決戦前夜
クレイグ・フォルテンに挑む――か」
その夜、ジークは静かな裏庭に立っていた。辺りには人影はない。ただ、月だけが彼の背を照らしていた。
手には、いつもの粗末な練習用の木剣。何度も補修を重ねたその柄には、小さなひびが幾つも入っている。
「……バカだよな、ほんとに」
ぽつりとこぼしたその声は、夜風に溶けて消えた。
――まだ幼かった頃。
ジークはスラムのはずれで、毎日生きることに精一杯だった。親は早くに死に、仲間も次々に姿を消した。盗みや物乞いをして、その日を生き延びるだけの毎日。
そんな中、たまたま見かけたのが、訓練場で剣を振る兵士たちの姿だった。
無駄のない動き、重みのある打ち合い、鋭い眼光――
それを見た瞬間、心の奥に火が灯った。
「強くなれたら……何か、変わるんじゃねぇか」
そう思って、廃材で作った木の棒を握りしめ、見様見真似で剣の形を真似し始めた。誰に教えられたわけでもない。誰に褒められるわけでもない。
ただ、毎日、振り続けた。
けれど。
(現実は、変わらなかった)
どれだけ振っても腹は満たされず、誰にも見向きもされなかった。飢え、寒さ、孤独――力では何も救えなかった。
(それでも、やめなかったのは……)
誰かに必要とされたい、認められたい。
それだけが、自分を繋ぎ止めていた。
そして今――初めて、自分を“必要だ”と言ってくれる奴が現れた。
「レイブン……本当に、信じてくれてんだな」
ふっと息を吐き、木剣を構える。
構えはまだ粗く、足運びも雑だ。それでも、彼の剣には、“何かを掴みたい”という本気が宿っていた。
(やってやる。泥水啜って生きてきた俺が、どれだけやれるか見せてやる……!)
その晩、ジークは眠ることなく、朝まで剣を振り続けた。
指が裂け、足がふらついても、決してやめなかった。
何度倒れても、起き上がって――ただ、ひたすらに、剣を振るった。
その姿は、誰も見ていなかった。
けれどその決意は、確かに明日へ繋がっていく――
決戦の鐘が、刻一刻と近づいていた。
試験当日の訓練場の脇庭に重厚な足音が響いた。
甲冑をまとい、鋼のような体格の男――レグニア最強の剣士、クレイグ・フォルテンである。
その堂々たる風格に、周囲の兵士たちも思わず直立した。
「お呼びとあらば、いつでも参ります、領主殿」
クレイグは中庭に現れたアルベルトへと一礼する。
アルベルトは窓辺に立ち、庭を見下ろしていたが、ゆっくりと振り返って口を開いた。
「クレイグ。今回の試験の相手をお前に頼んだのは、理由がある」
「……その子供の力を試すために?」
「いや、力だけではない」
重々しい口調で、アルベルトは一歩前に出た。
その視線の先には、これから試される少年――ジークの姿が見えていた。
「彼は名もなき貧民の子だ。家柄も、教育もない。だが、我が息子レイブンが自ら“仲間”と選んだ」
「……それだけで家臣に?」
「だからこそ、試す必要がある。お前の剣をもって」
「なるほど。倒さずとも、一撃を届かせれば、ということか」
「そうだ。“本物”ならば、どれだけ劣勢でも、意志を宿した一太刀が放てる。それを見たい」
クレイグはわずかに口元をほころばせた。
「……理不尽な戦場をくぐり抜けてきた者にしか語れぬ言葉ですな」
「ならば頼んだ、クレイグ。あの少年が放つ一撃が“届く”かを見てくれ」
「御意」
クレイグは静かに頭を下げると、訓練場へと向かっていった。
アルベルトは彼の背を見送りながら、そっと胸中で呟いた。
(突破できるはずがない。それでも――)
(お前の信じた可能性を、私も見届けよう)
――――――――――――――
訓練場の片隅、朝靄の残る空気の中、ジークは静かに腰を下ろしていた。
手には自分の背丈ほどもある木剣。指先は緊張でわずかに震えている。
その様子を見て、レイブンはそっと近づいた。
「ジーク、大丈夫か?」
声をかけられても、ジークはしばらく黙ったままだった。
やがて、ポツリと口を開いた。
「なあレイブン……あんたの親父、やっぱり俺のことを試す気なんてなかったんじゃねえか?」
レイブンは眉を寄せた。
「どういう意味だ?」
「試験って言っても、相手は“レグニア最強”だぞ? 俺がどれだけ努力してきたって、勝てるわけねぇ。……つまり、最初から“無理です”って言わせたかったんだろ?」
ジークは苦笑を浮かべたが、それはどこか悔しさを押し殺すような、歯を食いしばる笑いだった。
「貧民上がりのガキが“家臣になりたい”なんて、ちゃんちゃらおかしいってさ……。わかってた。けど……」
拳を強く握りしめる。
その手の甲に、血管が浮き出ていた。
「俺、本気であんたの言葉、信じちまったんだよ。仲間がほしいって、そう言ってくれた、あんたのことを」
レイブンはその言葉に、強くうなずいた。
「それは嘘じゃない。俺は本気で、君を仲間にしたいと思ってる。ジーク、君の剣にかけてみたいって」
「……じゃあ、なんであんな試験なんだよ」
「わからない。けど……」
レイブンは静かに視線を訓練場の中央へ向けた。
そこに立つのは、鋼鉄のような体格をした騎士、クレイグ・フォルテン。
その姿は、まるで岩山のような圧迫感を放っていた。
「確かに、勝てる相手じゃない。だけど……何もせずに諦めるのは、君らしくない」
ジークは視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
だがやがて、わずかに顔を上げる。
「……いつだって、俺は立ち向かうしかなかった。路地裏の喧嘩だって、空腹だって、誰も助けてくれなかった。全部、自分で何とかするしかなかった」
そして、ゆっくりと立ち上がる。
「だったら、今さら一人じゃないって思えただけで……」
ジークは握った木剣を肩に担ぎ、いつものようににやりと笑った。
「こんな試験、逃げる理由にはならねぇな」
レイブンもその笑みに応えるように、静かに頷いた。
「行こう。君の剣を、見せてくれ」
二人は並んで、訓練場の中央へと歩みを進めた。
だがこのとき、ジークはまだ知らなかった。
その場に立つだけで膝が震えるような、圧倒的な“本物の力”が、そこに待ち受けていることを――。