迫る影
石畳の裏路地を進む二人の足音が、湿った空気に吸い込まれていく。商人たちの喧騒も届かないこの通りに、立ち止まる者はいない。
「……ジーク。ここ、本当に“情報屋”の店なの?」
レイブンが静かに問いかけた。目の前の建物は看板もなく、壁には古びた布が垂れ下がっているだけだ。
「店じゃねえよ。『裏口』だ」
ジークは小さく笑う。「俺の知ってる奴が、ここにいる。顔を出すのは……二年ぶりか」
扉の前に立つと、ジークは一度ノックしたあと、指で特定のリズムを刻むように壁を叩いた。カン、カンカン、カン。三拍子の信号。
数秒の沈黙の後、軋んだ音と共に扉が開く。薄暗がりの中から現れたのは、まだ若い青年だった。鋭い眼差しに、整った顔立ち、だが笑みは飄々としている。
「……来るとは思ってたよ、ジーク。そして、レイブンの坊っちゃん」
その声に、レイブンの眉がわずかに上がった。
「“僕のこと”を?」
「もちろん。レグニア領主の息子くらい知っているさ、それから知りたがってる情報も、全部揃えてある」
ジークは目を細め、青年の名を呼んだ。
「……マリク、お前、また腕を上げたな」
「当然だろ? 地べた這いつくばってるだけの“元ガキ”が、情報で貴族の喉元を押さえるまでになってんだから」
マリクは軽く肩をすくめると、奥の部屋へと手招きした。
「さあ、中へ。レグニアの城よりは狭いけど、情報の精度は五倍あるぜ」
部屋の中には、地図や文書がぎっしりと並び、壁には最新の軍備配置や商隊のルートが描かれていた。まるで、この大陸全土を掌握しているかのような空間。
レイブンはしばし言葉を失い、目を細めて呟いた。
「……これが、君の“戦場”なんだね」
マリクは笑って頷いた。
「そう。剣も軍馬も使わないけどな。さて、アルゼノートの動きについて、だろ? 一番やばい話から始めるよ」
マリクは地図の上を指先でなぞり、静かに言った。
「……三国同盟は、すでに結ばれてる。アルゼノート、メルノリーそして東方の傭兵国家クベル独立領。正式な文書じゃないが、証拠はある。これがその写しだ」
彼が差し出したのは、三国の印章が押された密約文書の写し。そこには明確に“レグニア領内の分割案”が記されていた。
「こいつらは戦争を起こすために組んだんじゃない。“終わった後”を前提に話が進んでる。アルゼノートは西部の鉱山地帯を、メルノリーは南の貿易港を、クベル独立領は中部高地に傭兵州を築く手筈になってる」
レイブンの目が鋭く細まった。
「……まるで、すでにレグニアが滅んだかのような口ぶりだね」
「連中にとっては、そういうことだ。三国は軍を動かすより先に、領地の“山分け”から始めた。戦争を始める前から、勝者の顔をしてる」
ジークが拳を握りしめた。
「ふざけんなよ……俺たちが、何もせずに黙って見てるとでも思ってんのかよ」
マリクは軽く頷いた。
「そう思わせるだけの“準備”をしてきたってことさ。裏ではクローディア・リースって女が動いてる。元はメルノリーの宮廷外交官。今はアルゼノートに籍を置いて、三国の橋渡しをしてる」
レイブンは机の上の文書に目を落としたまま、低く呟いた。
「……レグニアを奪い合うだって? まるで、僕たちが“ただの土地”でしかないかのように」
「でも、まだ手遅れじゃない」マリクが言った。「文書は交わされたが、実行はこれから。戦端が開かれるまでに――割って入る余地はある。連中が三つ巴の関係であるうちにな」
ジークが口元をゆがめて笑う。
「その“隙間”に、俺たちが楔を打ち込むってわけか」
「やれるか?」マリクが問いかける。
レイブンは静かにうなずいた。
「やらなきゃ、僕たちはこの国を“誰かの地図の上”で殺される。……やるさ。君の情報があれば、十分だ」
マリクの口元がわずかに緩んだ。
「……じゃあ、“最初の一手”を打て。俺の方でも動きを止める手段を探しておく。クローディアの動線を切れば、三国同盟の連携にもヒビが入る」
レイブンとジークが目を見交わし、無言のまま頷いた。
「戦場はもう、ここにある」
マリクのその言葉が、空気を切り裂くように響いた。