勝利と向かい風
レグニアのアルゼノートへの勝利は、瞬く間に大陸全土を駆け巡った。
軍事大国アルゼノート――広大な国土に育まれた膨大な兵力と、連戦を誇る老練な将軍たち。対するレグニアは、確かに経済力こそ他国を凌駕していたが、兵の数は少なく、守るべき地も多かった。
誰もが思っていた。勝つのはアルゼノートだと。勝って当然だと。
だが、結果は覆った。
その報せは、まるで時代の潮目が変わったかのような衝撃を伴って、各地の玉座と戦場を震わせた。
「小国レグニアが、アルゼノートを退けた……?」
懐疑、警戒、羨望、そして恐れ。
大陸は、レグニアという名を、もはや軽んじることはできなくなった。
レグニアの勝利を受け、大陸諸国による「アルゼノート戦後会議」が発足した。
大国グリディア帝国をはじめ、諸侯連邦、辺境の軍事国家までもが使節を送り込み、戦後処理と今後の均衡をめぐって激しい議論が交わされた。
その場で最も注目を集めたのは、敗れたアルゼノートへの処分案だった。
レグニア代表団の主張は明確だった。
「この戦いは我らへの明確な侵略である。よって、相応の償いを求める」
討議の末、アルゼノートは国土の半分――特に戦略価値の高い南部の港湾都市群と、鉱山地帯を含む内陸部を――レグニアに割譲することとなった。
さらに賠償金の支払いも命じられ、これによりレグニアは実質的に、軍事・経済の両面で一段と影響力を高めることとなる。
かつて大国の威を誇ったアルゼノートは、いまや会議の場においても冷ややかな視線を浴び、かつての同盟国からさえ距離を置かれる存在へと転落していた。
会議が終わろうとした、そのときだった。
ひときわ重々しい声が、場の空気を静かに切り裂くように響いた。
「……少々、待っていただきたい」
声の主は、北方の大国――ザイン帝国の王、フー=トルストイ。
広大な氷雪の大地を治める、亜人種・エルフの王にして、大陸でも屈指の魔法工学国家の頂点。冷寒地帯でありながら膨大な人口と強大な軍事力を誇る、まさに“北の巨人”と呼ぶにふさわしい国の主である。
議長が眉をひそめ、声をかける。
「……どうされましたか、フー国王?」
トルストイは、鋭くも静かな目をアルベルトに向け、言った。
「先ほどの――アルゼノートの港湾の割譲について、ですな。……少々、やりすぎではありませんか?」
その声は低く、重い。けれど、紛れもなく敵意が含まれていた。
会場の空気が、途端に凍りつく。
「……あの港は、アルゼノートにとって重要な交易拠点です。我々ザインとも深く結びついている。いくら先に手を出した側とはいえ、ここまで国力を削るとなると……均衡を乱す引き金になりかねませんな」
それは、レグニアの急成長に対する明確な牽制だった。
だが――
「お言葉ですが、フー国王」
立ち上がったのは、レグニア領主・アルベルト。
端正な顔に怒りは浮かべず、しかし、その声には一分の迷いもなかった。
「我々は、侵略を受けました。民は傷つき、街は焼かれ、戦士たちは命を賭して国を守ったのです。これで報いが足りるとは……とても思えませんな」
一歩も引かぬ姿勢で、大国に堂々と意見をぶつける。
会場の視線が集まる中、トルストイは目を細め、ふっと口の端を上げた。
「……なるほど。勝って少々気が大きくなっている、というわけですか。アルゼノートに勝ったからといって、まるで覇者にでもなったつもりではないでしょうな?」
会議の空気は一層張り詰め、次の言葉ひとつで火花が散りそうな緊張が走る。
そして、トルストイは静かに言葉を付け加えた。
「……まさかとは思いますが。北の風まで、相手にするおつもりではないでしょうね?」
アルベルトは、わずかに唇を噛んだ。
アルゼノートとの戦争直後。いや――たとえ万全であったとしても、ザイン帝国と真っ向から戦って勝つことなど、ほぼ不可能に等しい。
そして、フー=トルストイの言葉は、“宣戦布告”ではなく“警告”だった。
それが、なおさら厄介だった。
――ここで引くしかない。
静かに息をついたアルベルトは、わずかに頷き、言葉を呑んだ。
