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凶兆

静かな午後の陽が、磨かれた木の床に優しく差し込んでいた。書架に囲まれた落ち着いた書斎で、レグニア領主の息子――レイブン・レグニアが机に向かい、筆を走らせている。


「……詩文に戦史の応用など、まるで謎掛けのようですね」


少年が苦笑まじりにぼやくと、彼の背後で立っていた男が、静かに笑った。


「お見事な着眼でございます、レイブン様。ですが、次期当主たる者には“言葉”と“剣”、いずれにも精通していただかねばなりません」


語りかけたのはルドヴィク――元文官にして、現在はレグニア家の家庭教師を務める老紳士。

穏やかで優雅な物腰はそのままに、しかし、その表情にはほんのわずかに翳りが差していた。


レイブンは筆を置き、すぐにその変化を見抜く。


「……何か、起きましたか」


「さすがでございます、レイブン様」


ルドヴィクは小さく頷き、書架から一枚の文を取り出すと、机の上にそっと置いた。


「アルゼノート侯国が、軍備を活発化させております。表立った動きではございませんが、国境付近に兵站の集中が確認されております。十中八九――戦の準備と見てよろしいかと」


レイブンの瞳が細くなる。


「……情報源は確かですか」


「間者からの三報すべてに一致がございます。虚報ではございません」


静かに頷いたレイブンは、椅子から立ち上がると、窓の外を見やった。

春の陽光に包まれたレグニアの街並み。その穏やかさが、かえって彼の胸にわずかな痛みを与える。


「父上には?」


「すでにご報告は差し上げております。アルベルト様は、然るべき対処をお考えかと。ですが……恐れながら、レイブン様ご自身のご意見も、求められるかもしれません」


「……わかりました。すぐにお会いしに行きます」


レイブンは一瞬だけ瞳を閉じ、深く息を吸った。


「それと……ジークを呼んでください。彼には、いまこの時代がどう動いているのかを、目で見て、心で知ってほしいんです」


ルドヴィクは一礼し、穏やかな口調で答える。


「承知いたしました。あの少年には、殿下をお支えする器がございます。……何卒、お気をつけて」


「ありがとう、ルドヴィク。あなたの支えがあるから、僕は立っていられる」


「僭越ながら、私はただ、未来を担う者の歩みに添っているだけにございます」


穏やかに交わされたやりとりの奥に、戦の気配がじわじわと忍び寄っていた。


重厚な扉を開けて足を踏み入れたその瞬間、レイブンの心に静かな緊張が走る。


室内は静まり返っていた。窓辺には背を向けて立つ、一人の男。

鍛え抜かれた体格に黒の軍装、背筋を伸ばしたその姿は、まさに“一国を治める者”の威厳そのものだった。


レグニアの当主、アルベルト・レグニア。


「……もう、知っているようだな」


背を向けたままの言葉に、レイブンは静かに膝をついた。


「はい。ルドヴィクから、アルゼノートの動きについて伺いました」


アルベルトはゆっくりと振り返り、その鋭い眼差しで息子を見下ろす。

だがその視線にあるのは怒りでも驚きでもなく、ただ――“試す”ような、静かな問い。


「ならば話は早い」


彼は執務机の上の地図に視線を落とし、無駄のない動作で椅子に腰を下ろした。


「お前は、この国をどう見る」


レイブンは躊躇わず答える。


「民の生活は安定しています。周辺諸国に比しても経済は堅調。……ですが、それゆえに狙われます」


「その通りだ。……経済力とは、弱さでもある。戦わぬ国が、戦いを呼ぶのだ」


言葉に棘はない。ただ、それが“現実”であるというだけの響き。


「だがレイブン。――お前は、残っていろ」


その一言が、空気を変えた。


「……なぜですか」


「この戦は、“盾”のための戦だ。民を守り、国を護る。その重みを背負うのは、まだ私の役目だ」


アルベルトは視線を外し、窓の外へと目をやる。


「お前には、まだ見るべきものがある。守るよりも、学ぶ時期だ。焦るな。やがてその時が来る」


レイブンは言葉を失わなかった。ただ静かに、しかし強く言い返す。


「……それでも僕は、この国の“次”を担う者です。見ているだけでは、学べません」


アルベルトはわずかに目を細めた。

その瞳には、かつて自らが通った道を重ねるような色が宿っていた。


「……やはり、お前は私の息子だな」


それは賞賛でも叱責でもない。

ただ、己の血を引く者の“意志”に対する、率直な認識だった。


「だが一つ、命じておく。前線には出るな。――ジークを呼ぶのは構わん。だが、もしもの時には“彼を使え”。お前の盾として」


「……はい」


レイブンは静かに頷いた。


「ジークにも話をしてきます。」


オレンジ色の夕日が、広々とした訓練場を柔らかく染め上げる中、ジーク・バルナードは、木の剣を握りしめながら一人で素振りに励んでいた。汗が額を伝い、荒々しい動きの中に、過去の苦労が刻まれているのが分かる。


そんな静寂を破るかのように、足音が近づく。ジークは斜めに視線を向け、ふと笑みを浮かべる。


「おう、来たか。レイブン」


レイブンが近づいてきた。彼の足取りには悩みと決意が混じっているのが感じられる。


レイブンは軽い口調で切り出す。


「ジーク、ちょっと話してくれるか? アルゼノートの動き、父上からは聞いてるが、やっぱりどうしても確かな情報が欲しくて」


ジークは剣を鞘にしまい、腕を組んで肩をすくめる。


「ああ、あの野郎どもな。うちの噂じゃ、奴らの様子はいつもと違うんだ。正面に出てこない分、裏でいろんな動きがあるって話だ」


そして、ふと懐かしそうな表情を浮かべ、過去をちらりと見せるように口を続ける。


「実はな、俺の知り合いにスラムの裏通りで情報屋をやっているやつがいてな。昔、俺が生き抜くために汗と涙で築いた“縁”ってやつだ。金のためじゃねえ、あの頃はただ、生き延びるための知恵が詰まってた連中だ」


レイブンは興味深げに頷きながら問いかける。


「つまり、ジーク、自らその繋がりを使って動いているってことか?」


ジークはにやりと笑い、口調に馴染みのある荒削りな言い回しで答える。


「いやまだ連絡は取ってない、アルゼノートの件はっき聞いたばっかでな、でも安心しろすぐに連絡取ってみる。奴らから最新の話を引き出してやるさ」


レイブンは胸の内に決意を秘めたように、静かに呟いた。


「頼もしい……だが、どうか無理をしないでくれ」


ジークは軽く肩をすくめ、「安心しろよ。俺は何度もやってきたからな」と、素っ気なく笑みを返す。その目はどこか遠い昔を見つめているようでもあった。


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