立ち上がる理由
訓練場の中央。
観客たちの視線が、土の舞台に立つ二人へと集中する。
片や、貧民街出身の少年・ジーク。
片や、レグニア領最強の盾と謳われる騎士、クレイグ・フォルテン。
「武器の制限はない。だが、手加減は不要だ」
クレイグの低く太い声が響いた。
その一言だけで、観客の誰かが息を呑む。
ジークは静かに木剣を構える。
細い指が柄を強く握り、汗が滲んでいた。
(落ち着け……ビビるな……。試練なんて、今までだって――)
だが、目の前に立つ男の“圧”に、喉が詰まりそうになる。
ただ立っているだけで、地面ごと押し潰されそうな威圧感。
それは、“力”の差という現実だった。
「――始め!」
掛け声と同時に、ジークが駆け出す。
踏み込み、真っ直ぐに突きを放つ――
だが。
「遅い」
クレイグの一言。
その木剣が軽く振るわれ、ジークの剣は弾かれた。
体が吹き飛び、地面に転がる。
鈍い音が場内に響く。
手をついたまま、ジークは荒く息を吐く。
視界が揺れ、木剣は遠くに転がっていた。
それでも――顔を上げた。
「……まだ、だ……」
泥と汗にまみれた顔に、悔しさと闘志が宿る。
(あいつが言った。俺の剣に賭けてみたいって。……あの一言が、俺を変えた)
乾いた風が、砂埃を巻き上げる。
ジークは這うようにして剣を拾う。
息は荒く、体中が悲鳴を上げる。
それでも、前を見据えていた。
「まだ立ち上がるか、少年。……実に、無謀だな」
クレイグの冷たい声が響く。
その所作には、一切の油断も焦りもない。
ただ、淡々と“任務”を遂行する厳しさだけがあった。
「……立たなきゃ、終わりだ……!」
歯を食いしばり、ジークはふらつきながら立ち上がる。
観客席から笑い声が飛ぶ。
「なんだ、あの程度か?」
「やっぱり、貧民の出じゃ無理よ」
「領主様のご子息も、見る目がないな」
嘲りの声が、鋭く刺さる。
だが、ジークの目に怒りはなかった。
あったのは、ただ悔しさ。――いや、惨めさだった。
(俺は……もう戻らねぇ)
泥にまみれ、叩きつけられてきた日々。
何度も奪われた“誇り”を、今ここでようやく掴もうとしている。
だから――立ち上がる。
踏み込んで、剣を振るう。
力も重心もバラバラ。だが、渾身の一撃。
しかし。
「貴殿の剣筋、軽いな。思いも技も……未熟」
木剣が音もなく振るわれ、ジークの剣は弾かれた。
次の瞬間、腹に一撃。
「ぐっ……!」
地面に叩きつけられ、土煙が舞う。
視界がかすみ、肺が焼けつくように痛む。
それでも、ジークの手は剣を握っていた。
まだ――終わっていない。
クレイグが静かに歩み寄る。
「立派な執念だ。だが、誇りだけでは戦場を渡れん」
ジークは動かない。観客席から失笑が漏れる。
「終わったな。やはり話にならん」
「無駄だったな……」
審判が歩み出る。
これ以上は試合ではない。
止めようとした、その時――
「……ま、だ……」
かすれた声が、風に紛れて届いた。
ジークの指が、かすかに地を掴んでいる。
「……まだ、終わってねぇ……!」
泥と血にまみれた顔が、ゆっくりと上がる。
歯を食いしばり、膝に力を込めて――立った。
今にも崩れそうな足取り。
それでも、その足は確かに地を踏んでいた。
観客のざわめきが、一瞬止まる。
審判が足を止めた。
ジークは剣を握っていた。
その姿は――勝ち目のない戦いに挑む、“戦士”だった。
再び立ち上がったジークに、場の空気がざわつく。
その体は今にも崩れそうで、木剣を握る手も震えていた。血と泥にまみれ、息も荒い。それでも彼は前を見ていた。目の前にそびえる、圧倒的な存在――クレイグへと。
「……まだ、やれるのか」
クレイグが一歩、また一歩と歩を進める。 その気配は静かだが、ひたひたと死を告げる鐘のような重みがあった。
だがジークは退かない。踏みとどまる。震える手で剣を構え、浅く息を吸い込んだ。