それを見て、トルストイは満足そうに目を細めた。
こうして、会議は収束する。
最終的に決定されたのは、アルゼノートの領土半分の割譲――ただし港湾部は除外――と、巨額の賠償金。
アルベルトにとっては悔しさの残る決着だったが、それでも大陸におけるレグニアの地位は確かに変わった。
一つの戦争は終わった。だが、大陸の緊張は、今まさに高まり始めていた――。
冷たい風が、馬車の窓を叩いていた。
会議を終えたアルベルトの瞳には、疲労と――ほんのわずかな、悔しさの色が滲んでいた。
「……港は、取れなかったか」
そう呟いたのは、従者のひとり。
だがアルベルトは、それに首を振った。
「いや。得たものは大きい。我らの存在を、大陸に知らしめるには十分だった」
言葉に力はあったが、その瞳の奥には、まだ燻るものがあった。
それでも、今は前を向くしかない――そう自らに言い聞かせるように、アルベルトは城の門をくぐった。
•
「お帰りなさいませ、父上!」
真っ先に駆け寄ってきたのは、銀髪の少年――レイブンだった。
整えられた制服に、真っ直ぐな瞳。
幼さを残しながらも、その佇まいは堂々たるものだった。
「……ああ、ただいま戻った。留守を頼んだな、レイブン」
「はい。大きな混乱もなく、政も軍も予定通り進めております」
「ふふ……生意気なことを言うようになったな」
アルベルトは軽く笑い、そっとレイブンの頭に手を置いた。
どこか、肩の力が抜けるような、そんな温かい空気がそこにあった。
その後ろから、もうひとりの少年がゆっくりと歩み出る。
「……おかえり、領主様」
そう言って頭を下げたのは、レグニアの新たな“戦士”――ジーク。
未だ粗削りなその動きの奥に、確かな誇りと覚悟が宿っている。
「うん。ジーク、しっかりと見守ってくれていたようだな」
「まあな。……あんたが死んだら、こっちが困るし」
どこかそっけなく言いながらも、ジークの目には確かな信頼が浮かんでいた。
アルベルトはその様子にわずかに笑い、冗談めかして口を開いた。
「ふむ、言葉遣いは少々粗いな。武芸だけでなく、言葉も学ばなくてはならんぞ?」
「うっ……また覚えることが増えたな」
そう言いつつも、ジークの頬はどこか緩んでいた。
戦の炎から、外交の駆け引きへ――
その果てに得た一時の平穏を、彼らは今、胸に噛みしめていた。
そんなやり取りに、レイブンもどこか楽しげな目をしていた。
けれどその時、ふと一歩、後ろから現れた少女の気配に空気が変わる。
静かに、だが油断なく歩み出てきたのは――短い白い髪と鋭い眼光を持つ少女、オルクスだった。
「……君が、オルクスか」
アルベルトは彼女に視線を向けると、口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「うちの跡取りを殺しに来た……とか?」
一瞬、場の空気がぴしりと凍る。
だがオルクスはその鋭い視線を逸らさず、苦々しく答える。
「その件は、その……」
「ふっ、冗談だ。クレイグから聞き及んでいるぞ。相当な手練だとか」
そう言ってアルベルトは肩を竦める。
重苦しい気配は一気に和らぎ、オルクスも少しだけ眉を緩めた。
「どうする? 明日はアルゼノートとの再交渉もある。君があちらに戻るというなら、馬も用意しよう。あるいは……」
「それは……まだ、決めていません」
「うむ。いずれにせよ、自らの選択に悔いを残さぬようにな。道を選ぶのは、君自身だ」
そう言って彼女を静かに見つめたあと、アルベルトはレイブンたちに目を向けた。
「三人とも、怪我が治って何よりだ。レイブン、ジーク……よくやった。お前たちがいなければ、この戦――我らは負けていたやもしれん」
不器用な賛辞だった。けれどその声には、確かな感謝が込められていた。
だからこそ、レイブンは小さく頷き、ジークは目をそらしながらも、誇らしげに背筋を伸ばした。
少女の暗い過去も、少年たちの戦いも、少しずつ交差し、ひとつの道へと繋がっていく。
それが、どんな未来へと続いていくのかは――まだ誰にも、分からなかった。