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終幕

空は淡い藍に染まり、遠く地平に陽が昇り始めている。

重く冷たい空気の中、本陣には戦の熱気が静かに満ち始めていた。


カイルは地図の前に立ち、ゆっくりと軍帽を副官に預けた。

その表情は硬く、しかし迷いはない。


昨夜、メルノリーとクベル独立領の脱退報がもたらされた。

あの時こそ参謀たちは動揺を隠せなかったが、カイルは一晩で結論を出していた。


「諸君。もはや三国同盟は存在しない。敵はレグニア一国、我らもまたアルゼノート一国の戦いだ」


幕舎の中、静寂が広がる。


「だが……それがどうした」


彼の声が響く。


「レグニアは確かに侮れぬ。アルベルトの指揮も、騎士たちの士気も高い。だが我らは、既にあの堅牢な三つの砦を落とした。道は開いている。奴らの華やかな装備より、我らの刃のほうが鋭いと証明してきたはずだ」


参謀たちが静かに頷きはじめる。


「むしろ好機だ。余計な駆け引きも、調整もいらぬ。純粋な軍と軍のぶつかり合い――それこそ、我が軍の本領よ」


副官が進み出る。


「カイル様、進軍の時刻は?」


「今から二刻後。右翼の第三遊撃隊には森を抜けさせ、敵の補給路を断つ。中央部隊はこのまま正面突破を図りレグニアとの国境の要、中央砦を潰す。アルベルトに考える暇を与えるな。今が叩き潰す好機だ」


カイルは地図の一点、レグニア本陣の位置を指で押さえた。


「――アルベルト。お前がどれほどの名将だろうと、数に勝る我がアルゼノートに勝てると思うなよ」


地図を背にし、彼は軍旗の下へと歩き出す。


その背には迷いもなければ、逃げ道もない。

ただ、誇りと決意を背負い、戦場へと進む将の姿があった。








雲間から差す斜陽が、草原に長い影を落とす。


高地に張られた陣幕の前、アルベルトは無言で対岸を見つめていた。遥か地平の先、アルゼノートの旗がかすかに揺れている。


「……三つの砦が、すでに落とされたか」


低く、押し殺したような声が漏れる。


「想定以上に早いな……。カイルめ、兵の動かし方が変わった。まるで、枷が外れたかのようだ」


その瞳にはわずかに光る警戒が宿っていた。

慎重すぎるとさえ言われる男が、明らかに“何か”を感じ取っていた。


軍勢は静かに、だが着実に包囲の布陣を整えつつある。



そこへ二騎の馬が、砂煙を上げて天幕前に辿り着いた。

従者に導かれ、使者たちは馬を下りる。一人は濃緑の衣をまとうメルノリーの文官、もう一人は褐色の軽装を纏ったクベル独立領の外交使。互いに目を合わせることもなく、緊張が滲む。


「領主様、メルノリー、ならびにクベル独立領より使者が参りました」


アルベルトは頷き、一歩前へ出る。


「申せ。もはや時節のあいさつは要らんだろう」


メルノリーの文官が口を開く。


「……我が国、メルノリーは、本日をもって三国同盟からの脱退を正式に決定しました。軍は既に後退を始めております」


続いてクベルの使者が頭を下げる。


「我らクベルも、もはやこの戦には関与しません。アルゼノートの単独行動には同意しかねます。よって、レグニアとの間に和平を結ぶべく、参上いたしました」


場が静まり返る。風が幌を揺らす音だけが響く。


アルベルトは、両者をじっと見つめた後、淡々と口を開いた。


「――つまり、敵はアルゼノート一国。お前たちは手を引く。そういうことだな」


二人の使者が頷く。


「……なるほど、分かった」


彼は背後の副官に言う。


「本陣に戻れ。文官を呼べ。和睦の形式を整える準備をしておけ。だが――」


その声が鋭くなる。


「油断はするな。使者が来たからといって、背後に牙が潜んでいないとは限らん」


副官が頷いて去る。


そして、アルベルトはもう一度、空を見上げた。

この戦は、思わぬかたちで風向きを変えた。だがそれは、好機であると同時に、思考を止めた者から喰われる局面でもある。


「……さあ、アルゼノート。どう動く?」


雲が裂けるように鳴った雷鳴のあと、ぽつりと、冷たい雫が肩に落ちた。


やがてそれは無数に変わり、草原を濡らし、空気を重たく塗り替えてゆく。

幕舎の外、兵たちは無言のまま整列し、空を仰いだ。


誰も言葉にしないが、皆が感じていた――何かが、変わる時だと。


アルベルトは天を見上げ、濡れたマントを払いながら、一歩、前へ出た。


「……時は来た」


その声は静かであったが、まるで雷鳴のように陣中に響いた。


「全軍、進軍開始――!」


号令と共に、旗が翻る。太鼓が打ち鳴らされ、戦の刻が鳴り響く。


馬の嘶き、兵の足音、武器の音――雨音と共鳴しながら、レグニアの軍が動き出した。


冷たい雨が顔を打つ。だが、この冷たさは嫌いではない。

むしろ、火照った思考を冷ますにはちょうどいい。


(レイブン……お前の策に、賭けてみよう)