(届かなくてもいい……。せめて、俺の全てを、この一撃に込める)
足元の地を蹴った。 重心が崩れ、体が揺れながらも、ジークは駆けた。最初の一歩はよろめき、二歩目でバランスを崩しそうになる。それでも、三歩目で体勢を立て直す。
渾身の気迫が、まるで霞のように剣先に集まる。
クレイグが木剣を構え直した瞬間――ジークの剣が閃いた。
その一撃は未熟で、軌道も甘かった。だが、わずかに、ほんの紙一重の距離で――
「……!」
クレイグの頬に、一筋の血がにじむ。
観客のざわめきが止まった。 誰もが目を疑った。あの“鉄壁の盾”に、刃が届いたのだ。
クレイグの目がわずかに細められる。 静かに、しかし確かに、彼は一歩後退した。
ジークはもう剣を握っていなかった。すべてを使い果たしたように、そのまま力なく前のめりに倒れ――地面に沈んだ。
訓練場に沈黙が満ちていた。
ジークは地面に伏したまま、動かない。彼の呼吸は浅く、肩がわずかに上下しているだけだった。
クレイグはその姿を見下ろし、しばし黙っていた。
静かに木剣を下ろし、背筋を伸ばす。 そして――
「見事だった、少年」
その言葉は、誰よりも重く、誰よりも静かだった。
「誇りを貫き、恐怖を乗り越え、己の限界を超えて一撃を放った……。剣の技量では到底及ばぬ。だが、戦士としての魂に、偽りはなかった」
観客たちが、言葉を失う。
「今ここに、貴殿を“戦士”として認めよう」
クレイグは剣を胸元で立て、まっすぐに礼を取った。
敬意のこもったその所作に、訓練場に再び風が吹いたような感覚が走る。
「……フッ、やれやれ。これだから若者の底力は侮れん」
審判がそっと駆け寄り、倒れたジークの容態を確かめる。
その背を、クレイグは静かに見つめていた。 その眼差しに浮かぶのは、称賛、敬意、そして――わずかな微笑。
「貴殿がこの先、どこまで登るのか……少し、楽しみだな」
そう言葉を落とし、クレイグはその場から静かに去っていった。
白い天井が、ぼんやりと視界に映る。
鼻をくすぐる薬草の匂い。体は鉛のように重く、あちこちが鈍く痛んでいた。
それでも、どこか不思議と心は静かだった。
(……俺、まだ生きてる……か)
朧げな意識の中で、訓練場の記憶がよみがえる。
圧倒的な壁。何度も倒され、それでも立ち上がったこと。そして最後に放った、一撃。
「やっと起きたね」
ふと、低く、穏やかな声が響いた。
横を向くと、椅子に腰掛けたレイブンがいた。窓から差し込む夕陽に照らされ、銀の髪が淡く光っている。
「無茶しすぎだろ。君は……いや、ジーク」
その声はいつもの落ち着きより少しだけ低く、しかしどこか優しさを帯びていた。
ジークはかすかに笑みを浮かべる。
「……なぁ、俺……少しは……やれたか?」
その問いに、レイブンは少しだけ目を伏せてから、ゆっくりと頷いた。
「ああ。君の一撃……間違いなく届いた。クレイグに、ちゃんと傷を残したよ。誰がなんと言おうと、君は……すごいよ」
ジークは目を閉じて、深く息を吐いた。
その表情には、痛みに耐えるようなものはもうなかった。
「なら……やってよかった」
レイブンは立ち上がり、ベッドの横まで歩いてきた。
「ジーク、僕……お前の戦い、ずっと見てた。お前の意地とか根性とか、そういうのだけじゃない。……君の“想い”が剣に出てた。だから……ありがとう」
そう言って、レイブンはほんの少し、口元に笑みを浮かべた。
ジークは目を閉じたまま、かすれた声でつぶやく。
「礼を言うのは……俺の方、だっての……」
その言葉に、レイブンは小さくうなずいた。
「……そっか」
しばらくその場に立ち尽くしたあと、レイブンは扉の方へ向かう。
「じゃあ、僕……父上にもう一度話をしてくる。お前の戦いのこと、ちゃんと伝えるから」
そう言い残し、レイブンは静かに部屋を後にした。
扉が閉まり、再び静けさが戻る。
窓の外、夕陽の空に一羽の鳥が、静かに羽ばたいていった。