しています。ですが、これは“可能性”の話ではありません。彼らは既に“戦後”の準備を進めている。僕はそれを見過ごすわけにはいかない」
アルベルトは立ち上がり、部屋の窓から庭園を見下ろした。沈黙の中に、確かな思索の時間が流れる。
「――証明できない限り、それは“噂”に過ぎん。だが、それが真実だった時、レグニアは手遅れになる。そうだな?」
レイブンは静かに頷いた。
「だからこそ、僕が動きます。ジークと共に。クローディア・リースという女を追い、三国の結束に楔を打ちます。それが、証明にもなる」
アルベルトが振り返る。その視線は、今や“父”ではなく、“領主”としてのものだった。
「よかろう。だが覚えておけ。動いた以上、これは“遊び”では済まされん。レイブン、もしお前の読みが外れれば、その責任は“全て”お前が負うことになる」
「承知しています」
「ジーク」アルベルトが呼ぶ。
ジークは一歩前に出て、膝をつく。
「この任、命に代えてもレイブン様をお守りします」
アルベルトはしばし彼を見つめ、やがてうなずいた。
「……ならば行け。証明してみせよ。“この国が、まだ奪われていない”ということをな」
レイブンとジークが執務室を去ったあと、しばらくの沈黙が落ちた。
アルベルトはまだ机の上に置かれた密約文書の写しを眺めていた。そこに、脇からもう一人の男が歩み寄る。マルセーヌ――レグニアの軍政を預かる参謀長であり、長年アルベルトの右腕を務めてきた男だ。
「……どう見る、マルセーヌ」
アルベルトの問いは低く、だが確かな重みを持っていた。
マルセーヌは軽く顎に手を添え、文書に目を落とす。
「三国同盟、アルゼノート・メルノリー・クベル独立領。――それぞれに得るものが明確に記されております。利害は一致しており、協定としての整合性は高い。……これは、子供の作り話ではありませんな」
「……写しである以上、偽造の可能性もある」
「それも承知の上で申し上げます。この筆跡、紙質、印章の押印位置と角度……仮に偽造であっても“真の書簡を精密に模した”ものです。そういった技巧は、素人には不可能」
アルベルトは腕を組み、視線を窓の外へ投げる。
「……となれば、奴らは既に“戦後”の話をしている。こちらの存亡など、もう織り込み済みということか」
マルセーヌは頷き、静かに続けた。
「恐らく、密かに外交官の往来もあったはず。クローディア・リース――レイブン殿が名を挙げた女。かつてメルノリーの情報局で活動していた才媛と記憶しております。……ただの交渉人ではない。戦の幕を開ける火種を運ぶ者です」
アルベルトの眼差しが鋭くなる。
「つまり……事実であると仮定した方が、“生き残れる”というわけか」
「その通りです」
ふたりの間に、再び沈黙が落ちる。
やがて、アルベルトが息を吐いた。
「……まさか、あの子がこれほど早く“戦場の言葉”を話すようになるとはな。私の代では、終わらせてやりたかったものだが……」
「ですが、殿下。殿下の代で終わらなかったからこそ、レイブン殿は今、“始める”ことを選んだのでしょう」
アルベルトは微かに笑った。
「……そうかもしれんな。あの子は、私とは違う地図を描いているのだろう」
その背に、老将マルセーヌが静かに頭を下げる。
「レグニアはまだ、終わっておりません。我らが立ち続ける限りは」
―――――――――――――――
三国同盟に加り、クローディアが元外交官を務めた国メルノリーの東岸、交易都市レセリア。港に近づくにつれて、ジークは肌にまとわりつくような空気の変化を感じた。
陽気な音楽。軽口を交わす商人。行き交う人々は笑顔を絶やさず、誰もが気軽に言葉を交わす――が、そこに「情」はなかった。
「……なんだろうな。明るく振る舞ってるのに、誰も信用してない顔をしてる」
ジークがぽつりと呟くと、レイブンも頷いた。
「ここは、“信用”じゃなく“取引”で成り立ってる。つまり、“お前を信じる”じゃなく、“お前と取引する価値がある”かどうか。それが全てなんだ」
港近くの通りには、金細工や香辛料、異国の織物が並び、人々は饒舌に言葉を交わす。だが、誰も余計なことは言わない。聞かれたことには笑って答えるが、それ以上は語らない。余計な質問をすれば、にこやかに「それは契約外だよ」と返される。
「……表情があって、心が見えねえ」
「それが“この国の礼儀”なんだろうね」
レイブンが小さく笑った。
「メルノリーの人間は、他人に嘘をつかない。だが、全てを語ることもない。だから“信用”はできない。でも、一度交わした約束は守る。“信頼”は、ある意味で鉄よりも強い」
「なるほどな」ジークが鼻を鳴らす。「“腹の中”を見せない国ってわけか。こっちも見せずにやるしかねぇな」
その時、路地の隅に座る老婆が目に入った。ボロを纏い、物乞いのような風体。しかしその隣には、真新しい銀細工の飾りがさりげなく置かれている。近づいた商人が、そっと袋を差し出すと、老婆は何かを囁き、男は満足そうに立ち去った。
「……あれも商売か?」ジークが眉をひそめる。
「“情報商売”だよ。ここでは地位も身なりも、ただの演出。重要なのは“何を持っているか”。持っていない者は去るだけ。それだけの国だ」
レイブンの目は真っ直ぐ港の奥を見ていた。
「でも、だからこそ、この国で得た情報は“確か”なんだ。自分の首が飛ぶリスクと引き換えに得られたものだから」
ジークはうなずいた。
「なら、その“信頼”をこっちも利用させてもらうさ。手土産も、仕込みも、全部用意してきた」
「メルノリーで戦うってことは、剣を抜く前に“商談”を制することだ。間違えたら即アウト」
そのとき、ふいにレイブンの口元がわずかにほころんだ。
「……でも、ジークには無理かもね。正面突破しか知らない人だから」
「おい」
「冗談だよ。でも、心配してるんだ。……この街は、君みたいに“真っ直ぐな剣”には冷たいから」
「だからお前が一緒にいるんだろ?」
ジークの言葉に、レイブンは目を伏せたまま微笑んだ。
港町レセリア。その光と影に満ちた通りを抜けて、二人は“クローディア”の情報を知るため、さらに深く、メルノリーの“奥”へと歩みを進めていった――。