思わず口の中で呟いていた。

無謀と言われたこの進軍、だがレイブンだけは違った目で全体を見ていた。


――あの会議を、俺は忘れん。



――――――――――――――――――――――


 「……三国同盟の話はまだ確定したわけではありません。けれど、それを前提とした作戦ではなく、“もしもの備え”と捉えてください」


そう言ったのは、まだ幼さの残る少年だった。


――レイブン。わずか六歳。だがその瞳は、どの老将より深く、冷たく、そして理知的だった。


アルベルトは重々しくうなずく。


「話してみよ。どんな“備え”だ?」


レイブンは静かに立ち上がると、広げられた作戦地図の中央――山間のラインに指を滑らせた。


「アルゼノートがこちらに攻めてくるとすれば、選択肢はほぼ一つです。山を越える、一本道。他に道はありません」


「……あそこは地形が悪い。足場もぬかるみやすい。普通の軍なら躊躇するが……」


「はい。ですが、アルゼノートは数を活かす国です。躊躇などせず、正面からぶつかってきます。砦を順に叩いて、真っ直ぐ中央へと押し寄せるでしょう」


レイブンの指が、中央砦を示した。


「我々は、その“中央砦”を囮にします。旗を掲げ、あたかも守っているように見せかけながら、実際には兵を極限まで減らす。そして……敵を、山間に誘い込むのです」


その場にいた全ての将が息を呑んだ。


「敵がその山間部に入った瞬間、レグニア全軍をもって叩きます。狙いは一点――カイルの首です」


「無謀だな。失敗すれば、一気に中枢まで攻め込まれるぞ」


ある老将が口を挟んだ。だが、レイブンの声は微動だにせず、むしろ冷ややかだった。


「無謀かどうかは、条件次第です。地形。天候。そして敵の性質。――すべてが、我々に味方する可能性がある」


レイブンは言った。


「アルゼノートは、晴れた空の下かつ平原など開けた土地での歩兵戦でこそ強い国。けれど、山の中雨に濡れ、霧に包まれれば……その“大軍”は、ただの“混乱した集団”に変わります」


沈黙。


だが、その静寂の中で、アルベルトは確かに感じていた。少年の中にある、確固たる理と計算。希望などではない。これは――勝てると読んでいる者の声だった。


アルベルトは静かに、だが力強く言葉を返した。


「よかろう。その策、我が軍の矛先としよう」



―――――――――――――――――――――






 山間の砦――そのさらに上手、霧と木々に隠された尾根の上。アルベルトは馬上から、ゆっくりと迫る黒い波を見下ろしていた。


 「まだだ……まだ引きつけろ」


 その声は低く、誰よりも自らを戒めるような静けさを含んでいた。


 眼下を見れば、アルゼノート軍の先鋒が既に砦前の谷へと入り込んでいた。馬が泥に足を取られ、兵たちの列は次第に伸び、そして歪に崩れ始めている。


 「……来たな」


 小雨が、いつの間にか豪雨に変わっていた。地面はぬかるみ、視界は霧に霞んでいる。山を登るだけで消耗した兵たちが、互いの姿すら見失いながら進むその様子は、まさに“混乱した集団”だった。


 「敵将・カイル、中央列の中腹。あれが首だな……」


 老練な副将が呟く。アルベルトは頷いた。だが彼の脳裏に浮かんでいるのは、あの幼い少年の言葉だった。


 ――「狙いは一点、カイルの首です」


 冷徹にして的確。それは夢物語などではなく、理詰めの現実だった。


 「……よかろう」


 アルベルトはゆっくりと軍旗を振り上げる。


 「全軍、突撃――!」


 雷鳴が轟いた。まるで天が号令に応じるかのように。


 霧を切り裂き、泥を蹴り上げ、レグニアの軍勢が一斉に尾根から雪崩れ込む。その刃の群れは、一点――敵将カイルのもとへとまっすぐに。


 「――一撃で、決めろ!」


 アルベルトの声は、風雨を突き抜けて戦場を駆けた。






 足場の悪い山道を進む軍の列の中、カイルは輿に揺られながら、濡れた窓越しに視界を細めていた。部下がぬかるみで転倒し、馬の嘶きがあちこちで響いていたが、彼の顔に焦燥の色はなかった。ただ、不機嫌そうに眉をひそめていた。


 「まったく……クローディアめ、まさかメルノリーの間者だったとはな」


 カイルは唾を吐くように言った。


 「三国同盟が決まった時は、あれほど結束を誓ったというのに……裏切りの国だ。いや、あれは最初からそのつもりだったのか」


 雨が強まる中、傘を差し掛ける従者に目もくれず、彼は続けた。


 「レグニアの後はメルノリーも手を打たねばなるまい。それにクベル……あの腰抜けどもも、何だ。メルノリーが抜けたとたん“自分たちも撤退する”などと……芯のない国め。たかが一国が抜けたくらいで、なぜ我が軍の勝利を疑う?」


 彼の言葉に、近くの従者が曖昧に頷く。


 「勝つのは我々アルゼノートだ。この戦でレグニアを潰し、その財を手にすれば……あとは平野の覇者たる我が国が、北域すら掌握する。誰にも止められぬ。メルノリーも、クベルも、いずれ土下座して頭を垂れることになるだろう」


 その時だった。


 遠く、雷鳴とは違う――乾いた音が耳を打った。


 風を裂くような咆哮。


 そして、霧の中から――斜面の上方から――無数の蹄音が、地を鳴らした。


 「……っ、何だ?」


 カイルが顔を上げた瞬間、その視界に、黒き軍旗が見えた。


 “レグニア”――。


 その名が喉をつく前に、彼の幕舎の外で、誰かが叫んだ。


 「――敵襲ッ! 尾根上より! レグニア軍、奇襲ッ!!」


 「な……に……?」


 唖然としたまま立ち上がったカイルの瞳に、ついにそれが映る。


 霧を突き破るように迫りくる、レグニアの精鋭――その全軍が、自分めがけて突き進んでくる様を。


 「先鋒の軍は何をしている! 陣形を整えて迎え撃たんかっ!」


 カイルの怒号が、雨にかき消されながら響いた。だが、誰も動けなかった。いや――動こうとしても、動ける状況ではなかった。


 滑る地面、濃霧、激しい雨。各隊の指揮は寸断され、伝令の声も通らない。兵たちは進むべきか留まるべきか判断もつかず、ただ混乱の渦の中で叫び合っていた。


 「奇襲とは卑怯な手を……! 全軍、命をかけてカイル様を守れ!」


 副将が声を張り上げる。しかし、声だけでは兵は動かなかった。


 ぬかるみに足を取られ、互いの隊列を認識できぬ中、レグニアの軍勢だけが“一点”を見据えて動いていた。そう――カイルの首。それこそが、ただ一つの目標。


 尾根から飛び出した彼らはまさに一条の雷であった。


 人の壁を、まるで紙のように貫いていく。


 「止めろッ、止めろぉおお!!」


 叫ぶカイルの前で、護衛兵が次々と斬り伏せられていく。剣が、槍が、悲鳴が、豪雨の中で交差する。


 レグニア軍の先頭――鋭く突き出された剣を振るい、まっすぐに突き進む男の瞳は、迷い一つなかった。


 「カイル様っ、退避を――!」


 従者の叫びも空しく、豪雨の帳を裂き、馬上のカイルへと迫る。


 「く、来るな……来るなァッ!!」




 瞬間、すべてが静止したかのような一瞬。


 霧と雨に包まれたその空間に、カイルの絶叫が消えた。


 「カイル・アルゼノート――覚悟っ!!」


 叫びとともに、レグニアの兵士が馬上のカイルへと飛び込んだ。その鎧は泥にまみれていたが、その瞳は獣のように鋭く、獲物を決して逃がさぬ決意に燃えていた。


 「やめろッ、近づくなァッ!!」


 カイルが腰の剣を抜こうとする――が、手は震え、柄にすら届かない。


 ドンッ――


 鋭く踏み込んだレグニア兵が、彼を地面に押し倒した。背後では、護衛兵たちの叫びが上がるも、すでに遅い。背を貫くように、敵軍の突撃が続いていた。


 「っ、貴様……名を、名を名乗れぇ……!」


 雨に濡れた顔をゆがめ、地面に這いつくばりながらカイルが喚く。


 しかしその兵士は、剣を振りかざしたまま、一言だけ低く告げた。


 「……名などいらぬ。我ら皆、レグニアの矛なり」


 振り下ろされた刃が、豪雨の中に閃いた。


 次の瞬間、山中に響いたのは、剣の音でも叫び声でもない――ただ、雷鳴とともに、カイル・アルゼノートという男の最期を告げる、静かな“終わり”の音だった。



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